81『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの共和制
「ローマは一日にしてならず」の故事で知られるローマは、紀元前753年にローマ王国が建国された。それまでのエトルニア支配から脱したのであった。紀元前509年には、ローマにおいて共和制が成立する。紀元前272年にイタリア半島統一にこぎつけた、連邦体制に拠った。共和制をとっていたローマであるが、元老院と執政官が政治を取り仕切っていた。元老院議員は終身で、後の時代の最盛時には300人にもなった、とも言われる。また執政官とは、平時には行政、司法の長として重責を担っていた。任期は1年であり、毎年開かれる民会で再任されるには10年を待たねばならなかった。これは、独裁者の出現を阻むためのものであったに違いない。ほかに、独裁官という役職も設けられたが、こちらは限られた任務のみに関わり、それが終わると役職を降りなければならない。
紀元前167年には、イタリア権という権利をもうけるにいたる。これは、イタリア在住のローマ市民権者であれば、人頭税を免除するものであり、これにより、ローマはイタリア半島において急速に強国への道を歩んでいく。
その後のローマは、周辺国との戦いで領土を拡大していく。カルタゴやリビア、それにマケドニア、ヌミディアなどと次々に戦争を行う。特に、紀元前149年から同146年にかけて戦われた第三次のポエニ戦争で、ついに宿敵カルタゴ(地中海に面したアフリカ北岸にあった都市国家)を倒して、ローマの属州とした。マケドニアとの戦争も紀元前215年から紀元前149年までの長きに渡って戦ってついに勝ち、こちらもローマの属州とした。
それまでのローマの共和政は、貴族中心に運営されていた。かれらのあらかたは、地主などの非労働階級であった。このような偏りのある国政に対して、次第に平民の不満はふくらんでいった。彼らは、生産者としての税と兵役の大部分を担っていたのに、その社会的地位は低いままであったからに他ならない。そして迎えた紀元前494年、平民を保護する目的で護民官の職が設けられる。ローマ元老院としても、市民の要求を無視できなくなったためだ。この役職だが、市民権保持者の利益を代表することをその職務とする。民会以外の官職である、執政官や独裁官、元老院議員がほとんど貴族からしか選ばれなかったのに対し、護民官は平民のみが就くことのできる役職であった。
紀元前133年、ティベリウス・グラックス(紀元前163~同133)は、護民官となり、農地改革に着手した。紀元前146年のローマは、カルタゴを滅ぼしたり(ポエニ戦争)、マケドニアを属州とし、コリントを破壊する。これらで領土を拡大したにもかかわらず、長引く戦争での農地は荒廃していた。植民都市からは、安価な穀物が流入していた。そんな中で、中小農民の没落に乗じて貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大していた。彼らは、耕作に奴隷を用いた。そのことがさらに中小農民の没落を招き、無産者となりローマをはじめ都市に流入する事態となっていた。
そんな時、ティベリウス・グラックスが護民官となり、没落しつつあったローマの自営農民を救うべく土地問題の改革を目指す。しかし、これは国政を牛耳る貴族の利益に反することなのであった。とうとう彼は、策謀により元老院派に殺される。その後10年を経た前123年に護民官に選ばれたのがガイウス・グラックス(紀元前154~121)で、かれは兄のティベリウスがやりのこした諸改革にのりだす。農地改革や穀物価格統制などの改革を進めようとする。ところが、昼夜分かたぬ努力で職務を続けていたところに、元老院派による罠にはめられて自殺に追い込まれる。当時の愁眉の政治課題となっていてたのは、カルタゴのあった土地での、「ユノー植民都市の建設の可否を問う投票」であった。
賛成派も反対派も、民衆は改革に邁進するガイウス側につくか、派手好みの政策に連なる反対派のドゥルースス側につくかに熱狂していた。そんな信任投票的な色彩を帯びた平民集会での投票を前に、グラックス派の人々に「悪党は道を空けろ」となじった者に対し、彼を刺し殺すという事件が起きてしまう。ローマ法では、裁判もなく市民が殺されるということでは、正義は貫かれない。皮肉にもそれをグラックス派の人々が再現したの絶好の機会とみた元老院は、秩序維持のための元老院最終勧告を発動し、ガイウスに圧力をかける。これは、事態の収拾はすべて執政官オピミウスに委ねられるとのことであって、もはや護民官のガイウスは拒否権を発動することができなくなってしまい、ローマを離れることにも失敗したのであったが、これにより彼の目指した諸改革は頓挫してしまう。
(続く)
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