190*◎65『自然と人間の歴史・世界篇』キリスト教(パスカルの選択)

2017-08-14 21:16:05 | Weblog

190*◎65『自然と人間の歴史・世界篇』キリスト教(パスカルの選択)


 宗教面で「パスカルが訴えたかったこと」については、鹿島茂氏がこんな事情を記しておられます。
 「その結果、いまでは二種類残されていた写本のいずれかをもとにして組み立て直した『パンセ』がいくつか登場するようになっています。第一写本をもとにしたのがラフューユ版とル・ゲルン版、第二写本中心がセリエ版です。
 で、そうした新しい版で読むと、『パンセ』の意味がまた変わってきてしまうのです。つまり、パスカルがどのような意図のもとに『パンセ』を書き進めていったのかを考え直さねばならなくなったのです。
 で、結論から言ってしまいますと、その意図とは次のようなものです。
 すなわち、パスカルはまず、読者として、神というものをまったく必要とせず、一度も自分が惨めだと感じずにこれまで生活し、今後も暮らして、やがて死んでいくであろう人間を想定します。無神論者もそうですし、いまの日本人のような無宗教の人間もそうです。ひとことで言えば『神なき人間』です。ところで、こうした『神なき人間』は、当然ですが、自分では惨めだとも悲惨だとも感じていないはずです。
 パスカルはこれが許せないのです。『神なき人間』が幸せに死んでいってしまうことは容認できないのです。なんとしても、そうした『神なき人間』には惨めに、悲惨になってもらわなければならない。そして、その惨めさや悲惨さの自覚から神を求めるようにならなければならない、とこう考えたわけです。
 だから、そうした人のところに出向いてトントンと肩を叩き、『ねえ、あなた。あなたは決して幸せではないでしょう、本当は惨めなんでしょう。違いますか?』と呼びかけを行うことが必要です。『キリスト教護教論』の第一部として構成された『神なき人間の悲惨』に含まれる『パンセ』のいくつかの断章はこうした、ある意味、『お節介』な意図のもとに書かれたものなんです。
 ところで、常識的に考えて、こうしたお節介人間から『あなたは幸せですか?惨めじゃないんですか?』と問われたら、たいていの人は『いいえ、わたしは十分幸せですよ、余計なお世話です。ほっといてください』と答えるに違いありません。
 じつは、バスカルにとっては、そうした反応は十分に織り込み済みだったのです。普通に説得したのでは、『神なき人間』が自分の悲惨さを自覚するはずはありません。説得には技術が必要なのです。(中略)つまり、『神なき人間』に向かって、『おまえは神がないから悲惨なんだ』と言っても、その人は神なんて必要ないという方向からしかものごとを見ていませんから、自分が誤っているなどとは感じないのです。そこで、バスカルは別の方向からの見方もあるのだと教えるという戦術を採用することとなります。」(鹿島茂『100分de名著・パスカル・パンセー考えることがすべてだー』NHKテレビテキスト、2012年6月、85~87ページ)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

178*◎59『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ中世の農民反乱(ドイツ農民戦争など)

2017-08-14 21:11:57 | Weblog

178*◎59『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ中世の農民反乱(ドイツ農民戦争など)

 16世紀に入ったドイツでは、農民たちの、土地領主へ負っている貢租や義務に対し、かれらの不満が増しつつあった。1550年、科学的社会主義者のフリートーリヒ・エンゲルスが著した『ドイツ農民戦争』の項目には、「1476年から1517年にいたる大農民戦争の先駆者」が紹介される。そして迎えた1525年、それらが怒りとなって沸点に達した、これを「ドイツ農民戦争」という。これは、農民が、教会支配・領主支配に対して武装したもので、その最中に作成された農民側の綱領である「農民の12ヶ条要求」の中で、農民たちは農奴制の廃止、封建地代の軽減、裁判の公正などを要求した。12ヶ条の要点は次のようなものである。
 その1として、村が牧師を選任し任命しうること、牧師を罷免する権利を持つこと、選ばれた牧師は福音書に教義や命令を付け加えないこと。その2として、教会の十分の一税は、牧師の生活費に充て、残りはその地の貧民に与えること。その3として、キリスト教徒としてわれわれを農奴の地位から救い出してくれること。その4として、貧乏人には鹿や野鳥や魚を捕ることが許されないという習慣をなくすこと。その5として、森を貴族の占有から村に返還し、村民が必要な薪を得られるようにすること。その6として、過度の賦役をやめること。
 その7として、領主は農民との協定を守り、賦役や貢租を無償で農民から強奪しないこと。その8として、不当な地代に反対。領主は適正な人を派遣して(地主の)占有地を点検すること。その9として、旧来の成文法で裁判され、公正な判決のみ有効。その10として、かつて村に属していた牧場や耕地(入会地)を個人が占有しているのを、元通りにすること。その11として、相続税を廃止すること。その12としては、以上の箇条が聖書の言葉と一致しないものであれば、その部分は撤回する。
 この戦争には、ルターがおこした宗教改革が農民たちの意識変革をもたらし、力づけていたとされる。とはいえ、ルターは、決して急進的な社会改革を考えていた訳ではなかった。当時のドイツでは、教会の聖職者も領主貴族も、そのほとんどが貴族階級の所産であった。兄が家督を継承して父の領主権を相続したなら、弟は教会の聖職者に収まるという類であったから、教会は領主貴族の農民支配を支持する、心情的には農民側からの切実な要求にも耳を傾けていたルターも、そうした当時の社会通念の埒外に出るものではあり得なかったのだと考えられる。
 これによると、人々は死後の「最後の審判」に際し自分が救われるかどうかわからないので、途方に暮れる可能性もありそうで、どうなるかはわからない。そこでよく考えると、カルヴァンの真意はむしろ人は危地を感じることで自分が神に救われる者と確信することに行き着くのではなかろうか。そこで人々は禁欲的な生活を送り、就いた職業を重視し、労働と生活に精進しなければならない、説くのであった。


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

177*◎58『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ中世の農民反乱(ワットタイラーの乱など)

2017-08-14 21:10:53 | Weblog

177*◎58『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ中世の農民反乱(ワットタイラーの乱など)

