○〇258の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』坂本竜馬(「船中八策」など)

2019-02-13 22:04:57 | Weblog

258の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』坂本竜馬(「船中八策」など)

 坂本竜馬(1836~1867)の「船中八策」(1867)というのは、先達らの言をあちらこちらから持ってきて、江戸幕府の後にくる政体を、簡単に次のように取りまとめた。
 「一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。いやしくも此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏ふして願ねがはくは公明正大の道理に基もとづき、一大英断を以て天下と更始一新せん。」
 これらのうち最もわかりにくいのは、「古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事」あたりであろうか。当時の欧米でいうところの憲法の制定をさしているのはよいとしても、これでは個人の人権というものが基礎におかれることが明確でない、ゆえに旧態依然の全体主義の枠内から抜け出せないのではないかと勘ぐりたくなろう。
 とはいえ、竜馬のその後の言動からすると、おおむね「折衷的な政治」から逸脱するものではない。ことに京都・近江屋において彼が暗殺される(おそらくは京都の幕府方、見廻り組が関与したといわれる)直前にもなると、竜馬の描く新政府構想は相当に幕府との妥協の上に成り立つものであったろう。それというのも、幕府が持っている資産や軍備、その統治機構を破壊することなくして、新たな政体は成立しないという冷徹な分析がここには見当たらないのだ。
 また、竜馬のこの考えが大政奉還ののちの幕府にとって受け入れられるものであったかどうかは、わからない。何よりも、一介の素浪人の竜馬が福井藩の松平春嶽や幕府の上層部に働きかけた内容というのは、かれが仲介してまとめさせた先の薩長同盟の討幕精神と明らかに異なる。なぜ、両者の間をそのようにうまく渡り歩くことができると考えていたのかは、不明だ。
 そこで一説には、もし竜馬が生き延びていたとしたら、明治維新はかなり違っていたという見方があるものの、果たしてそれだけの政治的影響力を彼がもつことになっていたかどうかは、大いなる疑問であろう。薩摩藩や長州藩は、この時期、むしろ竜馬の先走りから距離をとりつつあったのではないか。一方、幕府内では、京都で政治向きに闊歩する竜馬への反発が増していた。これらが併せて、かような結末へと流れていったような気がする。
 
(続く)
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