454*◎134の5『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

2018-10-18 21:32:03 | Weblog

454*134の5『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

 ナイジェリア共和国の建国までの道のりはどのようであったのだろうか。この国は、西アフリカに位置する。およそ2億人の人口を抱え、アフリカ最大。面積も広い。
 13~18世紀、現在のナイジェリアの西部州を根拠地にベニン王国が栄える。1920年、イギリス領ゴールドコースト(黄金海岸)のアクラで、イギリス領西アフリカ国民会議が開催される。この会議には、ナイジェリアからも6人が参加する。

1922年、立法審議会設置を受けて、ハーバート・マコーレーを党首とするナイジエリア国民民主党が結成される。1947年にはリチャードソン憲法が、1951年にはマクファーソン憲法が英国植民地政府によりつくられ、西部、東部及び北部の3州制への移行と、選挙権の拡大がなされる。
 1951年以降、北部人民会議(NPC、ハウサ族が中心)、西部の行動党(AG、ヨルバ族が中心)、東部州ではNCNC(イボ族が中心)がそれぞれ活動する。1960年10月1日、これらの諸州が集まってナイジェリア連邦としてイギリスから独立を果たす。ここに国号の「ナイジェリア」とは、ニジェール川の英語読みのナイジャーにちなむとか。東隣のカメルーンの住民投票にて、旧イギリス信託統治領の北部がナイジェリアへの併合を決める。そのことで、この部分の領土を合わせての独立を勝ち取る。
 独立の3年後には共和国となる。それまで元首であったエリザベス女王に代わって、アジキウエ博士が大統領職に就く。独立の6年後の1966年1月には、若手将校による最初の軍事クーデターが起きる。これによってバレワ連邦首相と2人の州首相、汚職の代表格であったオコチエ連邦大蔵大臣が殺される。それでも落ち着かず、イロシン将軍による軍事クーデターが起こる。イボ人の利益に沿う形で、イロシン少将(1925-66)の率いる「事態収拾クーデター」により彼を首班とする軍政が始まる。
 当時この国は、北部、西部、東部、中西部の諸州からなる連邦制をしいていた。その当時、ナイジェリアの部族は北部のハウサ人が人口比で最大であり、他のイボ族などを圧倒していた。にもかかわらず、政治的経済的には、この国は建国以来ずっとイボ人が支配していた。こうした多数派から見た人々の不満と怒りは、2つの軍事クーデターではおさまらない。この後、北部州において、イボ人支配に反発するハウサ人などによって、北部州に居住するイボ人の大虐殺(ポグロム)が起きる。北部州からは、このとき100万人以上のイボ人が東部の州に逃れたとも伝えられる。
 21世紀に入ってからナイジェリアにおいては、「ボコ・ハラム」と称する反体制組織が台頭している。その大まかな歩みは、2002年にナイジェリア北部で設立された。2009年になると、政府軍治安部隊との政党が激化してくる。2014年4月、ポルノ州チボックで生徒276人が誘拐される。6月、ポルノ州において複数の村を襲撃し、200人を超える死者が出たという。

2015年3月、過激派組織「イスラム国」(IS)の指導者に忠誠を誓うとする録音声明を公開する。2016年12月には、ポルノ州の市場で女性2人が自爆をしたことで、57人が死亡したという。2018年2月、今度はヨベ州ダプチで110人が誘拐される。約1か月後にその大半を解放したものの、5人が死亡したとされる。


(続く)

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