 14世紀には、ヨーロッパで農民反乱が頻発した。主なものとして、まずジャックリーの乱 (La Jacquerie) は、1358年に百年戦争中のフランス北部、ピカルディーを中心に広がった。この乱は、北フランスのイル・ド・フランス地方に発生した。ここにジャックjacquesとは、農民が短く貧しい胴衣jaquesを着ていたことに、領主側からの蔑称といえる。この反乱の直接のきっかけは、百年戦争にあった。フランス王の租税増徴策が取り組まれていたからである。戦場の多くは農村であった。1356年のポアティエの戦いでは、当地方には戦闘を交えるフランスとイギリスの騎士たちが入り乱れて土地を荒らしていた。これに加えて、大野盗団が横行し、かれらによる略奪行為があった。彼らには、百年戦争初期の敗戦によって発生した野盗的傭兵(ようへい)が含まれていた。おまけに、しかも穀作地帯であるにもかかわらず、経済不況で穀物価格は低迷しており、この面からも北フランスの農民に深刻な打撃をあたえた。
 14世紀の終わり頃のイングランドでは、農奴制(農奴制)は事実上消滅しつつあった。そんな頃にさしかかりつつあった1381年、ワット・タイラーの農民一揆があった。イングランド南東部のエシックス(エセックス)州やケント州においては、この年の5月、農民が領主達たちの苛酷な徴税を拒否して蜂起した。一揆はほどなくイングランド南半分に広がり、各地で領主館を襲撃して文書類を焼却するのだった。こちらの背景には、重税と農奴制に苦しむ農民の困窮があった。というのは、黒死病による労働力不足に悩んだ領主は、農民の移動の自由を奪い、農奴制を強化していった。一揆は、ロンドンで国王リチャード2世に迫った。こちらの直接の契機となったのは、1338年にはじまった百年戦争にあったに違いない。この戦いが長期化するにつれ、イングランドの国家財政は傾いていく。「国王リチャード2世は、租税増徴策をとりたい。12歳以上のすべての国民に人頭税を課税することを決めたことがある。
 この一揆であるが、6月にはワット・タイラーが指導者となった頃から、「反王税一揆」の政治色が濃厚になっていく。やがて反乱軍となって、首都ロンドンへと攻め上っていく。市民は反乱軍を受け入れ、ロンドンは反乱軍の手に落ちた。大司教や大蔵大臣は殺害され、大商人の屋敷は焼討ちに遭う。国王リチャード2世はロンドン塔に避難したが、そこも反乱軍に包囲されてしまう。やむなくタイラーと会談し、農奴制の即時撤廃、小作料の軽減、一揆参加者の大赦などを認めた。ところが翌日、再び王と面談したタイラーは国王の臣下に暗殺されてしまう。これを機に国王軍は攻めに転じ、ついに一揆は鎮圧された。その後の政治的反動により国王と領主階級による支配は強化されたのは否めない。
 そんな中でも、これ以後のイングランドでは農奴の解放の流れが追々と広がっていく。農民たちは各地で自由を獲得しつつた農民たちは、やがて滔滔(とうとう)たる流れとなって14世紀から15世紀にかけて、その大多数がヨーマン(自由な自営農民・独立自営農民)となっていく。誠に、「自営農民は封建体制の根幹をなすものであった。というのは、封建領主の権力は家臣の数に依存しており、そしてこの家臣の数は自営農民の数に依存していたからである」(宮本義男『資本論入門・上』、有斐閣新書、1966)と、そういう訳で、彼らは次の時代への準備、すなわち「資本主義的生産様式の基礎を創造する変革の序曲」の中へと組み込まれていくのであった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

172*◎55の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』宗教改革(フランスなど)

2017-08-14 21:06:48 | Weblog

172*◎55の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』宗教改革(フランスなど)

 1536年、ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』が出版される。彼はルター同様に「人は信仰によってのみ義とされる」というのだが、ルターより徹底した聖書中心主義をとる。したがって、聖書にさだめられていない儀式や典礼をすべて廃するのであった。それからカルヴァン説の一番の特徴は、「予定説」と呼ばれる、それは次のように説かれる。
 「全ての者は、同じ条件のもとに創造されたのではない。ある者は永遠の生命に、他のある者は永遠の断罪に、あらかじめ定められている。人はだれでもこの目的のどちらかにむけて、すなわち生に対してか、死に対して創造されているということだ。(中略)聖書に書かれているように(中略)神は、永遠のご計画によって、救済にあてようとする者と、滅亡にあてようとする者とをあらかじめ定めたのである。」
 これによると、自分が神の恩寵を受ける身の上であるかどうかは、予め決められている。人間力の介在できる余地はなくなるではないか。人々は死後の「最後の審判」に際し自分が救われるかどうかわからないので、「どうせわからない」と途方に暮れる可能性も出てくる。しかしよく考えると、カルヴァンの真意はむしろ人は危地を感じることで自分が神に救われる者と確信することにあるのではないか。自分がどれだけ神にとって必要な、守るべき存在であるかを知るらは、日々の生活に安住することではいけない。そこで人々は積極的に打って出て、禁欲的な生活を送り、就いた職業を重視し、労働と生活に精進しなければならない、説くのであった。
 ついては、これを評して、後の時代の社会学者マックス・ウエーバーが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、「カルヴァンにあってはこの戦慄すべき原理は、神のみを考え、人間を考えぬ彼の宗教的関心が思想的に徹底するにつれて、その意義はますます増大した。神は人間のために存在するのではなく、人は神のために存在するのである。(中略)カルヴァンにとっては神は自由であり、かつ神のみが自由なのだ。」(河出書房、阿部行藏訳)とし、当時勃興しつつあった前記資本主義の精神、担い手的には商工市民層業者の意識、倫理観と一脈通ずるものがある、としたのも頷けよう。
 1572年、サン・バルテルミーの虐殺が起こる、これは、ヴァロワ王家のマルグリット(カトリーヌ・ド・メディシスの娘)と、新教徒のブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)の結婚式の日、パリに集まった新教徒(ユグノー)の貴族らが、カトリーヌ・ド・メディシスらの旧教徒によって数千人規模で虐殺された事件をいう。両派の抜きがたい対立が煽られた形の出来事であり、以後、フランスの宗教内乱が激化していく。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

171*◎54『自然と人間の歴史・世界篇』宗教改革(ドイツ)

2017-08-14 21:04:45 | Weblog

171*◎54『自然と人間の歴史・世界篇』宗教改革(ドイツ)

 1512年にヴィッテンベルク大学の神学教授になっていたマルティン・ルター(1483~1546)は、1516年10月31日の説教の中で贖宥券(免罪符)を非難し、1517年の2月にも同様に贖宥券売買を非難していた。このことは、提題の第5条に「教皇は、自分自身または教会法が定めるところによって課した罪を除いては、どのような罪をも赦免することを欲しないし、またできもしない」と記して、罪の赦しがあたかも金で買えるかのように説いたローマ・カトリックの教皇(法王)に向かって、宗教上の反旗を翻す。1517年、そのルターが「九十五か条の論題」を発表すると、これが「宗教改革」の始まりとなる。それには、こうあった。
 『第一、われわれの主にして師たるイエス・キリストが、「汝ら悔い改めよ」というとき、信徒の全生活が、改悛であらんことをのぞんでいるのである。
 第二十七、かれらは人に説教して、金銭が箱になげいれられて、音がするならば、霊魂は(煉獄から)とびにげる。
 第二十八、箱のなかで金銭が音をたてるとき、財貨と貪欲とがいやますことは、確かではあれ、教会の(赦宥の)援けは、ただ神の意思のうちにのみよっている。
 第八十二、もし、教皇が教会をたてるというような瑣末な理由で、いともけがらわしい金銭をあつめるため、無数の霊魂をすくうのならば、なぜ、あらゆることのうち、もっとも正しい目的である、いとも聖なる慈愛と霊魂の大なる必要のために、煉獄から(霊魂)をすくいださないのであろうか。」(山川出版社『世界史史料・名言集』)
 1520年、おりからのに活版印刷術を用いて出版された『ドイツ国民のキリスト者貴族に告ぐ』などにおいては、「この世の職業自体を低くみることと結びついた行為主義」(魚住唱良『宗教改革時代の諸改革』:林健太郎編『ドイツ史』山川出版社、1977に所収)によるのではなく、今在る生活をありのままに肯定的に理解しようとしたところが斬新であった。教会や聖職者の仲介によるのではなく、自らの信仰に基づく「神の恩寵」によってのみ人は救われるとした。1521年のルターは、ドイツ皇帝カール5世と帝国議会の諸侯面々の前に出頭しての席で、とどのつまりは聖書か理性に違背していない限りはと前置きした後、カトリック教会とその頂点に立つローマ教皇も最終的な権威と認めることはできない旨を述べ、臆するところがなかった。さらにルターは、1534年までには、過ぐる1516年エラスムスにより出版されていたギリシア語テキストを底本に『新約聖書』のドイツ語訳を成した。
 1524年にドイツの農村部で「ドイツ農民戦争」と呼ばれる農民一揆が勃発する。その農民たちは、宗教改革の一環として領主支配の不当性を糾弾する運動を考えた。そのとき農民たがまとめた苦情書「シュワーヴェン農民の12か条」には、自分たちが自由であろうことを望むのは、聖書に基づくことなのであるとした。農民たちから手を求められるルターであったのだが、彼はこの「12か条」に同意せず、むしろ諸侯たちに「農民の殺人、強盗団」の捕縛を勧める。ところが、その後のルターのどのようであったのかを巡っては、晩年の彼が人民の君主に対する抵抗権に説き及んだことを根拠に、ルターが人民の利益の側に近づいていったことをいう向きもある。
 1526年には、シュパイエル帝国議会が開催された。この議会に、皇帝の臨席は、なかった。ルター支持派の諸侯の面々が政治の表舞台に台頭してくる中、諸侯は「各人が神皇帝陛下に対し責任が取れると判断し、確信するように、自らの判断で生活し、統治し、振る舞うべき」ことを正当化する決定を下す。1529年には、認めたくない皇帝が帝国議会において、この決議を取り消す。すると、これに反対する諸侯の有志5人と14の都市の代表が「プロテスタリオ」なる抗議書を皇帝に提出するにいたる。そして以後、この「プロテスタリオ」なる言葉が、ルター派、さらにはより広く内外の宗教改革派の総称となっていく。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

