○204『自然と人間の歴史・日本篇』農民一揆は止まず(美作元文一揆、作州農民騒動)

2017-08-07 17:50:45 | Weblog

204『自然と人間の歴史・日本篇』農民一揆は止まず(美作元文一揆、作州農民騒動)

 1727年(享保12年)5月、幕府は津山藩の石高を10万石から5万石に減らす。幕府は、津山藩領として残った以外の主だった地域を幕領とし、代官所の差配に置いて直接支配した。その当初の年貢率は「五公五民」であった。もう一方の津山松平氏による治世も、山中一揆の後、追ってだんだんと地固めがなされていく。4代を経過する頃には、財政を立て直すなど、藩政を改革しようという機運が出て来た。4代藩主の長孝が38歳で没した後には、その子、松平康哉が、1762年(宝暦12年)に11歳で家督を相続した。英明と言われた彼は、それから9年後の1771年(明和八年)には藩政改革に着手した。諮問役には、儒者大村荘助と飯室荘左衛門を頼りにした。彼は「新法」を唱え、庄屋制度の廃止などの改革をおこなったものの、その実は上がらなかった。
 1739年(元文4年)旧暦3月には、北方の隣国である鳥取城下の因幡(いなば)や伯耆(ほうき)でも百姓一揆が起こっていた。これを「因幡伯耆騒動(一揆)」と呼ぶ。
これに触発されてか、同じ年、1739年(元文4年)、今度は幕府の天領となっていた旧津山藩の一部地域、勝北郡(しょうぼくぐん)で百姓一揆が起きた。これを「勝北郡横仙(よこせん)一揆」、「勝北郡非人騒動」又は「美作元文一揆」と呼ぶ。
 この一揆は、前年の幕府の布告によって年貢率が「五公五民」から「六公四民」へと引き上げられた時期と重なる。気象も何やら怪しく、不作が続いたという記録も残っている。ついに堪忍袋の緒が切れた勝北郡北野村(奈義町)百姓の与(與)三衛門と藤九郎をリーダーとして横仙の農民たちが立ち上がった。そもそもの決起は、隣村の近藤村の百姓との連合にとどまっていた。それがしだいに横仙35か村(これには、是宗、宮内、北野、成松、高圓、久常、澤、柿?、勝加茂西中、新野西下村などが含まれる)に広がった。
 この一揆の発生場所となった勝北郡北野村に「西分」の地名があり、『角川地名辞典』には、この一揆の中心の一つであったところの北野村の経緯が、こう説明されている。
「西分(近世) 。江戸期~明治7年の村名美作国勝北郡のうち滝川上流域、滝山南麓に位置する享保6年北野村が町分と当村に分村して成立。なお、分村後も2村を合わせて北野村と示すこともある。幕府領村高は、「東作誌」には「北野村西分」と見え363石余、「天保郷帳」は北野村八三3石余のうち、「美作鏡」「旧高旧領」ともに「北野村西分」と見え363石余。「東作誌」では家数33・人数140。元文4年北野村百姓与三右衛門・藤九郎らが起こした元文勝北騒動は、横仙35か村3000名以上の農民が参加する大一揆となり、東分と当村の庄屋は御役取上となっている。倉敷県を経て、明治4年北条県に所属同7年滝本村の一部となる。」
 この一揆の顛末についてより簡単には、地誌である『東作誌』は、次のように伝えている。
 「元文四年巳未二月北野村藤九郎与右衛門等張本として、百姓等五百三十五人村数十三邑徒党して非人乞食に出て押て物を乞ふ是に依て頗る騒動に及ぶ(中略)三月四日に吉野勝北之頭分なる庄屋十五、六人見候て、其時御代官曽根五兵衛様御手代中丸清助殿より、集居申候場所罷越、彼是と宥め、取鎮め候様にいたし見申候得共、中々に承引不仕、却て敵対一両人にも礫に両疵付け申候。」
 要するに、生活に困窮した百姓たちが、大挙して富家に押し寄せ、飯米などを要求した、というのだ。それでは、同4日の農民たちの、豪農など富家に侵入しての財物の掠奪を伴う行動が、その数2千人(地方史辞典)とも3千人(『日本地名大辞典』)とも言われる。最終的には幕府が出てきて、大坂町奉行稲垣淡路守に命じて事件を裁断せしめる。同年旧暦10月23日、発起人の両人は大坂で死刑に処せられ、その外24人の主だった農民たちも追放処分となった。誠に、情け容赦はない措置であった。では、この百姓一揆がさほどに肥大化し、同時にまた先鋭化したのは、なぜであろうか。これについては諸説ある。
