♦️81『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの共和制

2018-01-29 21:15:28 | Weblog

81『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの共和制


 「ローマは一日にしてならず」の故事で知られるローマは、紀元前753年にローマ王国が建国された。それまでのエトルニア支配から脱したのであった。紀元前509年には、ローマにおいて共和制が成立する。紀元前272年にイタリア半島統一にこぎつけた、連邦体制に拠った。共和制をとっていたローマであるが、元老院と執政官が政治を取り仕切っていた。元老院議員は終身で、後の時代の最盛時には300人にもなった、とも言われる。また執政官とは、平時には行政、司法の長として重責を担っていた。任期は1年であり、毎年開かれる民会で再任されるには10年を待たねばならなかった。これは、独裁者の出現を阻むためのものであったに違いない。ほかに、独裁官という役職も設けられたが、こちらは限られた任務のみに関わり、それが終わると役職を降りなければならない。
 紀元前167年には、イタリア権という権利をもうけるにいたる。これは、イタリア在住のローマ市民権者であれば、人頭税を免除するものであり、これにより、ローマはイタリア半島において急速に強国への道を歩んでいく。
 その後のローマは、周辺国との戦いで領土を拡大していく。カルタゴやリビア、それにマケドニア、ヌミディアなどと次々に戦争を行う。特に、紀元前149年から同146年にかけて戦われた第三次のポエニ戦争で、ついに宿敵カルタゴ(地中海に面したアフリカ北岸にあった都市国家)を倒して、ローマの属州とした。マケドニアとの戦争も紀元前215年から紀元前149年までの長きに渡って戦ってついに勝ち、こちらもローマの属州とした。
  それまでのローマの共和政は、貴族中心に運営されていた。かれらのあらかたは、地主などの非労働階級であった。このような偏りのある国政に対して、次第に平民の不満はふくらんでいった。彼らは、生産者としての税と兵役の大部分を担っていたのに、その社会的地位は低いままであったからに他ならない。そして迎えた紀元前494年、平民を保護する目的で護民官の職が設けられる。ローマ元老院としても、市民の要求を無視できなくなったためだ。この役職だが、市民権保持者の利益を代表することをその職務とする。民会以外の官職である、執政官や独裁官、元老院議員がほとんど貴族からしか選ばれなかったのに対し、護民官は平民のみが就くことのできる役職であった。
 紀元前133年、ティベリウス・グラックス(紀元前163~同133)は、護民官となり、農地改革に着手した。紀元前146年のローマは、カルタゴを滅ぼしたり(ポエニ戦争)、マケドニアを属州とし、コリントを破壊する。これらで領土を拡大したにもかかわらず、長引く戦争での農地は荒廃していた。植民都市からは、安価な穀物が流入していた。そんな中で、中小農民の没落に乗じて貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大していた。彼らは、耕作に奴隷を用いた。そのことがさらに中小農民の没落を招き、無産者となりローマをはじめ都市に流入する事態となっていた。
 そんな時、ティベリウス・グラックスが護民官となり、没落しつつあったローマの自営農民を救うべく土地問題の改革を目指す。しかし、これは国政を牛耳る貴族の利益に反することなのであった。とうとう彼は、策謀により元老院派に殺される。その後10年を経た前123年に護民官に選ばれたのがガイウス・グラックス(紀元前154~121)で、かれは兄のティベリウスがやりのこした諸改革にのりだす。農地改革や穀物価格統制などの改革を進めようとする。ところが、昼夜分かたぬ努力で職務を続けていたところに、元老院派による罠にはめられて自殺に追い込まれる。当時の愁眉の政治課題となっていてたのは、カルタゴのあった土地での、「ユノー植民都市の建設の可否を問う投票」であった。
 賛成派も反対派も、民衆は改革に邁進するガイウス側につくか、派手好みの政策に連なる反対派のドゥルースス側につくかに熱狂していた。そんな信任投票的な色彩を帯びた平民集会での投票を前に、グラックス派の人々に「悪党は道を空けろ」となじった者に対し、彼を刺し殺すという事件が起きてしまう。ローマ法では、裁判もなく市民が殺されるということでは、正義は貫かれない。皮肉にもそれをグラックス派の人々が再現したの絶好の機会とみた元老院は、秩序維持のための元老院最終勧告を発動し、ガイウスに圧力をかける。これは、事態の収拾はすべて執政官オピミウスに委ねられるとのことであって、もはや護民官のガイウスは拒否権を発動することができなくなってしまい、ローマを離れることにも失敗したのであったが、これにより彼の目指した諸改革は頓挫してしまう。