158*◎49の1『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国と元2

2017-08-14 20:47:11 | Weblog

158*◎49の1『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国と元2

 1260年、クビライは内モンゴルのドローン・ノールに建設した開平府においてクリルタイを召集し、カアンに選出された。しかし、同じ年に弟のアリク・ブガも首都カラコルムの大オルドでカアンに選出されたため、モンゴル帝国は2つに分裂する。1264年には、アリク・ブガは降伏し、クビライ・カアンが単独でモンゴル帝国のカアンになる。この間にモンゴル帝国の地方政権チャガタイ・ウルス、ジョチ・ウルス、フレグ・ウルスが誕生し、緩やかな連合体を形成した。1279年、モンゴル帝国を元(1279~1368)と改称する。マルコ・ポーロが上都を訪れる。1274年、日本に遠征軍を送る。1277年、アナトリアの戦いでマムルーク朝に敗北。1279年、崖山の戦いで南宋を滅ぼす。1281年、二度目の日本遠征軍。1288年、白藤江の戦いで、陳興道率いる陳朝ベトナムに敗北する。1294年、皇帝フビライが死去し、フビライの孫テムルが第2代元朝皇帝に即位する。1305年、元が5つに分裂する。1368年、明の朱元璋によって、元朝最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原に敗走する、以降、北元と称される。1634年、モンゴル高原は清の支配下に置かれ、北元は滅亡する。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

(139*44の2の1)『自然と人間の歴史・世界篇』中世へ

2017-08-14 19:23:10 | Weblog

(139*44の2の1)『自然と人間の歴史・世界篇』中世へ

 何をもってこの国の「中世」とすべきだろうか。まずもって西洋史学でいう中世については、12世紀に、フランスのブルターニュ半島にあるモンーサンーミシェル修道院が、領主としてあった。今では、世界遺産として観光客の絶えない当地ながら、その頃の記録にこうある。
 「五月一五日、洗者ヨハネに日には、ヴェルソンの農奴は、領主の草地を刈り、乾草を納屋に運ぶ。ついで溝(どぶ)の掃除、八月には穀物収穫の大賦役があり、収穫物は納屋に搬入される。農奴はその畠で領主の差配(さはい)に穀物の何束かをおさめる。九月には豚税がある。彼らは最良の二匹を領主におさめ、他の七匹分について各一匹一ドニエを払う。十月九日の聖ドニエの日には固定地代。次に畠の囲込料。農奴が土地を売れば領主は売価の一三分の一を取得する。冬の初めに冬畑のための新しい賦役がやってくる。領主の土地を耕し、整地し播種する。クリスマス前三週間の聖ドニの日には、差配に一種のケーキを届ける。クリスマスには何羽かの牝鶏(めすどり)を領主に。納めないとき、差配は農奴の担保(農奴は年貢滞納にそなえていつも担保をおいている)を没収する。それから二セチエの大麦と九クォーターの小麦。(中略)農奴の娘が所領外で結婚しようとすれば、許可料三スウ。それからなにがしかの結婚税。復活祭直前の枝(えだ)の主日(しゅじつ)に羊税。復活祭にまた夏畑のための耕作賦役。ついで唯一の有給賦役(一日二ドニエ)としての馬の蹄鉄(ていてつ)打ち。最後に所領の必要に応じた運搬の賦役。」(堀米庸三責任編集『世界の歴史』3、中世ヨーロッパ、中公文庫、1974、272ページに引用のから転載)
 ここに記されているのは、領主としての同修道院が、カルヴァドス県にあるヴェルソン村の農奴に課していた、まさに一年を通じて一息つくことも許されない程の「貢納賦役」の抜粋である。これを紹介した堀米庸三氏によると、他にも色々な賦役があったとのことである。これが中世ヨーロッパ社会の一般的事実であったのなら、当時、余りにも多くの負担が、かれら農奴が負わされていたことになるのであって、驚かされる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

