おやじのつぶやき

不動産会社を経営する今年53歳のおやじが日本国を憂い仕事・趣味・健康などをテーマに日々つぶやきます・・・・

憲法公布65年 9条改正し自衛隊を軍に

2011-11-03 | 憂国

早期に実現されることを切望する。

産経新聞 20111103 主張

 ■まずは「3分の2」規定緩和を

 憲法が公布されてから3日で65年を迎えた。目を向けたいのは、日本が主権国家として国民の安全と繁栄を守り抜くことができるのかである。

 尖閣諸島などへの中国の海洋進出や、ロシアの挑発的な行動が目につく中、国の守りは9年連続の防衛費削減もあり、危うさを増している。

 中国政府の海洋調査船や漁業監視船など公船が尖閣周辺の日本領海を侵犯しても、退去要請を繰り返すしかないというのが日本の現実である。

 非常時への準備のなさも、東日本大震災で明らかになった。

 これらのことは、有事を「想定外」として思考停止に陥っていた、戦後の国のありようを問いただしてもいる。

 ≪「当たり前の国」になれ≫

 当たり前の国家として、基本的な責務を果たしていくことが求められている。それには、警察予備隊発足61年の自衛隊を軍として位置づけ、国家の機能を取り戻すことが必要不可欠だ。

 占領下で制定された憲法の狙いは日本の非武装化だったが、もはや何の意味も持たず、国の弱体化の「元凶」になっている。

 国際社会では、軍について「指揮官の存在」「公然と武器を所持している」「交戦法規を守る」などの定義がある。自衛隊は、そのいずれも満たしている。

 それが「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする憲法9条によって、軍として認められていない。自衛権そのものは国家が生存していく自然権として持っていても、普通の国なら当然の主権を行使できないのだ。

 そのことにより、防衛政策や防衛力の強化は著しく制限されてきた。そのひとつが、専守防衛という防衛政策の基本方針の下で、自衛隊が運用されていることだ。

 相手の攻撃を受けて初めて必要最小限の防衛力を行使するというものだが、抑止力が機能しないのは明らかだ。

 国連平和維持活動(PKO)についても、他国の要員が攻撃を受けても、自衛隊が助けに行くことはできない。助けに行った場合、応戦することもありうるが、その場合は武力行使との一体化を禁じる憲法に抵触する-という政府解釈があるためだ。

 PKOでの武器使用は、任務遂行への妨害行為を排除するための抑制的なものであり、国際標準である。

 それを認めないようでは、他国の「戦友」や国際社会の信用を失いかねない。

 抑制的な防衛政策の下で、法体系の不備も深刻だ。

 日本は海洋国家でありながら、領海を守る法律がない。現状では中国の公船が日本の領海に居座った場合、海上保安庁の巡視船は退去を呼びかけるしかない。

 ≪領海守れる法の制定を≫

 これも「沿岸国は無害でない通航を防止するため、自国の領海内において必要な措置をとることができる」とする国連海洋法条約を、国内法に適用するのを怠ったことが大きい。領域警備法などの制定も必要だ。

 本紙は9月22日、「自立」と「相互協力」を両輪とする日米安保条約の再改定案を提言した。

 現行条約5条では、米国は日本の防衛義務を負うが、日本はその逆の義務はない。そうした「片務性」を解消し、両国の対等な義務と負担によって、日米共同行動を強化するのが柱だ。

 そうした安保再改定を実現するためにも、自衛隊を明確に軍と位置づけ、自存・自衛の防衛力を強めることが前提となる。

 憲法を「不磨の大典」として、一度も改正を行わずにきた大きな原因は、「衆参両院の各3分の2以上の賛成」という厳しい改正要件の存在だった。

 これに対し、民主、自民両党などの有志議員が「両院の過半数」に緩和するための「憲法96条改正を目指す議員連盟」を作り、賛同者が200人を超えるなど大きな広がりを見せている。

 憲法の各論でいきなり対立するのではなく、改正を妨げていた要件緩和を行ったうえで、具体的な論議に入っていこうという現実的で妥当な動きといえる。

 設置から4年以上経てメンバー構成が行われ、ようやく始動が可能になった衆参両院の憲法審査会でも、この課題に最優先で取り組んでほしい。


祝!! 文化の日

2011-11-03 | 憂国

 祝祭日には国旗「日の丸」を掲揚しましょう。

産経抄 20111102

 田山花袋の『田舎教師』は病死した青年教師の日記などをもとに明治の末、書かれている。その中に11月3日の天長節、つまり明治の天皇誕生日のことが出てくる。埼玉県北部、文字通りの田舎の小学校を舞台に一日の様子が詳しく描かれる。

 ▼先生や生徒、父兄、それに村の有力者らが晴れ着姿で集まり「君が代」などを歌う。子供たちはお菓子をもらって帰るが、先生や村長たちは茶話会に移り、さらに田んぼの中の料理屋での「2次会」に繰り出す。そこで校長と村長は今年の豊作について話しこむ。

 ▼菊の香が馥郁(ふくいく)として漂ってくるような季節感の中で、どこか浮き浮きとしたタッチである。地方の隅々に至るまで、天長節が楽しい行事として国民の生活に溶け込んでいたことをしのばせる。明治という時代の日本人の一体感のようなものをも感じさせる。

 ▼ちなみに明治の後、大正の天長節祝日はその3日前の10月31日だった。大正天皇の誕生日は本当は8月31日なのだが「暑くてお祝いする国民が大変だから」と2カ月遅らせたのだ。明治の天長節の雰囲気を引き継ぎたいという思いもあったのかもしれない。

 ▼その11月3日は当然のことながら、大正となって平日に戻った。だが「明治天皇やその時代をしのぶ日がほしい」という声が強まり、昭和2年「明治節」として復活した。それが戦後、GHQの意向で「文化の日」と変わり、今や祝日の名称としてはすっかり定着した。

 ▼だがせっかくそんな由来を持つ日である。どこかに『田舎教師』が描く明治という時代の活気や一体感を伝える日とならないものかと思う。「体育の日」にも書いたが、歴史や伝統を受け継ぐことに祝日の大きな意味がある。