(318*228)『自然と人間の歴史・日本篇』大正デモクラシーとその終焉(治安維持法)

2017-08-08 21:47:40 | Weblog

(318*228)『自然と人間の歴史・日本篇』大正デモクラシーとその終焉(治安維持法)

 このような「大正デモクラシー」の大まかな流れとはいえ、これに先立つ日ソ基本条約調印直後の1925年(昭和元年)3月に、1922(大正11年)年の過激社会運動取締法案の基調を受け継いだ治安維持法(全部で7か条)が成立していた。この新法は、同じくこれに先立つ普選法に先だつ同年4月22日の加藤高明内閣下で公布された(同5月には天皇による勅令にて朝鮮・台湾・樺太(からふと)にも適用を決める)。その第一条には、こうあった。
 「国体ヲ変革シ又ハ私有財産ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ
之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス。前項の未遂罪は之を罰す。」
 要するにこれは、治安警察法のように特定行為に着目し処罰するのではなく、「国体」とか「私有財産」を否認する特定思想がもたらす社会的行為を刑事法で処罰する、もって天皇制国家と資産家の利益を守るというもの。わけても「国体」というのは、政権側及び官憲、後者には特別高等警察(略して「特高」と呼ばれた)が含まれる)により、どうにでも拡大解釈できるような代物(しろもの)であった。「民主主義」(当時は国民主権と受け取られるのをはばかって、吉野作造など「民本主義」と低める論者も多かった)護持の観点からは、個人の基本的人権を国家の下に置くこの法律案に、三派連合内の革新娯楽部は反対を貫いた。
 同法の施行を待っていたかのように1928年(昭和3年)3月15日、この法律の結社罪の適用により、日本共産党とその周辺の人々が検挙される。起訴の憂き目に遭った人数は488人の多くに上ったという。これを「三・一五事件」(さんいちごじけん)と呼ぶ。1917年(大正6年)のロシアでの社会主義革命以来、資本主義体制を守るためには手段を選ばない風潮の中、先の選挙法の施行で活発化し始めていた社会主義者の合法活動に鉄槌(てっつい)を加えてやろうという政府の姿勢の表れといえる。
 このようないかめしい顔をもった治安維持法だが、その翌年の1929年(昭和4年)には、早くも重罰化の法「改正」が取られた。その改正第一条には、こうあった。
 「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル(担当シタル)者ハ、死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁固ニ処シ、情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル者ハ、二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁固ニ処ス。」(当時の『官報』)
 当時の衆議院議員の山本宣治(やまもとせんじ、労農党、1889~1929)は、1929年3月5日には、全国農民大会で「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ。山宣独り孤塁を守る。だが僕はさびしくない、背後には多くの大衆が支持しているから」云々と演説をした。そして、治安維持法の刑強化改訂の事後承諾を求める第56帝国議会本会議に向かうも、登院しただけで発言を封じられる。その晩、定宿の神田光栄館に侵入した右翼暴漢黒田保久二の凶刃に倒れた。満39歳)の若さであった。その彼の死後に発見された演説草稿『治安維持法改悪反対=前衛虐殺法反対』には、こう書いてあった。
 「(1~6は略)7、さて、次に、議会政治とは何かという問題を解剖して見なければならない。この議会政治は、人民の代表によって、誠治の大綱方針が決定されるところの
民主主義的な存在であるというように幻想されているものである。従って、議会政治には、人民の意志が入っているものだという風に説明され是認されているはずである。
 しかるに、その実質はどうであるか。それは、あまりにもキレイに、右の幻想を粉砕するものである。いまや、議会政治は美事まり資本家階級の政治機関として、その本質を露呈するに至っている。ことに、その適例として、緊急勅令の発布によって、議会政治というものが、どんなにもなるものだという事が証明されるのである。