133*◎42の1『自然と人間の歴史・世界篇』東西文化の交流

2017-08-14 19:18:13 | Weblog

133*◎42の1*『自然と人間の歴史・世界篇』東西文化の交流

 ここに「シルクロード」というのは、この道を通って中国産の絹や綿(織物を含む)などの名産が遠くインドや西アジア、さらにローマ帝国にもたらされたことによる。その逆に、ローマ、そして西アジアの方から中国などにもたらされたのに羊毛や綿(織物、絨毯を含む)などに加え、ガラスなどの工芸品もあった。特に、西に向かった絹は、パミール高原を越えて更に延々西アジアを横断したり、一旦南に下ってインドの西海岸の港を経て、地中海世界へと向かったことが知られている。こうした東西世界の物資流通のそもそもの始は、西の地域は1~3世紀に現在のアフガニスタン、パキスタンの相当領域を占めていたクシャーン王朝、東は中国の漢の時代に遡り、これ以降王朝が変遷していくうちにも、莫大な利益が得られることから、東西の世界を行き交う商人達の力は引き続き発揮されていった。この道が、世界史の表舞台に登場するのは、中国に国際国家としての唐王朝が現れ、東西文化の一大交流地となってからのことであった。
 双方を東西につないでいたこの道の名の由来は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンがドイツ語で「ザイデンシュトラーセ」(Seidenstrasse、南の道)と命名したのが淵源。その後、スウェーデンの考古学者ヘディンが著作に用いてから、徐々に一般化していった。広い意味では、北方の草原ルート、そして南方のインドからの海上ルートも含めて言われるものの、通常は、中国の長安(現在の西安)を西に向かって発し、◎谷関(かこくかん)、敦煌(とんこう、現在の甘粛省))からタリム盆地(現在の中国の新疆(しんちゃん)ウイグル自治区にあたる、パミール高原の東、天山山脈と崑崙山脈に南北を挟まれた盆地のことで、その大部分がタクラマカン砂漠という乾燥地帯))を経由するルートの方を指しており、別名で「オアシスの道」と呼ばれることもある。
 さて、こちらの主たる東西回廊には、およそ三路が通じていた。まず、敦煌の北方に位置するハミを起点に天山山脈の北側を横断して、ウルムチ、イリへと進んで西トルキスタンに至る。西トルキスタンは、パミールなどの高原地帯から砂漠を経てアラル海に祖続アム河、シル河流域を中心とする地方のことだ。この地を南下すれば天山南路に、西進すれば草原の道に合流する。
 これに続く東西交易路が、天山山脈の南側を通るコースを「天山南路」である。この道は、北と南の二手に分かれる。前者を「天山南路北道」といい、タリム盆地の中心にあるタクラマカン砂漠の北を通っていく。こちらは、敦煌西方の玉門関(ぎょくもんかん)を発ち、トルファンから天山山脈の南縁に沿って西に向かい、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガルに、さらにそこからパミール高原を西に渡っていく。フェルガナからの道は二手に分かれる。一方は、アラル海やカスピ海の南側を通ってコルガン、テヘラン、バクダットへと進む。さらにシリア砂漠の中のオアシスであるパルミラを経て、レバノンまでつないで地中海、そしてヨーロッパに通じ、もう一方はサマルカンドを経由して、西域南道に合流する。
 もう一方の南を通る道は、「天山南路南道」(西域南道)と呼ばれる。この道については、玉門関から楼蘭(ろうらん)を経由し、タクラマカン砂漠の南縁に沿って、チェルチェン、ホータン、ヤルカンドを経てカシュガルに、そこからはパミール高原の麓を経由してタシュクルガンへと出ていく。さらに下ってはインドへ向かう道と、イランを経てローマに向かう道とに分かれていた(以上の詳細なルートの図解は、NHK取材班編「写真集シルクロード・西域南道」、日本放送出版協会、1981、平山郁夫「シルクロードをゆく」講談社1995所収の「シルクロード主要路」など)。
 このシルクロードを通って、およそ1~9世紀の間に東の世界に伝わった物は、種類、物量とも多い。中国へ伝わった物の中には、それから朝鮮や倭・日本に伝えられたものも含まれる。
(中略)
 次に、中国から更に東の地域への品々、より大きくは文化の流れであるが、こちらもかなり旧くに遡る。例えば、3世紀に著された『魏志倭人伝』によれば、魏の明帝の時代、倭の邪馬台国女王・卑弥呼の使節が朝貢してきたのに対し、女王には「親魏倭王」の金印を、使節には「率善郎中将」、「率善校尉」の銘の入った銀印を与えたことになっている。さらに織物も与えていて、それには「○(あか)地交龍錦五匹、○地○(ちぢみ)○○(おりけおりもの)十張、○○(あかね)(の平織)五十匹、紺青(の平織)五十匹」と続く。そのほかにも、紺地勾文錦、細班華○(おりもの)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠(朱)、鉛丹各五十匹」(同)をあげている。これと同様の「親魏大月氏王」が、当時の大月氏の国王波調に与えられていることから、こちらも少なくとも同程度の品々が授けられたであろうことは、想像に難くない。
 また、正倉院に保管されている品々の種類は、天皇や有力貴族が使っていたあれこれの生活用具、楽器、遊び道具から 楽人 ( がくじん ) や役人の服、さらにシルクロード諸国のものまであって、その数は9000点を超える、とも言われる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

121*◎38『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(ユダヤ教、儒教、道教など)

2017-08-14 19:13:17 | Weblog

121*◎38『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(ユダヤ教、儒教、道教など)

 イスラエルといえばユダヤ教であり、この宗教のそもそもの成り立ちは人と人を超越したある存在との運命的な出会いから出発しています。アブラハム(Abraham)という人物は、旧約聖書に登場する代表的な人物です。創世記第11章にて誕生し、第25章で175歳で亡くなっています。
 実在した人物かどうかはわかりませんが、旧約聖書での彼は、イスラエルの民(ユダヤ人)の祖とされる人物ですが、「他の神に仕えていた」偶像の信者でヘブル人であるテラの息子として生まれ、ウルの地に住んでいました。
 ここでウルの土地柄ですが、次のように注釈されているところです。
 「ウル。ユーフラテス川下流西岸のメソポタミアの初期王朝時代のカルデア人の町。月神シンの礼拝地であった。発掘により前4000年期より居住されていたと推定されるが、その上層に大洪水の跡が発見された。アブラハムの出生地(創・11の31、15の7、ネへ・九の七)」(A・シーグフリード著・鈴木一郎訳「ユダヤの民と宗教ーイスラエルの道ー」岩波新書、1967、30ページ)
 その地で族長であったときのある日のこと、彼は「一なる神」の啓示により故郷を後にし新天地へと出発する決意をしました。
 ユダヤの民の始祖は彼だとされています。そのユダヤ教の一番の特徴は、唯一の神を信仰していることにあるといっていいでしょう。アブラハムは当時たくさんの神々の中でその神だけをあがめることを選んだ上、契約を結んだことになっています。だからこそ、彼はこんにちも西洋的な宗教観をもつ人びとのほぼ共通の祖先、あるいは始祖として象徴的存在として君臨できているのでしょう。
 これに対し東洋的な神とは、単独の神を意味することはまずなく、そのほとんど全てが多くの神々とともに人間というものがあることを前提として成り立ちがなされているように考えられます。ほぼ唯一の検討材料は仏陀が興した仏教ですが、これとても彼の死後数百年の後起きた大乗仏教運動により、まずは神秘的無神論になり、さらには有神論へと変化していったと考えられます。
 このように、東洋と西洋の宗教観がかくも大きな違いをもっているのはどうしてなのかはよくわかっていません。たぶん、歴史的なものと地理的(気候を含む)なものとの両方がその成り立ちに大きくかかわっているのではないでしょうか。
 これについては、次の指摘が参考になります。
「」(A・シーグフリード著・鈴木一郎訳「ユダヤの民と宗教ーイスラエルの道ー」岩波新書、1967) 
 儒教(じゅきょう)の祖は、紀元前の中国に生きた思想家であった、孔子である。春秋(しゅんじゅう)時代の周(しゅう)王朝の末、紀元前551年(一説には同552年)に、魯国という小国の昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で生まれた。父は、この国の陬邑大夫の地位にあった。当時の中国は、実力主義が横行し古来の身分制秩序が解体されつつあった。長じてからは、当時の中国の各国を回って智慧を磨いた。
 彼が関心を示したのは、あくまで現世での価値ある生き方の追求であった。今日的なジャンルを用いるなら、政治と道徳(人生哲学をも含める)面の主張が主であったのではないか。政治・道徳面では、周代初期の君臣政治への復古を理想として、身分制秩序の再編と仁による思いやりの政治を掲げた。具体的には、「子曰く、甚だしいかな、吾(わ)が衰えたるや。久し、吾れ復(ま)た夢に周公を見ず」(巻四第七述而篇5)とあって、彼の出身地の魯(ろ)の国の始祖・周公が取り組んだものを模範として掲げた。また、「礼」(社会生活を規律する根本倫理としてのもの)を以て政治に当たることの重要性を、「子曰く、能(よ)く礼譲を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て為めずんば、礼を如何らん」(巻二第四里仁篇13)とあるように、他者に噛んで含めるが如くに訴えた。
 その後の世界の思想家であえて似た人物をさがしてみると、ドイツの多彩な哲学者であったイマニュエル・カント、その人の担当範囲を、やや拡大した位であったろうか。「三十にして立つ」からの確固不動の人生態度には、今日でも驚きをもって受け止められているのではないだろうか。その死(紀元前479年)までの間に3千人ともいわれる、多くの弟子を育てた教育家もあった。
 その儒教の日本への伝来がいつのことだったかは、わかっていない。仏教よりも早く伝わったことは疑わないとしつつも、「継体大王」(けいたいだいおう、『日本書記』による)の時代の513年か、百済より五経博士が渡日したとの記述がある。このことから、これ以降しばらくしてとみる説がある。それ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』にみえる。さらに有力説では、邪馬台国の卑弥呼の時代、つまり3世紀には既に「千字文」(せんじもん)とともに倭にもたらされた。顧みるに、仏教はインドから長い時間をかけて伝来したが、儒教は当時「中原」(ちゅうげん)と呼ばれていた中国文明の中心地で生まれた思想である。そのことから、この列島への儒教の伝搬(でんぱん)は、3世紀までのことであったと考える。
 『論語』はどうやって出来上がったのだろうか。やはり、弟子達が生前の孔子が語っていた事柄を、簡潔な文に直してか、あるいは逐一諳(ろら)んじていたものを書き写したものであろうか。特徴としては、さまざまな分野、場面に亘っている中で、「君子」たる者の道が堂々と披瀝されている。その際一際異彩を放っているのが、彼の死生観、すなわち「子、怪力乱神を語らず」(巻四第七述而篇20)並びに「子曰く、未(いま)だ生(せい)を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」(巻六第十一先進篇12)ではないだろうか。抑制的な口調となっていても、いわゆる「神仏を敬い、神仏を頼らず」といった処世観・処世術とは、明らかに異なる。
 とはいえ、神仏を語らぬということは、かならずしもそれが反宗教的な思想であることを意味しない。その意味では、孔子の思想は、多神教、しかも草木をも奉祀するこの列島での自然宗教としての神道(いわゆる「国家神道」とは別物として考えたい)による曖昧な「神」観と相入れ易い面を持っているのではないか。また、元々の孔子の教えには呪術的なところが見あたらないし、当時の政治儀式(獣の血をすすって盟約を立てるなど)についても取り立てて拒絶しているようなことは、見あたらない。これらの点では、4世紀頃の倭に入ってきていたとされる道教(老子・荘子の思想)や、5世紀頃に入ってきたと考えられる陰陽五行(いんようごぎょう)の思想とも馴染みやすかったのではないか。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

