118の1『岡山(備前・備中・美作)の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備)

2018-12-26 23:41:37 | Weblog

118の1『岡山(備前・備中・美作)の今昔』~13世紀の岡山人(吉備真備)

 734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝の頭がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび、695~775)がいた。彼の出身は、吉備氏の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだと伝わる。古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。朝廷に出仕し、「大學寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
 真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄に見出されるとともに、位も上がって「正六位下」に昇叙され大学助となる。以後、玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって吉備真備は疎んじられていく。
 そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国する。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。

(続く)

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