 この間の形式的な議会については憲法違反の問題として、既に述べつくされているようだから再言しないが、ともかく、資本家階級の必要に応じていつでも緊急勅令というものが濫発されるということが、判然して来た。すなわち、いうところの議会政治は、完全に破壊されて、一般大衆の眼を欺くための偽装としてのみ価値と意義をもったものだと断言出来るのである。されば、わたくしは、この確信のもとに、この帝国議会へ臨んでいる次第である。
 8、治安維持法は、いまや、もっとも悪辣に改悪されようとする。最大十年というのを、死刑、無期、五ヵ年以上というような極刑をもってするに至った。然しながら、その法文の内容は、極めて曖昧である。その第一は××であるが、いったい××とは何かという観念が、極めて粗雑である。しかも粗雑なばかりでなく、これを神秘化して、支配階級弾圧の口実たらしめようとしていることを見なければならない。いうまでもなく、××とは人民から独立したところの存在ではない。××こそは、その国土の中にある人民である。したがって、人民の多数がすなわち、××の内的概念であり要素である。果たしてそうだとすれば、××こそは、無産階級の存在の上にのみ樹てられてるものである。然るに、血迷える俗学者を始めとして、××を×(主)権と結びつけたところの絶対権だとしていることは、甚だしい虚構である。
 第二は××××制度の変革ということである。××××という制度を、永久化することは、さしあたり、今の資本家、地主の要望である。そのために、彼らが、このうましき現実を、未来永劫にわたって確保、-維持-発展しようとしているのである。
それだからこそ、この制度を変革されることに対して死に物狂いの闘争を決意するのであろう。 だがしかし、この××××制度こそは、被支配階級から強奪したものの集積の歴史を持っているところの制度であり、したがって、労働者・農民の恨みをもって綴られたる歴史をもつのである。之を近く、明治維新の歴史を見るも、現在の皇室領及び国有財産中には無料没収という行動がとられてことを回顧することが出来るはずである。」
 このような山本の心配が杞憂でなかったことが、1929年4月16日の左翼・良心的自由主義者らに対する2度目の弾圧によって明らかになった。さらに1930年2月の総選挙では、民政党が政友会に100議席ほどの大差をつけて勝って、政権を奪還する。これと呼応してか、同年2月26日には、またもや共産党とその周辺の人々に対する大検挙が行われ、検挙された者は約1500人、起訴された人数は461人に及んだ。このような荒技を可能にした治安維持法であったのだが、それでは足らぬと判断してのことなのか、1936年になると「転向者」向けに思想犯保護観察法を制定、それからさらに約6年が経過した、大平洋戦争に突入後の1941(昭和16年)3月には、同法の再改正により刑期満了者に対する「予防拘禁制」(よぼうこうきんせい)が追加・導入されるに及んで、いよいよその凶暴な性格を露わにしていく。因みに、1941年改正法中の予防拘禁制に係る条文・第三十九条を掲げるておくと、つぎの通りである。
 「第一章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレタル者、其ノ執行ワ終リ釈放セラルベキ場合ニ於テ更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スオソレアルコト顕著ナルトキハ、裁判所ハ検事ノ請求ニ因リ本人ヲ予防拘禁ニ付スル旨ヲ命ズ」(当時の官報)
 これらの暗い世相へのひた走りとの関連で、当時、特徴的な動きを見せ始めたのが大衆政党の豹変ぶりであった。わけても全国労農大衆党は、1931年9月18日時点では、「対中国出兵反対闘争委員会」を設けて国の植民地経営、海外侵略の製作に抵抗する構えを見せていた。つまり、この党はそれまで戦争反対の立場で闘っていた。ところが、翌1932年(昭和7年)2月実施の総選挙に臨んでは、「服務兵士家族の国家補償」でスローガンの一つとして掲げるに至る。これは、帝国主義反対ではなく、むしろこれを承知の上で無産階級一般の待遇改善を求めたものと言わざるを得ない。ちなみにこの総選挙において多数を占めたのは政友会がトップで301議席、二番目は民政党で146、この選挙結果を受けて政友会が政権に返り咲いた。