116*◎35『自然と人間の歴史・世界篇』古代文明と宗教

2017-08-14 19:04:01 | Weblog

116*◎35『自然と人間の歴史・世界篇』古代文明と宗教

 世界の「四大文明」といえば、紀元前7000年頃の地球上にすでに産声を上げている。中央アジアのメソポタミア文明と呼ばれるのが、人類の整然かつ組織だった社会形成の意味での、文明の端緒であった。そのこととの関連もあって、世界最古の文明といわれるメソポタミアの宗教で一番変わっているのは、人間が粘土から創造されたという思想のユニークさではないだろうか。つまり、メソポタミアの神々が人間をつくったのは、自分たちの代わりに働いてくれる存在が必要があったからであると。なぜそうなったのかについては、シュメル神話での『エンキ神とニンマフ神』に由来が書かれている。岡田明子氏と小林登志子氏の共著では、以下の説明がなされている。
 「『エンキ神とニンマフ神』では、神々は増え、食物を得るために、神々のなかでもことに低位の神々はつらい農作業をしなければならなくなった。身代わりをつくる際には知恵の神エンキが人間を生み出すための道筋を考えた。エンキは母神ナンムに人間を創造させ、ニンマフ女神や低位の女神たちに手伝わせようと、つまり助産婦の役割をさせようと考えたが、肝心の「人間創造」の箇所は文書が破損している。だが、文書が読めるようになると、神々の宴会の場面になっいることから、人間は無事に誕生したようである。」(岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界ー粘土板に刻まれた最古のロマン」中公新書、2008)
 こうしたメソポタミア出土の粘土板の中で、一際有名なのが洪水が起きて人間達は一層されるので、助かるべく、船をつくって乗り、生き延びろと神から啓示を受ける男の物語なのである。この粘土板は、1872年にイギリス人のジョージ・スミスが発見かつ解読した。その板は、縦の長さが15センチメートルくらいの大きさで、隣り合う二つ段組に分けて、びっしりと文字が記されており、こうあった。
 「家を壊して、舟をつくれ!富を捨てて、生き延びよ。財産は捨てて、命を助けよ。あらゆる生き物の種をもって舟に乗り込め。これからつくる舟は、すべての辺が均等になるようにせよ。長さも幅も同じにするのだ!下に海が広がるように、舟の上を屋根で覆え。そのあと、大量の雨がもたらされるだろう。」(ニール・マクレガー著・統合えりか訳「100のものが語る世界の歴史1、文明の誕生」筑摩書房、2012より引用) 
 これと極めて似た物語が記されるものに、『旧約聖書』の次の一節があって、こうなっている。
 「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい・・・・・また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り・・・・・わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」(『旧約聖書』の創世記6章14節~74章4節、新共同訳)
 前者の粘土書字板は、現在のイラク北部、ニネヴェ(バグダッドの北方にある都市モスル付近)からの出土にして、紀元前700~前600年頃のものと推定されている。したがって、その中の物語を、キリストが生まれる前からあった『旧約聖書』の中身として採り入れたことは、充分に考えられるところだ。
 紀元前4000年頃からはエジプト文明が栄えるに至る。この文明下では、独特の宗教観念が発達した。「ナイルの恵み」と称される、この地方で成立し専制王政の社会においては、人は死後、独力ではこの世に戻ってこれないと考えた。というのも、もし独力で戻りたいのなら、厳密には古代のエジプトにおけるようにミイラとかがこの世に残っていないと、理屈が成り立たないからだ。古代のエジプトの人々は、人間や物の本質を「カー」であると考えた。この「カー」を中心として、「バー」(魂)と肉体が合わさることで人の生命力が発揮される。吉村作治氏の『吉村作治の古代エジプト講義録』上、講談社文庫)によれば、人間が死ぬと「バー」はあの世に去ってしまうため、「カー」は独りぼっちになってしまう。一方、肉体は完全に滅びてしまうから、「カー」はそのままでは収まるところがなくなり、どうしたらいいのか困ってしまうだろう。それゆえ人々は、「カー」が収まることが可能な、生前の肉体に代わる「第二の肉体」、すなわち「ミイラ」が必要だと考えた。
 このやや込み入った「カー」について、大城道則氏の解釈に、こうある。
 「「カー」とは神々であろうと王であろうと、あるいはそれ以外の人であろうと、彼ら一人一人に個別に与えられた「生命力」という概念であった。「カー」は図象として表現される際には、肘から先の両腕を高く持ち上げたヒエログリフで表された。クヌム神が轆轤(ろくろ)の上で土器のごとく人間と「カー」を作り上げることにより、出産とともに個々人が獲得すると考えられていた。そのため、あらゆる生命体が「カー」を内に持っており、それこそがそれらが存在しているという証でもあった」(大城道則『古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われたその死生観』河出ブックス、2015)。
 このエジプトの「カー」は、人が死ぬと肉体を離れる。その「カー」は、個々人の肉体の死の後にも、その死んだ肉体の代わりに供物としての食物(栄養)を受け取ることにならねばならないだろう。それゆえ、人々の心の間では、その摂取の続く限り、「カー」は存在し続けることができる存在なのだと考えた。「さらに、「古代エジプトにおいて、墓は「カーの家」とみなされており、「何々某のために」という言葉とともに死者に対して唱えられた供養文が永久に「カー」のために準備されることを目的として作られたのだ」(大城道則氏の同著)とも言われている。こうなるのは、神とは別の次元での進言存在の本質であるところの、古代エジプト文明に独特の「カー」の概念ゆえのことであろう。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

