○○165『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の武家・禁中の統制

2017-08-06 19:47:16 | Weblog

165『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の武家・禁中の統制

 『武家諸法度(元和令)』は、1615年、大阪城が落城し、徳川による天下が定まってから、2代将軍徳川秀忠の名で発布された。
 「一、文武忠孝を励し可正礼儀事。
一、参勤交替之義、毎年可守定所之時節、従者之員数不可及繁多之事。
一、人馬・兵具等分限ニ応じ可相嗜事。
一、新規之城郭構営堅禁止之、居城湟累石壁等敗壊之時ハ達奉行所、可受差図也、櫓城門以下者如先規可修補事。
一、企新規、結徒党、成誓約并私之関所、新法之津留制禁事。
一、江戸并何国にて不慮之儀有之といふ共猥不可懸集、在国之輩ハ其所を守、下知可相待也、何所ニ而雖行刑罰、役者之外不可出向、可任検使之左右事。
一、喧嘩口論可加謹慎、私之争論制禁之、若無拠 子細有之、達奉行所可受其旨、不依何事令荷担者其咎本人よりおもかるべし、并 本主の障有之もの不可相抱事附 頭有之輩へ百姓訴論ハ其支配江令談合、可相済之、有滞儀ハ評定所へ差出之可受捌事。
 一国主・城主・壱万石以上近習并諸奉行、諸物頭私不可結婚姻、惣而公家と於結縁辺者、達奉行 所可受差図事。
一、養子者同姓相応之者を撰び、若無之においてハ由緒を正し、存生之内可致言上、五十已上十七已下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縦雖実子筋目違たる義不可立事 附 殉死之義令弥制禁事。
一知行所務清廉沙汰之、国郡不可令衰弊、道路駅馬橋船等、無断絶可令往還事 附 荷船之外、大船者如先規停止之事。
右条々今度定之訖、堅可相守者也 天和三亥年七月二十五日」
 同、書き下し文は次のとおりとされる。
「一、文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事。
一、参覲交替の義、毎年守るべき定めの時節、従者の員数繁多に及ばざるべき事。
一、人馬・兵具など分限に応じ相嗜むべき事。
一、新規の城郭構営はこれを堅く禁止し、居城・湟累・石壁など取り壊しの時ハ、奉行所へ達し、指図を受くべきなり、櫓城門以下は先規の如く修補すべき事。
一、新規を企て、徒党を結び、誓約を成し、并に私の関所・新法の津留制禁の事。
一、江戸并何国にて不慮の儀これあるといふ共猥りに懸け集まるべからず、在国の輩ハ其の所を守り、下知を相待つべきなり、何所にて刑罰を行うと雖も、役者の外出向すべからず、検使の左右に任すべき事。
一、喧嘩口論謹慎を加ふべし、私の争論これを制禁す、若し拠ん所なく子細これあり、奉行所へ達し受けべくその旨、何事に依らず荷担せしめば其の咎本人よりおもかるべし、并本主の障りこれあるもの相抱うべからざる事 附けたり頭有の輩へ百姓争論ハ其の支配え談合せしめ、これを相済ますべし、滞りある儀は評定所へ之を差し出し、捌きを受けべく事。
一、国主・城主・壱万石以上近習并諸奉行、諸物頭、私に婚姻結ぶべからず、惣じて公家と縁辺を結ぶにおいては、奉行所へ達し、指図を受けべき事。
一、養子は同姓相応の者を撰び、若しこれなきにおいては由緒を正し、存生の内言上致すべし、五十已上十七已下の輩、末期に及び、養子に致しと雖も、吟味の上これを立つべし、たとい実子筋目違いたる義と雖も、立つべからざる事 附けたり 殉死の義いよいよ制禁せしむる事。
一、知行所務これを清廉沙汰し、国郡衰弊せしむべからず、道路駅馬橋船等、断絶なく往還せしむべき事 附けたり荷船の外、大船は先規の如く停止の事。
右の条々今度これを定め訖、堅く相守るべきものなり。
天和三亥年七月二十五日」
 この規定に基づき、1630年(寛永7年)、幕府の年寄(後の老中)酒井忠世(さかいただよ)と宿老の土井利勝(どいとしかつ)が、京都に赴く。京都所司代の板倉重宗(いちくらしげむね)と金地院崇伝(こんちいんすうでん)も同席させる。この年には、女性の明正天皇が即位している。それもあって、念には念を入れたのだろうか、そして「五摂家」(ごせっけ)の面々に向かって、「責任をもって天皇・上皇の行動を監視する」旨など生活の細かい処まで干渉するのであった(詳しくは、『本光国師日記』寛永七年(1630年)旧暦九月十六日条)。
 なお、この法度は、その後の将軍の代わりには、見直しがあり、必要ある時は改訂がなされていく。1635年の寛永令は三代・家光の時に行われ、参勤交代を定め、大船の建造禁止を入れた。1663年の寛文令は四代・家綱の治世で、キリスト教禁教を明文化した。1683年の天和令は五代・綱吉の時の改正で、殉死の禁止と末期養子の緩和があった。1710年の正徳令は六代・家宣の時のもので、和文体に直される。1717年の享保令は八代・吉宗の時のもので、内容に改訂なしで、天和令に戻る旨が宣言された。
 同年の1615年の『禁中並公家諸法度』は、朝廷や公家へのもので、こうある。
一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の座次 一 三公之下親王。(以下略)
一、清華家の大臣辞任後の座次 一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一、摂関の任免 一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一、器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一、養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一、武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一、改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一、天子以下諸臣の衣服 一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象。(以下略)
一、諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。(以下略)
一、關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一、罪の軽重の名例律准拠 一 罪輕重可被守名例律事。

一、摂家門跡の座次 一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。(以下略)
一、僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一、院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一、紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一、上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。
末文、作成年月日、署名花押 右可被相守此旨者也。
慶長廿年乙卯七月日
昭 實(花押)、秀 忠(花押)、家 康(花押)」
 同、書き下し文は、以下のとおりとされる。
「一、天子御芸能之事、天子諸芸能の事、第一は御学問なり、学ばざれば則ち古道明らかにならず、而も政をよくし太平を致すものは未だ之有らざるなりとは貞観政要の明文なり、寛平遺誡には経史を窮めざると雖も、群書治要を誦習すべしと云々、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、綺語たりと雖も、我が国の習俗なり、棄て置くべからず云々、禁秘抄に載せらる、御習学専用候事(?)。
一、三公の下は親王、(中略)親王の次は前官大臣、(中略)その次は諸親王、但し儲君は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華の大臣辞表の後、座位は諸親王の次座たるべき事。
一、摂家たりと雖も、その器用無き者は、三公・摂関に任ぜらるるべからず。 況んやその外をや。
一、器用の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公摂関辞表あるべからず。 但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切こ れなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外たるべき事。
一、改元は漢朝の年号の内、吉例を以て相定むべし。(以下略)
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍・麹塵・青色、(中略) 仙洞御袍、赤色□或ひは甘御衣、大臣袍、□異文、小直衣(中略)。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。
一、関白・伝奏并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律を守らるべき事。
一、摂家門跡は親王門跡の次座たるべし。
一、僧正・門跡・院家は先例を守るべし。平民に至りては、器用卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。
一、門跡は僧都・法印任□の事、尚以て器用を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺は、住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且は臈次を乱し且は官寺を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用を撰び、戒臈相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申儀申沙汰有るべき事。
一、上人号の事、碩学の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。
 右此の旨相守らるべき者也。
   慶長廿年乙卯七月日、昭実、秀忠」

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


コメントを投稿