(続く)

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♦️67『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争とその後)

2018-01-29 21:02:16 | Weblog

67『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争とその後)

 紀元前500年~紀元前449年の間に、4回にわたってギリシア(ギリシャ)のアテネを中心とするポリスの連合軍と、アケメネス朝ペルシア(ペルシャ)との戦争が繰り広げられた。紀元前499年には、そのペルシアが支配権を持っていたイオニア地方のギリシア人植民都市が、ペルシアの支配に不満を持って反乱を起こすのだが、ペルシアによって鎮圧される。紀元前490年、そしてペルシアは、援軍を送ったアテネなどのギリシアのポリスに対し、大遠征軍を送った。これがペルシア戦争の始まりである。
 紀元前478年になってもペルシアとの戦いは続いていた。この年、デロス同盟が結成された。これには、アケメネス朝ペルシアの脅威に備え、アテネを盟主としてイオニア地方など主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。最大時200のポリスが参加した。各ポリスが一定の兵船を出して連合艦隊を編成し、それのできないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に入れることにした。
 かかる同盟の共同金庫は、共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催された。数の上からは劣勢にあったギリシア連合軍であったが、マラトンの戦いでミルティディアスの率いるアテネ主力のギリシア軍が勝利した。なお、このときペルシア海軍の主力となったのはフェニキア人であった。彼らは、地中海の交易権をめぐりにギリシアと対立していた。紀元前449年、アテネのペリクレスの時にカリアスの和約を結んで、ほぼ50年に渡る戦争が終結した。
 そしてい迎えた紀元前431年、ペロポネソス戦争(~紀元前404)が始まった。アテネは、この戦争で西の方に位置する兵士国家スパルタと戦う。ここにスパルタというのは、実はペロポンネソス半島にあったラケダイモンという国の支配階級の名称なのであった。スパルタの下にはヘイロータイと呼ばれる被支配階級がいて、歴史的にはスパルタに征服されて奴隷になっていた部族の総称と成り立っていた。その社会は、殺伐としていた。毎年スパルタがヘイロータイに対し、形式的な宣戦布告を行い、ヘイロータイを辱め、反抗する者があれば殺すことも、おおっぴらに行われていたというから、驚きだ。スパルタの子弟においても、まだ幼い子供男子に対し身体検査などを行い、体力の劣る者を穴に埋めたり谷底に投棄するなりして、選別していたとのこと。強者だけによる国造りを目指して手段を選ばなかったのが伝わる。弱肉強食を地でいっているだけに、当時のアテネ連合に対抗し戦うだけの武力を蓄えていた。
 紀元前404年になって、アテネ連合はスパルタに敗北する。それまで身の丈を越えた勢力拡張をひた走っていたアテネであったが、その野望に終止符を打たれた形であった。しかし、この戦争に勝利したスパルタの覇権も長続きは師亡かった。紀元前371年、「レウクトラの戦い」でテーベの軍がスパルタ軍を破り、それからの紀元前370~361年にかけて、テーベによるペロポンネソス半島への侵攻が続いたのである。
 紀元前338年、マケドニアのフィリッポス2世が、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシアを併呑した。紀元前334年、マケドニアのアレキサンダー大王がマケドニア・ギリシャ連合軍で壮大な東征を開始する。紀元前333年、イッソスの戦いが行われ、アレクサンドロス大王のマケドニア軍ががペルシアのダレイオス3世の軍を破った。紀元前330年、アケメネス朝ペルシアは滅亡する。同大王は、ペルシアを敗り、エジプトから西アジアに及ぶ広大な帝国を作りあげた。その結果として、古代ギリシャの精神を汲むヘレニズム文明を広めることにもなっていく。とはいえ、紀元前323年、同大王はバビロンで病死し、残された領土を巡り将軍たちが争う事態となる。ほぼ同じ頃の紀元前323~322年、アテネなどのギリシア諸国家がマケドニアの圧政に反乱(ラミア戦争)を起こす。
 紀元前168年には、ローマはピュドナの戦いでマケドニアを解体する。ここまで来て、ローマの領土がさらに広がり、ギリシャは一地方となる。しかしローマは、文明先進国としてのギリシア文化をむしろ尊重し、これから学ぶ姿勢をとったことがあり、そのことでギリシア文明が西洋文明の大きな流れの中に融合し、受け継がれていく。

(続く)

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