109*◎32『自然と人間の歴史・世界篇』古代世界の天文学

2017-08-14 18:43:16 | Weblog

109*◎32『自然と人間の歴史・世界篇』古代世界の天文学

 そもそもの学問の話では、古代ギリシアに生きたアリストテレス(紀元前384~紀元前322)は、地球の周りを星々が回っているという天動説を唱えた。同じギリシアの天文学者アリスタルコス(紀元前310~紀元前230年頃)は、少し違うやり方で天体運航の謎解きを試みる。月のちょうど半分が照らされているのを観察していて、月は球形だから今見える月の姿は太陽光が真横から当たっているからにちがいないと考えた。アリスタルコスは幾何学を使い、太陽Sと半月M、地球Eとし、これらでつくる三角形SMEを描き、角SMEを直角とする直角三角形となるから、角SEMを測れば、角MSEも求められると考えたらしい。地球から観る月と太陽はほぼ同じ大きさに見える。だから太陽が月の何倍の大きさか比べられる。さらに地球は月の約3倍大きく見える。だから太陽が地球の何倍か見当がつくというのであった。
 アリストテレスの唱えた天動説だが、欠点を抱えていた。夜空に見える惑星は通常、1年をかけて空を西から東へと移動していくのだが、あるときを境にその惑星が東から西へと動いて見える、この「惑い」というか、「逆行」を天動説では説明出来なかった。こんな不規則な現象がなぜ起こるのかを説明しようとした人の中に、クラウディオス・プトレマイオス(100~170年頃、古代ローマ時代のギリシアの天文学者)がいた。彼は、地球の直ぐ外側を回っている火星に着目し、これに二つの円を設定した。まず、火星はある点を中心とする円の上を回っている。その円がさらに地球を中心とする円の上を回っていると考えた。これだと、地球から火星の軌道を追ううちに、普段は夜空を右から左(西から東)へと動いているように燃えるが、あるところから別のあるところまでの空間においては、その逆方向に動いているように見える。


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

54*◎24の1『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(エジプト、ナイルの賜物とヒエログリフ)

2017-08-14 18:11:02 | Weblog

54*◎24の1『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(エジプト、ナイルの賜物とヒエログリフ)

 いわゆる「ナイルの賜物」については、この大河の氾濫が大きな役割を果たしていた。世界に冠たる長さをもつナイルでは、夏から秋にかけて川の水位が上がる。ドッというのではなく、ジワジワ、ヒタヒタと水位が上げていく。こうして南方の上流の渓谷を流れ抜けた水は、北方へと流れが下るのに従い川幅が広がっていく。その流れはやがてデルタの沖積地を冠水させ、さらに地中海へと流れ込んで行く。9月をピークに徐々に水が引いてくると、中流域からナイルデルタにいたるまでの広範囲な地域は肥沃な大地へと変化を遂げている。
 それでは、ヒエログリフと楔形文字にはその形成を巡って何らかの関係があったのだろうか。馬場匡浩氏の論考に、こうある。
 「古代エジプトのヒエログリフは、メソポタミアの楔形文字に影響を受けて成立したとする意見がある。ヒエログリフは、紀元前3000年頃のエジプト文明の形成とともに誕生したと考えられていた。つまり、最初の王ナルメルのパレットに描かれた彼の名前がヒエログリフの始原とする。一方の楔形文字は、紀元前3200年頃に南メソポタミアで発明されたウルク古拙(こせつ)文字を基礎とする。西アジアでは先史年代からトークンとよばれる数量を数える小型土製品(数え駒)があったが、そこに数量のみならず対象の種類も刻むようになり、ウルク古拙文字が誕生したとされる。この頃は絵文字のかたちをしていたが、それが徐々に抽象化・整理され、楔形文字が確立する。
 このように、楔形文字はその成立過程がおおむね判明しており、その誕生がエジプトよりも古いことから、影響を与えたといわれてきたのだ。いわゆる伝搬論的な考えである。然し近年、第4章で述べたように、アビドスの支配者の墓(Uーj)から文字資料が大量に発見され、その年代は楔形文字と同じ紀元前3200年頃である。アビドスの文字は、絵文字の組み合わせであるが、後に確立するヒエログリフを参照すると、音価をもつ表音文字として読むことができる。きわめてシンプルな文字システムではあるが、それはまさしくヒエログリフの祖型なのである。しかしそもそも、楔形文字の影響は成り立たない。なぜなら、両者の文字体系は、根本的に異なるからである。ヒエログリフも楔形文字も音価をもつ「表音文字」を主体とするが、前者は「音御文字組(Segmental)」、後者は「音節文字(Syllabary)」に属するのだ。音素文字は1文字が1音素で表現され、音節文字は1文字の中に子音+母音など複数の音素が含まれる。ローマ字などが音素文字であり、日本のかな文字は音節文字にあたる。ヒエログリフと楔形文字はそれぞれの祖型であり、このことからも、二つの文字体系は独自に開発されたといえるだろう。」(馬場匡浩「古代エジプトを学ぶー通史と10のテーマから」六一書房、2017)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

53*◎23『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(エジプト、王朝の移り変わり)

2017-08-14 18:07:45 | Weblog

53*◎23『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(エジプト、王朝の移り変わり)