(続く)

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(22317*7)『自然人間の歴史・日本篇』大正デモクラシーとその終焉(普通選挙法)

2017-08-08 21:46:35 | Weblog

(317*227)『自然人間の歴史・日本篇』大正デモクラシーとその終焉(普通選挙法)

 1925年(大正14年)5月、男子に限った「普通選挙法」、略して「普選法」が成立した。これより前の1919年(大正8年)には、原敬(はらたかし)内閣が選挙権の有資格者を従来の直接国税「10円以上の納税者」(年間、以下同じ)から「3円以上の納税者」に引き下げ、小選挙区を導入する選挙法改正案を上程した。因みに、原敬は初の爵位をもたない「平民宰相」と呼ばれた。立憲政友会総裁で名をなし、首相在位は1918年(大正7年)9月29日から1921年(大正10年)11月13日までであった。それでいて、政党政治の発展には前向きであったかのように思われがちだが、実のところ、普通選挙法の早期実現には冷淡であった。彼の『原敬日記』中、内閣の長であった1920年に記したところに、こうある。いろいろと理由を付けているのは、彼の政治思想が浅はかなものであったことを物語る。
 「漸次に選挙権を拡張する事は何等異議なき処にして、又他年国情ここに至れば、所謂普通選挙も左まで憂ふべきにも非ざれども、階級制度打破と云ふが如き、現在の社会組織に向かって打撃を試みんとする趣旨より、納税資格を撤廃すと云ふが如きは、実に危険極る次第にて、此の民衆の強要に因り現代組織を破壊する様の勢を作らば、実に国家の基礎を危うするものなれば、寧ろ此際、議会を解散して政界の一新を計るの外なきかと思ふ」(『原敬日記』)
 これに対し、犬養毅(いぬかいつよし)の所属する国民党は、納税額を2円とし、その年齢も25歳から20歳に引き下げること、また中学以上の教育を受けた者や兵役の義務を終了して者には、納税しなくても選挙権を与えるとべぎたとして、国会に臨んでいた。1925年(大正14年)1月22日の衆議院本会議における加藤高明首相(かとうたかあき、憲政会総裁、第二次憲政擁護運動で護憲三派内閣の首班に就任)の普選法の提案理由には、「周(あまね)く国民をして国運進展の衝にあたらしむるが刻下(こくか)最も急務なりと認めた」とあった。この普選法は、それまでの納税額による選挙権の閾(しきい)を取り払い、有権者数はそれまでの307万人(5.5%)から1241万人(20.0%)に拡大した(朝日進学情報埼玉版、2015年7月号)。
 同法成立の力になったのは、「経済上に優者、劣者の階級を生じ、為に経済的利益が一部階級のろうだんに帰せん」(「吉野作造著作集」岩波書店刊、1995)とするそれまでの政治の流れに対し、この国が生み出す社会的な富を「一般民衆の間に普く分配せんとする精神に基づく」(同)ものであったといえる。しかしながら、その思想は不徹底であり、女性は除外されるのが当時の支配的な空気であり、婦人参政権獲期成同盟創立総会決議(1924年12月13日)の「選挙法改正法案中に婦人を男子と同様に含むことを要求す」との文言も無視された。
 1928年(昭和3年)2月、普選法に基づく、成年男子に限った初めての選挙が実施された。有権者総数は約300万人から約1200万人に増え、有権者の大雑把な内訳は小作農を含めた農民が約550万人、労働者が約310万人、残りの都市中間層などが約340万人と見積もられる。選挙の結果は「護憲三派」(加藤高明らの憲政会、高橋是清(たかはしこれきよ)が率いる政友会総裁派、犬養毅らの革新娯楽部)の勝利となった。そこで、6月にこれら3派による加藤高明(憲政会)首班の内閣が成立する。明治元勲たちによる特権政治に象徴される、いわゆる藩閥政府の流れを汲む政友会の一党支配が頓挫した。

(続く)

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(308*222)『自然人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(絵画1)

2017-08-08 21:43:42 | Weblog

(308*222)『自然人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(絵画1)


