□91『岡山の今昔』新見から広島県境へ

2017-05-30 21:16:04 | Weblog

91『岡山(美作・備前・備中)の今昔』新見から広島県境へ

 新見から西ないし南西に向かっては、芸備線(げいびせん)が走っている。この線だが、新見と広島(内陸の三次(みよし)を経由)とをつないでおり、江戸時代、かつての広島藩(ひろしまはん)が、安芸国(あきのくに)一国と備後国(びんごのくに)の半分を領有していたことから来る「芸」と、備中国(びっゅうのくに)との合わせ技であろうか、その珍しい命名に興味をそそられる、そこで、この線の駅名をしばらく辿るとしよう。
 芸備線のホームの駅標には、新見駅の次の駅として「ぬのはら(布原)」と記される。このホームに入線してくる列車に乗り、まずは布原駅(ぬのはらえき、岡山県新見市西方字野々原)に着く。あたりは人家も少なく、山あいの田舎ののどかな風景が広がっているとのことである。近くには、「阿哲峡」のあることが、地図から読みとれる。今時どこのローカル線でも見かける鄙(ひな)びた駅に違いないのだが、この駅の現在は運行上の理由から、他駅とは区別される特色を持つ。

 というのは、この布原駅は、地理では伯備線(はくびせん)の上にありながら、伯備線の案内には名前が乗っていない。戸籍上は伯備線なのに、である。そうなっている理由としては、伯備線の普通列車は、原則として布原駅を通過する(実際には行き違いのために運転停車をする列車が一部あるとのこと)。一方、芸備線の列車は布原駅に停車していることから、伯備線の案内には書かれていない。
 21世紀のいま、この駅をはるばる訪れる大方の鉄道ファンは、伯備線を走特急形電車381系「やくも」の撮影が目的であるらしい。実は、この鉄路をかつては蒸気機関車(D51と呼ばれるSL)が走っていた。旅雑誌『ノジュール』(2017年4月号?)に、めずらしい記事を見つけた。興味深深で当該ページを開くと、こうあった。
 「布原(当時は信号場)を出発して新見方面に向かう三重連。まもなく西川鉄橋~苦ヶ坂トンネルにさしかかるところ。列車は足立(あしだち)にある採石場(現在も操業中)から姫路の製鉄会社に原料である石灰石を運んでいた。」
 このとの注釈付きで、黒煙を吐きながら急勾配の坂を上っている、往年の雄姿の写真が紹介されている。少しくすんだような、昔懐かしい写真が目に飛び込んできた。「当時は信号場」といっていたのが、国鉄民営化のなされた1982年4月に「布原」という駅に昇格したと伝わる。貨車を率いる先頭に、「三重連」という機関車を三つもつないで推進力をだしていたというから、驚きだ。 
 さて、布原を出た芸備線の列車は、備中神代(びっちゅうこうじろ)、板根(いたね)、市岡(いちおか)、矢神(やがみ)、さらに野馳(のち)と行く。鉄路に沿ったは、高梁川の支流の一つに数えられる神代川が流れている。芸備線は、さらに現在の広島県との県境を越え、東城(とうじょう)へと西進していく。その大方は、現在の国道182号線近くを列車が走る。
 このあたりには、自然豊かな名書が散在している。新見市街から西へしばらく行った新見市哲西町(てっせいちょう)、芸備線の矢神(やがみ)駅の近くに、鯉が窪湿原(こいがくぼしつげん)がある。これは、どのようにしてできたのだろうか。その故はまだ知らない。場所は、吉備高原北西辺の鯉が窪池の上流域、標高でいうと約550メートルに位置する。ここは「西の尾瀬沼」とも呼ばれ、温暖湿潤の季節には、およそ3.6ヘクタール、一周が2.4キロメートルもある。ここは国の指定を受けている湿原であり、保存要旨には、保護があればこその意味合いを込めてであろう、こう記されている。
 「鯉が窪の池辺ならびに、付近の湿原は、高梁川の小支流の水源地の山間に残された日本太古の自然の姿を保つ地域であって、ここには北方系・満朝系の残存植物をはじめ、日中共通植物や、日本固有植物その他の湿性植物・水生植物の他種類が生育している。また、数種の湿棲昆虫その他の昆虫も発生し、西部本州の湿原を代表する学術上貴重な地域である。」
 このように学術上の価値の高い湿原であるが、案内パンフなどの説明によれば、オグラセンノウ、ビッチュウフウロ、ミコシギクをはじめ380種類を超える植物が自生している。新見駅前の刊行案内書でもらった写真で拝見すると、色とりどりの、あれやこれやの植物がびっしりと植わっている。どれをとっても、陽光を受け輝いている。しかもその土壌たるや、この地方の人が「サワッタ」と慨嘆するほどに、物干し竿(さお)を射し込めば全部入ってしまうほどの深みなのだと言われる。沼があれば、そこを生活の場とする昆虫や小魚、鳥などがいることだろう。それらを見つけながらゆっくり歩いて一回りすると、楽しくも興味深いウォーキングとなること請け合いなのではないか。
 また、これより芸備線をこれより進んで広島との県境(岡山県新見市哲西町と広島県庄原市東城町)の野馳(のち)駅まで行ってみられるとよい。その近くに日本松峠と呼ばれる、景勝の地があるらしい。ここに、備中神代から東城まで芸備線が開通したのは1930年(昭和5年)のことであった。一方、新見から道路をたどってこの方面へ行く場合は、国道182号線(1963年に指定)に乗っていく。さらに中国縦貫自動車道からは、広島県に入って直ぐの東城インターで降りてから、踵(くびす)を返して峠に向かう。およその道筋としては、かつては備中新見路なり、東城街道と呼ばれていた。この峠のあたりには、江戸時代、ここには浅野藩の番所があった。人馬の往来が盛んであったらしい。峠の名前の通り二本の大きな松の木があったのだと伝わる。
 ここには牧水二本松公園がつくられていて、若山牧水の次の歌碑が旅人を迎えてくれる。
それには、「幾山河こえさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」とあるとのこと。この歌は、牧水が1908年に郷里の宮崎へ帰省する途中に、この峠の茶屋・熊谷屋(くまたにや)に泊った時に詠んだものだとされる。当時の彼は、早稲田大学の学生であったらしい。もう一つ、「けふもまた心の鐘を打ち鳴し打ち鳴しつつあくがれてゆく 」の歌碑も建立されているとのことである。さらには、後に人の喜志子、長男の旅人の歌碑が置かれているとのことで、機会を見つけて是非拝んでみたいものである。

(続く)

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