今は宏大なサハラ砂漠の山岳地帯には、中石器時代からの壁画(彩画や彫画)の数々が
残っている。一番古いものでは、象の画がある。ついで狩猟民の時代になると、鹿、水牛、カバ、ワニなど、多様な動物が描かれている。紀元前6000年から同4000年前のことであったとされる。さらに下ると、牛の放牧、それから馬の時代となり、最後には駱駝と人間が行く姿となる。現在のアルジェリアのタッシリ・ナジェール地方から見つかった駱駝の画の下方には、古代のティフィナグ文字が見られる(平凡社刊行の『アフリカを知る辞典』から)。21世紀初頭の現在、地球上に約6000もの言語が残っているという。その頃の世界には、どれほどの言語なり、文字文化が育っていたのだろうか。
 さて、エジプトでは、紀元前6000年頃、農耕と牧畜の双方が始まった。大河ナイル流域に移り住んできた人々は、一体どこからやってきたのであろうか、そのことはまだはっきりしていないらしい。これを「先王朝時代」、固有名詞では「ナガータ文化」と呼ぶ。農耕をやるには、ナイル川の流れを頼りにしなければならなかった。ナイル河岸の土地は大変肥沃で、洪水が去った宏大な土地に麦などの種子を蒔(ま)けば、下流部の温暖な気候もあって、作物がすくすく育っていったであろう。「エジプト文明はナイルの賜」とは、この道理に着目した言葉にほかならない。先史年代における人々の精神構造の一端は、その頃までの創生神話からも覗えるのではないか。その一つ、ヘリオポリスの神話では、太陽神アトムが万物の創造主だとされる。この神は、後の王朝時代に太陽神ラーと合体もしくは同一視されていく。
 紀元前3000年頃、初期王朝時代が始まった。ナルメル(メネス)王による上・下エジプトの統一であった。首都はメンフィスに置かれた。ちなみに、あのヒエログリフ(聖刻文字)で「上下」エジプトの王と書かれるのは、上下二段の上段右側に植物の「スゲ」を、その下に「パン」の形を記すことで、あわせて「ネスウト」と呼むことで「上エジプトの王」となる。それから上段の左に「ミツバチ」の形をやや細かくあしらい、その下に今度はやや大きな「パン」を描いて、これで「ビティ」と発音して「下エジプトの王」となる。これらの両方を兼ね備えた二重性の表現こそ、上エジプト(メンフィス以南のナイル川流域)と下エジプト(ナイル・デルタ)の統治を表すものであった(大英博物館編「ヒエログリフがわかる絵本」創元社、2005)。
 紀元前2650年ころ、古王国時代の先駆けとなる第三王朝が始まった。これの初代はネプカー王で、二代目のジェセル王と繋がる。後者の治世の頃には、ホルス神が確立する。
この神は、ハヤブサの姿をしており、おそらく先史年代既に土地の守り神として崇拝の対象であったものと推測されよう。そのジェセル王政の宰相にして、階段ピラミッドの造営を設計・施行したのがイムヘテプであった。彼は神官や天文学者、初期の肩書きもっており、諸々のエジプト王朝の後世に医学の神としてまつられる希有な人物であったようだ。
 紀元前2610年頃、第四王朝の初代スネフェル王の治世が始まった。彼は、「約二十四年間在位し、その間に、リビアやヌビアに遠征隊を派遣したりの、活発な外征を行う。二代目はクフ王で、ギザに第一ピラミッドを造営する。もちろん、実際に設計した人物は別におり、工事に参加した多くは王国の自由民であった。次のジェドエフラー王を経てカフラー王、メンカフラー王と続き、この二人のピラミッドもギザのクフ王のピラミッドのそばに造営される。スフィンクスは、太陽神ラーの化身とされる。紀元前2490年頃に第四王朝が尽きると、ウセルカフ王が立ち、第五王朝を始めた後は8人の王が立つ。その間に、太陽神ラーが最高神となって、王の称号に太陽神の息子名が加わる。
 エジプトの古王国はここで途切れ、紀元前2180~2040年頃までかつての国内は混乱し、各地に諸王が割拠するが、やがて乱世の中で力をつけてきた、テーベを拠点とするメンチュヘテプ二世によって、エジプトは再統一される(第十一王朝)。ここからが、中王国時代という。都をテーベに定める。紀元前2000年頃、文藝の振興が見られる。『シヌへの物語』などがある。だが、第十二王朝へと繋がっていくうちに、この中王国時代も紀元前1785年頃には終末期を迎える。それから紀元前1565年頃までの200年余りは、第二中間期で混乱していた。
 そして新王国時代へと入っていく。紀元前1570~1070年頃が、この時代に当たる。その中で異彩を放っているのが、「アマルナ時代」であった。この名前は、、現在の首都カイロから南に300キロメートル余り南に行ったところのナイル川東岸にあった、紀元前1353年頃のエジプト第18王朝(新王国)後期のアメンホテプ4世が建設した首都の名前である。首都移転の動機としては、宗教が絡んでいたと見られる。それまで、カルナック神殿のアメン神官団による王の政治への干渉はかなりのものとなっていた。これに対処し合う件を高めるため、王はその一掃を企てる。エジプト国家としてのアメン信仰を改め、それに代わって太陽神アテンへの信仰を打ち出した。アテン神のルーツは古かったのだが、太陽神ラーがアメン神と結びついたことで下火になっていた。さしずめ、アメン神は神官という集団を媒介項として成立したのに対し、アテン神は王が直接第一人者となることができるものとして受け入れられたのではないか。この時代を「アマルナ時代」と呼ぶ。この時代には、写実的な芸術の数々が華開いたことで知られる。しかし、独裁者アメンホテプ4世が死ぬと、待ち構えていたように力関係は王権の弱体化へと進んでいく。新都は放棄され、またアテン神は無視され、アメン神への信仰が復活するに至る。
 紀元前172年頃民族のヒクソスがナイルのデルタ地域に侵入し、やがて下エジプトを占拠するにいたり、エジプトは異民族の支配下に置かれる。ヒクソスは鉄器と鉄製の戦車を持っており、エジプトの兵は青銅器製の兵器を持っていた。ヒクソスの支配下で十三王朝から十六王朝までの時代を経て、テーベから進出した第十七王朝によってヒクソスが追放され、新王朝となる。ここに新王国時代が始まる。王家の谷に王墓が営まれた。トトメス3世の海外遠征があった。いわゆるアマルナ時代があった。ラムセス2世の遠征があった。紀元前1000年頃、プンセンネス1世。末期王朝時代となる。紀元前525年、現在のイランを根拠地とするペルシアにより、エジプトは征服を受ける。紀元前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王によりエジプトはペルシアの支配から解放される。
 同大王の流れを汲むプトレマイオス王朝が始まる。都は、アレクサンドリア。1799年、ナポレオンによるエジプト遠征軍に随行していた学者たちが、ナイル河口の町ロゼッタの土の中から発見された石の碑文に目を見張った。後に「ロゼッタ・ストーン」と呼ばれることになるこの石には、三つの言語による文書が刻まれていた。上段にはヒエログリフとよばれる象形文字、中段にはデモティックとよばれる民用文字、下段にはギリシア文字である。これらの文章の内容はいずれも同じであり、紀元前196年、プトレマイオス王朝の行政向きの事柄が記されていた。具体的には、冒頭の「この法令は硬い石碑に、聖なる文字と、人民用の文字とギリシア語とで刻まれ、第一、第二、第三(級)の神殿に、永遠に生きる王の側に安置されるであろう」から始まり、全体としてプトレマイオス5世エピファネスのの裁冠一周年を記念し王本人を現人神と布告することにより、その善政を讃えている。この王は、紀元前205年、6歳にして王位についていたギリシア人の王であった。
 紀元前1世紀末、エジプトはローマにより征服される。最後の王は、女王クレオパトラであった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

52*◎22『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(春秋戦国時代)

2017-08-14 18:02:36 | Weblog

52*◎22『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(春秋戦国時代)

 紀元前770年~紀元前476年(他説として403年もある)の期間を、「春秋時代」と呼ぶ。この頃の歴史書として、(周の文王の子、武王の弟の周公旦が建てた魯(ろ)の年代記・『春秋』があって、孔子が編纂したとも伝承されるものの、はっきりしない。この時代になると、周の王権は衰え、各地に有力な諸侯が現れている。彼らは、互いに覇を競っていた。春秋時代に続くのが「戦国時代」と呼ばれ、紀元前475(403年説もある)~紀元前221年までをいう。晋が前403年に趙・韓・魏の三国に分裂したことで、波瀾な勢力図の火蓋が切っておろされた。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント

