187の2*『自然と人間の歴史・世界篇』天草の農民一揆(1637~1638)

2019-01-03 20:40:26 | Weblog

187の2*『自然と人間の歴史・世界篇』天草の農民一揆(1637~1638)

 

 まずは、作家・小山勝清の宮本武蔵を取り扱った小説には、天草の地について、こんな注釈がもうけてある。

 「天草はキリシタンの島であった。もともと、この地は天草五家といって、天草、大矢野、志岐(しぎ)、上津浦、栖本(すもと)の五家が分割統治していたが、いずれもキリシタンの支持者だった。秀吉時代、宇土城主、小西行長が、熊本の加藤清正の援兵をうけて攻めほろぼしたが、小西も、熱心なキリシタンだった。

 と、いうわけで、天草には、早くから宣教師が入り込んで、各地に会堂をたて、学林を設け、少年のための学園などもつくって、長崎、島原とならんで、日本ようなのだが、ヤソ教の中心地となった。

 なお、天正年間、ポルトガルから活字印刷機が輸入され、天草学林にすえつけられるにおよんで、果然天草は日本におけるキリシタン文化移入の重要基地となったのである。

 けだし天草のヤソ教は、この間が黄金時代であって、小西行長がほろび、ヤソ教嫌いの清正の所領となり、ついで唐津の寺沢氏が支配するようになって、しだいに衰えはじめ、会堂も、上津浦の二か所に減じていた。この年、慶応17年3月、徳川幕府は、まず京都の天守会堂をこぼち、禁教の決意を固め、内意はすでに寺沢氏にも下っていたが、衰えたといっても、それは表面だけで、その実勢力は強大、番台の高畑忠兵衛も、うかつに手をつけることができなかった。」(小山勝清「それからの武蔵」集英社文庫)

 これに述べてあるのは、島原の乱がおこりし原因の一つが、かの地の住人のキリシタンとしての意思表示にあることを暗示しているように感じられてならない。しかし、ほかの要因に言及が見当たらないことからすると、かかる大乱が圧政に苦しむ農民の一揆として起こった側面は際立ってこないと思うのだが。

(続く)

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