(136*88)『自然と人間の歴史・日本篇』建武新政

2017-08-19 23:41:36 | Weblog

(136*88)『自然と人間の歴史・日本篇』建武新政

 鎌倉幕府滅亡の後には、朝廷による「建武新政」が始まる。1333年(元弘3年)旧暦6月には、後醍醐は京都に帰り、帝位に返り咲く。翌年1月には元号が建武に改められる。光厳天皇は、後鳥羽、花園の二人の上皇とともに六波羅に守られて京を脱出したが、後醍醐勢のために捕らえられ、他の二人とともに京へ護送され、幽閉の身となる。概ね後醍醐の天皇の専断で事が運び、記録所やぞ雑訴決断所などが活発化するとともに、公家中心の人事が矢継ぎ早に放たれていく。しかし、新たな息吹を政治に吹き込むものでなかった。その実体は、旧態依然の天皇と上層貴族による専制政治となる。そういうとき、様々な職能に携わる人々が住処としていた京都の二条河原に、88の句からなる落書(らくしょ)立て看板が立てられる。
 「口遊去年八月二日条河原落書云々、元年○(か)。比都ニハヤル物。夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしゅうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸還俗(なまくびげんぞく)自由出家。俄大名(にわかだいみょう)迷者。安堵恩賞虚軍(そらいくさ)。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛(つづら)。追従讒人(つしょうざんじん)禅律僧。下克上スル成出者(なりづもの)。器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。内裏(だいり)マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏(てんそう)ハ。我モヽヽトミユレドモ。巧ナリケル詐(いつわり)ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。タソガレ市時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。
 前サガリニゾ指ホラス。バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上﨟ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引キエズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新シキ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌエセ連歌。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜代非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。
 犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナホハヤルナリ。茶香十火主ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシズメシ鎌倉ノ。右大将家ノ掟ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。 夕ニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定メテ損ゾアルラント。仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代(みよ)ニ生デテサマヾヽノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。京童(きょうわらべ)ノ口ズサミ。十分一ヲモラスナリ。」(『建武年間記』・『二条河原落書』国立公文書館内閣文庫)
ここからは、民衆に対しては苛斂誅求の連続で、急速に政権としての支持を失っていく様が読み取れる。建武の功臣の一人である足利氏に対しても、朝廷の専断による冷遇策がまかり通っていく。
 美作の地でも、それまで足利氏や、建武の新政に批判的な豪族が勢力を浸透させつつあった。それが建武新政によって、大いなる変化が訪れる。建武新政での論功表彰だが、例えば六波羅探題の陥落に功のあった赤松則村だが、かえって挙兵前の領地を縮小の憂き目に遭ってしまう。1335年(建武2年)、足利尊氏が政府に離反すると、その赤松もこれに応じるのであった。そして同年の冬、後醍醐天皇は、美作国の田邑荘(たのむらのしょう)の地頭職を足利尊氏から没収したのにとどまらず、紀伊の国の熊野速玉大社(現在の和歌山県)に寄付し、そこを「御祈祷所」とした。足利尊氏が鎌倉で新田義貞の軍勢を破り、西上の途についた時期をねらった措置であり、建武の朝廷と足利氏との決裂が決定的になったことを知らせる出来事であった。
 この事件を契機に、武家方につく軍勢の流れが起こってくる。興味深いことに、その中で足利方について戦ったのは、鎌倉期に隠岐・出雲両国の守護に任じられていた佐々木氏の一族ばかりでなく、広範な武士が建武政権を見限った動きを見せ始めた。これを不満に足利尊氏の挙兵があり、鎌倉から京都をめがけて攻め上がった。京都周辺での戦いは熾烈であったが、1336年に足利尊氏が北畠顕家らの軍勢に敗れて、九州に落ち延びていく。新田義貞の弟脇屋義助は、足利勢を追って、播磨から備前へと進出してくる。
 ところで、備前、備中、美作の武士の中には、児島高徳らのように論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝えている。
 「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、
美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。
 奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。
 この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)
 新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。
 そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。
 足利氏らの軍勢はそれからは難なく京都に入り、自らが中心となって京都において新政府を造る挙に出た。彼は、京の都の室町(むろまち)に館を定める。後醍醐帝は吉野に逃れて「南朝」となる。代わりの天皇には、尊氏は再び前の光厳天皇を再び帝位につけたかった。だが、光厳前天皇は固辞した。その彼は誠に権力とは縁遠き、温かな心の持ち主であって、この後、実に数奇な運命を辿り、最後はいわば隠遁の身となって暮らしすことになっていく。そこで尊氏は、1336年(延元2年)、光厳前天皇の弟豊仁を口説いて光明天皇として即位させる、これを「北朝」という。「南北朝時代」の到来である。
 征夷大将軍となった尊氏は、反対勢力を一層する挙に出る。1338年(延元3年)の石津の戦いで、南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直(こうもろなお)と戦い、戦死する。藤島の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が北朝方の斯波高経らと戦い、戦死を遂げる。1338年(延元3年)、足利勢が北畠顕家を石津の戦いで討ち取る。1339年(暦応2年)の吉野での後醍醐天皇の死を南朝勢力の衰退が始まる。後醍醐帝のあとを継いだ南朝の後村上帝は、1347年(貞和3年)に畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じる。南朝方は緒戦で足利方を破る。しかし、1348年(正平3年、貞和4年正月の)の四條畷(しじょうなわて)の戦いで、足利軍は楠木正行を自決に追い込む。この余勢を駆って吉野まで攻め寄せた師直は、吉野宮を焼き払い、吉野に依っている南朝方に引導を渡した。

(続く)

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