51*◎21『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(夏と殷と周)

2017-08-14 17:59:39 | Weblog

51*◎21『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(夏と殷と周)

 そもそも、中国での最初の文明とされてきたのが、夏(か、中国語読みではシア)である。この王朝は、長らく遺跡が発見されていなかった。その漠然としていた夏が実在していたことが、「二里頭遺跡」(にりとういせき)の発掘で明らかになり始めた。前漢の武帝の時代の世に生きた大司公・司馬遷が著した『史記』によれば、古の中国には五人の王が順次立った。その五王の最後の舜(しゅん)は、自分の血筋ではない禹(う、紀元前1900年頃)に位を譲ったのだという。この禹は中国古代の伝説的な帝であって、大いに土木工事を起こしたという。実在したかどうかは明らかでないものの、ひとまずいたとして、それからは彼の子孫が代々王位を継いでいったのだといわれる。
 二里頭遺跡のある場所は、現在の河南省偃師(えんし)県偃師市にある。同じ省の洛陽市の東にある。この地は、黄河の中流から下流にかけての、古代から肥沃な地帯とされるところだ。古代の城壁も見つかっていて、その中に古代都市があったらしい。人口は3万人を下らなかったという推定が出されている。遺跡の大きさから、支配していた面積としては、半径100~200キロメートルほどの内であったと推定されているようだが、裏付けとなる史料はあるのだろうか。同遺跡からは、「爵」(しゃく)という酒器(酒を温める三本脚の青銅製の器)や、楽器などが見つかっている。いずれも、古代の儀式に使ったと考えられる。
 その前の中国はどうであったのだろうか。紀元前13000年頃については「新石器時代」であったとされ、人々は採集生活をしていた。穀物栽培の話は、今から約1万年前、紀元前8000年頃に遡る。その前の黄河中流域で最初に栽培されたのは、コメではなく雑穀のアワであった。副次的にキビも栽培していた。その同じ頃の長江中・下流域ではイネが栽培されていた痕跡が残る。イネはその後、朝鮮半島や日本列島にも伝わていく。黄河中流域、そこは南方へ向かう水路も通じていたのではないか。そうなると、水陸の両面でここに文明発祥の地の利があったことになるのだろう。
 中国王朝のその後に戻すと、『史記』によると、夏の最後の王・絜(けつ)は暴君であった。これを倒したのが、殷(いん)(別名は商で、「王都」の意味だと推定される)の湯王であって、新たな王朝をひらく。遺跡としては、新中国の成った1950年代、河南省の省都、鄭州で、二里岡の遺跡が発見された。
 1970年(昭和45年)、その二里岡遺跡から、城壁と宮殿の址が発見された。現在の鄭州市中心部の真下に埋まっているらしい。ほぼ長方形をした城壁の総延長は約7キロメートルもあるといわれ、城内の東北部から多数の宮殿址が発掘されたという。この遺跡の推定年代は、近年の科学的年代測定で、紀元前1600年頃から始まることが分かった。殷(商)代前期の遺跡とされ、これを「鄭州商城」と呼ぶ。
 夏と殷(商)の遺跡がほぼ同じ地域から見つかっているのは、なぜであろうか。司馬遷の『史記』は、商の湯王が夏を滅ばしたあと、「夏の子孫を封じた」と記載している。これによると、夏の人々は殷(商)により夏がとって変わられた後も、ほぼもとのままの形で、二里頭に留まっていたと考えられる。そういうことであったなら、殷(商)は王朝ののさしあたっての首都を、夏王朝のかつての都に近い偃師に置くことによって、二里頭の夏人を支配してゆく意図があったのではないか、と中国ではいわれている。
 1983年、今度は洛陽から西に約30キロメートル平野にある河南省偃師(えんし)市で城壁と城門をもつ都城址が発見された。1995年まで大規模な発掘調査が行われ城枠の面積は約200万平方メートル、城壁の総延長は約5500メートルで、五カ所に城門があったことと、城外には濠が巡らされていたことが判明した。その中、城内の南部からは複数の宮殿址がやかなりの出土品が発見された。これらから、殷(商)代早期の都城と推定され、「偃師商城」と名付けられる。こちらの遺跡の推定年代も紀元前1600年頃から始まることが分かっている。
 殷(商)中期、紀元前1400年頃からの遺跡としては、小双橋(しょうそうきょう)遺跡と○(えん)北商城が見つかっている。まず小双橋遺跡の方は、鄭州市石仏郷(せきぶつきょう)にある。それから○(えん)北商城の方は、殷(商)代後期の遺跡の別称である「殷○(きょ)」の北約1.5キロメートルの地点にあったとされる。
 さらに殷代後期の遺跡があって、こちらは1928年以来発掘が進められてきた。場所は、河南省安陽(あんよう)市内とはいえ、同市の北西の小屯村を中心とした一体にあり、今は田圃の中といったところか。安陽市の現在は、「黄河の北約150キロメートルの場所にある。しかし、古代には、黄河の河道が現在より北にずれていたことが文献から確かめられており、殷墟(いんきょ)も古代は黄河沿岸の都市であった」(鶴間和幸・NHKスペシャル四大文明プロジェクト編「四大文明・中国」NHK出版、2000)と推定されている。
 その場所の発掘が精力的に進められる中、紀元前1300年頃~同1050年頃、殷(商)王朝後期の首都があったのだとされる。こちらの遺跡からの出土は、大規模なものであった。宮殿跡、大小の墳墓、竪穴式住居跡などが発見されたほか、文字を刻んだ多数の精巧な青銅器・玉器も多数出土した。この大規模な発掘により、司馬遷の『史記』に書かれていたことが大きく違わないことが明らかになった。
 殷(商)の文化で劃期を茄子ものが、1899年の甲骨文の発見により明らかになった、漢字である。これが使われた時期として現在までに分かっているは、殷代後期の武丁(ぶてい)から帝辛(ちゅう王)にかけての約250年間であって、殷王朝の政治的な向きにおいても大いに使われていたらしい。
 その漢字は甲骨文字といって、亀の甲羅や動物の骨(牛の肩胛骨)などに彫られているものが見つかっている。政治の向きは、印欧庁の卜官(ぼくかん)が「骨卜」を行う。甲羅に何かの政治事を書いた上で火であぶったものと見える。その甲羅にあらわれた「ひび」(割れ目)の具合によって、吉凶の判断が出る。その結果を王に報告し、王の判断をまた骨に刻んでおく。どうやら、朝廷の日々の政治向きのことについても呪術が幅を効かせていたようなのだ。
 そして紀元前1066年頃、殷に従っていた周が蹶起して、殷を滅ぼす。周は、中原に覇を確立した。紀元前771年、幽王の治世になると、その周による政治は乱れていた。周の都の鎬京(こうけい)に犬戎(けんじゅう)という異民族が乱入する。都を奪われた周は、東方の洛邑(らくゆう)に都を移す。これを「周の東遷」(しゅうのとうせん)と呼ぶ。都を洛邑に遷して東周となった後の周は、500年余を過ぎた紀元前256年秦に滅ぼされる。なおこの時代に、文字は殷代の甲骨文字から大○(てん)文字へと進展した。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメント