○○223『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩)

2018-08-13 17:51:02 | Weblog

223『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩)

 比較的豊かであったとされる19世紀半ばの岡山藩においては、その藩政は立て直しというよりは、それね含めての全体的な事業拡張というのが似つかわしい。
 19世紀に入ってから、それまでの新田開発、い草栽培などに加え、新たに岡山藩の産業を支えるようになったものに、織物業と製塩業がある。1860年代にもなると、児島郡の辺りでは、小倉織、真田織、雲斎織といって織物業が発達した。農民は「無高水呑百姓」か、5反にも満たない小百姓が多いことでは他藩の農民とさして異なるところはない。変わっているのは、副業の織物業で現金収入が見込めることであった。彼らは、自宅に織物の仕事場を設けるのが大方であったが、中には織物機を多数備えて、まとまった仕事場を提供する機元(織元)も次々に現れた。同藩は、それらの織物の売買をさせる問屋を認定した。その上で、各機元にはそれらの問屋に作った織物をもっぱら卸すことを命じ、安定した運上金を手にしたのであった。
 児島郡の南部においては、文政・天保期になって、古くは奈良期から細々と続けられてきていた製塩業が、藩の庇護を受けて規模を大きくしていった。中でも、塩浜地主であった薪問屋の野崎武左衛は味野村と赤崎村の沖合に49町歩の野崎浜を築いた。これに習って、近くの地主たちもこぞってより大きな塩田を営むようになっていく。その中からは、塩田主から塩田を借り受け、人夫を雇い入れて製塩業を営む産業資本家も現れる。
 彼らは、製塩のための薪や石炭を買い入れ、作った塩を全国に売った。全国に販路を広げるということは、そのための航路なり、寄港地の繁栄も約束していく。また、商いや事業の拡張のための新しい資金の借入れも必要となり、金融も発達していく。あれやこれやで波及効果が現れることになって、児島の港や町は賑わいを増していくのであった。 
 この期の藩政改革のめずらしいところでは、農民の生活にも目を向けた改革が登場する。中でも、備中松山藩の藩政改革と、佐賀藩が行った農政改革は特記に値する展開を見せた。というのも、小農民の、その多くは「水呑百姓」とか呼んで十把一絡げにする風潮があるが、その置かれている実体は、この藩でも悲惨であったことだろう。そこへ、この両藩では、真っ向からこの問題に取り組んでいったことに特色がある。
 備中松山藩では、1849年(嘉永2年)、新藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)が登場する。そうなるいきさつであるが、藩主板倉勝職(いたくらかつつね)は、1842年に伊勢桑名藩から、藩主松平定永(まつだいらさだなが)の八男である寧八郎を婿養子に迎える。これが勝静で、22歳にして才気に溢れていたという。彼は、さっそく家臣の儒学者にして、陽明学者山田方谷(やまだほうこく)に、同藩の元締役(財務の責任者)兼吟味役を任命した。陽明学は、中国宋の時代の王陽明が拓いた学問で、儒学に基礎をおきつつ、実利を重んじるところが特徴である。山田は苦労人で、40歳になっており、すでにこの二つの学問の大家として知られる。そして、勝静の学問の師になっていた。
 その山田が最初に取り組んだのが、藩の抱える負債の整理であった。なにしろ、収入が約二万両のところへ支出がざっと5万両であったといわれ、支出のうち1万3千両が借金の利息に消えていたようである。借金は、大坂、松山、江戸に散らばっていた。1850年(嘉永3年)の春、彼は債権者の多い大阪に向かった。これからすると、大坂に出掛ける前から、相当の自信があったらしい。そして、かれらを前にして行った説得がなにしろ奮っていて、これまでの備中松山藩の財政状況を正直に説明し、借金10万両の猶予を申し入れたのに対し、商人達は利子の免除、最大50年の借金棚上げを承認したのであった。 なぜそうなったのかというと、山田は借金は必ず返済する、踏み倒すつもりは毛頭ないとしながら、その猶予だけでなく、新規事業を立ち上げることでの財政再建計画を示したからだと考えられる。こうして利にさとい債権者たちの大方の同意をとりつけた山田は、1851年(嘉永3年)の『存寄申上候覚』」には、こうある。
 「御年限中成行き候へば、七ヶ年に御借財は凡四万両の払込と相成り、御借財半方の減と相成り申す可く候。其の節に至り候へえば、又別の手段を以て、御無借同様に仕り度き愚案仕り居り候。其の節、私身分何方へ退転罷り在り候共、今一応御呼出下され、御相談仰せ付けられ候へば、愚存申し上げ度く存じ奉り候事。」
 それからの山田は、心ある仲間とともに藩としての新規事業の立ち上げに邁進した。1854年(安政元年)には、彼は藩の「参政」という最高職に就任する。財政再建の主力は、この地に産する豊富で良質の砂鉄を使って、この地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、そこでえたたたら鉄を使って釘、刃物、鍋、釜、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造した。当時の人口の80%を占める農家相手の農具としての備中鍬を商品開発した。備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬である。これは、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに深く掘ることができ、これが客足がとだえることのない程の大ヒット商品となった。
 また、藩内の商品作物づくりに精を出した。タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙などの生産が手掛けられた。その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。しかも、他藩の専売制で生産者の取り分を奪うことをせず、生産者の利益が出るように、藩は流通上の工夫によって利益が上げるように立ち回った。販売方法も苦心し、領内の産物をいったん松山城下に集荷し、そこから問屋を通じて高瀬舟で松山川(現在の高梁川)を玉島港に運び、そこから自前の運送で船を仕立てて江戸を目指した。そして、板倉江戸屋敷で江戸や関東近辺の商人を中心に直接売りさばく販売方法を確立したのであった。これらの産業創成策は、藩内にじわじわと浸透していき、それに応じて藩の財政も改善していくのであった。
 山田は、その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
 引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。
十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。

(続く)

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