 この一揆の性格については、そこで、『津山市史』第4巻は、こう論評を加えているのを念頭に置かれたい。
 「この騒動は先に久米南条郡で観たような単なる物乞いではない。藤七の願書によれば、長百姓以下の中堅百姓の起こした「百姓一揆」である。(中略)二つ目の特徴は、非人の姿をして物乞いの形式を取っていることである。(中略)ここでいう非人の姿とは「野非人」の姿のことである。年貢を納められずに田畑を村に差し出し、一家離散して流浪する没落農民を村に差し出し、一家離散して流浪する没落農民や何かの理由で「欠落」(行方知れずになること)した人々は一定期間(津山藩では100日)村人が探し、見つからなければ人別長から抹消され、無籍となるのである(「帳外者」)。」
(『津山市史』第4巻4章、198ページ)
 この中で「非人の姿をして」とあるのは、具体的には百姓たちが当時の被差別者としての「非人」と呼称される人々を騙(かた)ろうとしたゆえであったろう。その時の「いでたち」の意味について、網野善氏は、長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆史料」を引き合いに、こう指摘しておられる。
 「(中略)そのさい二、三百人に及ぶ百姓たちは、みな「古笠、古みのを着し、荷俵をせなにおひ、俵の内に牛のつな一筋づ々」を入れていた。この服装は「非人○(そん)」ー非人の姿だったのであり、百姓たちは自ら「我らは当日の浚(しゅん)もならざる非人どもにて候」と名のり、一人につき一斗の米の貸与を求めている。この百姓たちが「天狗状」といわれる廻文によっておのずと集まり、取鎮めようとした庄屋たちに「石礫(いしつぶて)を打って悪口し、追い払ったことも興味深いが、なにより百姓たちが蓑・笠をつけ、俵を背負い、非人の姿をして行動をおこした事実に、ここでは注目しなくてはならない」(網野善彦著作集大十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008、256~257ページ) 
 続いて1746年(延享3年)の美作の地においては、重税に喘いでいた勝北郡と勝南郡の農民たちが、ついに四十与余国の地を捨て、伊勢神宮への参拝に向かったのであろうか。ねらいは農地を離れること、つまり逃散であり、大坂で幕府の知るところとなり、藩は、幕府に対し釈明するとともに、彼ら百姓たちの要求を取り入れざるをえなかった。京都大学の黒正巌は、事件のあらましをこう紹介している。
「この外、最も興味ある事件は一村のものがせ何処かへ逃散した事である。即ち延享三年(一七四六年)の冬、勝南郡稲穂村の庄屋等窮乏して租税を納むる事が出来ないので、遂に高四十余石の地をすてて逃散した旨が東作誌に記されて居る。之は農民の消極的抵抗であるが、勇敢なる農民一揆よりも一層痛しい感がある。一揆を起す丈けの力はない、起したにしてもその身は亡びるし、座して忍ぶも亦餓死するの外ないのでこの挙に出たものと思われる。先達て農民組合の杉山氏が京都大学での講演席上に於て、作州の農民が郷土をすてて死場所を伊勢に求め名を伊勢神宮に借りて家財一切を持て伊勢迄来たが、藤堂候の知る所となり、幕府に伝えてその善後策を講じた由を述べて居た。その出典を聞く事を出来なかったので、私自ら文献を漁ったがこの種の記録を見る事が出来なかったが、或いはこの連中かも知れぬ。」(黒正巌「作州の農民騒動」:京都帝国大学経済学会の経済論叢第22巻第4号、1926年)

(続く)

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