□53『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・岡山県南部)

2018-08-13 20:56:31 | Weblog

53『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・岡山県南部)

 当時、廃藩置県後の岡山県南部の磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡の四郡と、北條県だった美作の地でもいわゆる「血税一揆」が頻発したことは、そのことを物語っている。
 そもそも、「血税一揆」の「血税」たる所以は、遠くローマ時代に遡る。彼の時代の地では、市民の義務として兵役を課せられることを「血税」と呼んでいた。岡山県南の騒動が起こったのは、1871年(明治4年)のことで、大方は旧岡山藩の所領であったところだ。その騒動の発端は、同年11月25日(旧暦)、磐梨郡(その後大部分の地域は赤磐郡となり、現在の赤磐市に繋がる)であった。
 すなわち、同郡の国木宮(阿保田神社)に同郡内十か村の農民約5百人が結集し、集団での気勢を上げた。強訴にほかならない。農民達は何時や掛かりで、県当局への嘆願書をまとめる。この年に施行された「悪田畑改正」により、従来より年貢負担が重くなるケースが生まれていた。夏の水害の影響で収穫減が懸念されるなどもあったようだ。そこで、生活不安から、今年暮れに予定される年貢米の納入を3分の1に減らしてくれるか、またはこれに相応する助成の措置を講じてくれるように要求した。
 その三日後の11月28日(旧暦)になると、騒動は赤坂郡に拡大していく。こちらでも群衆は磐梨郡でのような嘆願書を提出する。彼らの一部は、打ちこわしへと暴徒化していき、同日の夕方になっても収まる様子はなかった。元山陽新聞社勤務の清野忠昭氏によると、29日(旧暦)の「このころ農民勢はおよそ三千人と報告されており、騒動は頂点を迎える」(清野忠昭「忘れられた農民一揆(2)ー明治四年県南四郡(磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡)騒動始末記ー」)という。さしずめ、燎原の火が広がるが如く、というべきか。
 その頃になると、岡山県当局も騒動が容易ならざる事態が進行しているとの認識に達したのか、説得を試みたり、捕縛に乗り出したり始めている。さらに、騒動は津高郡、上道の両郡にも広がっていき、先の二郡と同じような嘆願書が県当局に提出される。拡大を続けていた騒動が収束に向かうのは、津高郡の県当局との攻防において、「鎮圧隊の発砲で死者五人、負傷者四人(または五人)」(同)出てからである。官憲の圧力が俄然増してきたことにより、12月1日(旧暦)になると、赤坂郡を中心に3日間続いてきた未曾有の騒動も下火に向かうのであった。

(続く)

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