 洋画家の黒田清輝(くろだせいき、1866~1924)は、日本における西洋画の草分けといえる人物だ。薩摩藩士の黒田清兼の子として生まれた。その後に伯父の子爵、黒田清綱の養子となった。東京外国語学校を卒業後の1884年(明治17年)年にかけてフランスに留学した。金持ちの家なのであった。法律を学ぶという当初の目的を現地で美術専攻に変更し、画壇を夢見て精進を重ねる日々を過ごす。パリで画家になった彼は、秦を持って日本に帰ってくるのたが、そこには数奇な運命が待ち構えていた。
 というのは、黒田がフランスから帰国する直前の1893年(明治26年)に仕上げた絵に、全裸で立つ「朝妝」がある。フランス女性を描いた裸体画の大作である。描かれた女性は全裸で立っており、この作品はパリの「サロン・ナショナル・デ・ボザール」に出品されたとある。日本への帰国後は、1894年の第6回明治美術会に出品される。ところが、これを翌年の第4回内国勧業博覧会(京都)への出展の可否を巡って、当時の美術界を揺るがす論争が起こる。この裸体画の出展を問題視した人々には、この絵が「猥褻物」だという認識があった。
 諦め切れない彼は、東京美術学校教授に就任した年(1898年)から3年後の1901年、白馬会展に別の「裸体婦人像」を展示したのだった。これも、全裸の裸婦像であった。これがれっきとした出展であったためだろうか、会場に警察が乗り込んでくる。女性の下半身が露出されているのを咎め、展示されてる絵の下半分を布で覆うという珍事が出来した。これを「腰巻」と見立て、「腰巻事件」と呼ぶ。
 1899年にも全裸の3人の女性を描いた「智・感・情」という大きな絵を発表する。これは、一糸まとわぬ等身大の女性の裸体が3人、すっくと立った、3つの絵とも受け取れるような、大きな絵である。彼女たちは、国宝展(2001年上野美術館で開催)でも、「静謐さ」の中に凛々しく立っていた。一説には、抽象的な概念を表した寓意画だといわれる。その頃には、流石に観賞する側の心構えにも進歩があったに違いない。彼自身は、そののち最初の帝室技芸員に選ばれたり、帝国美術院院長などを歴任したり、養父の死去により子爵となったり、さらには1920年には貴族院子爵議員互選選挙に当選しての貴族院議員にも就任し、市井(しせい)に生きる人々とは一線を画した特権階級の一員でもあり続けた。
 菱田春草(ひしだしゅんそう、1874~1911)は、長野県に生まれる。早くから、絵を能くした。東京美術学校に進み、絵画を学んだ。1898年(明治31年)には、日本美術院の創立に参加する。画業の盟友である横山大観(よこやまたいかん)とともに、朦朧体(もうろうたい、没線彩画とも呼ばれる)を試みる。輪郭線を明確に引くのではなくて靄のかかっているような作品をつくっていた。『紫陽花』(1902)は、その朦朧体と称された技法が非難された頃のものであるが、紫陽花の持つ華やかな中にも、何かしら儚いというか、淋しさの漂う雰囲気を満喫させてくれる。
 だが、そのうちその靄がみられなくなっていった。1907年の文展開設後は、『黒木猫』や『落葉』といった代表作の制作にとりかかる。30代、円熟期に入ってからの作風は、「鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼」とか「朦朧体の克服から写実と装飾の世界へ」などと評される程に、日本画の新たな境地を切り開いたと絶賛される。それに間違いないにしても、特徴的なのは、観る者が絵の中にすうっと入っていけるような雰囲気を備えていることではないだろうか。世に、これはすごい、うまいと思われ、見入ったり、絵の前で立ち尽くしてしまう絵は、さぞかし多かろう。しかし、卓越した技術が感じられるだけでなく、作者の人間的な心の暖かさが伝わってくる時、それを眺めている私たちは、日頃の喧騒や落ち着きのなさから暫し解放されているのではないか。
 動物の中では、猫を好んで描いた。『猫梅』(1906)は、あの名作『黒き猫』の4
年前の作とされ、写実的ながらも、ふっくらしたした姿と表情をしている。代表作の一つとされる『黒き猫』の猫は、爛々(らんらん)と光る目でこちらを眺めている。まるで「おまえは何者か」と言わんばかりだ。柏の木の幹にうづくまっていて、流石(さすが)にかみついてくる気配は感じられない。猫とは、やはり人間に依存し切らない動物であって、猫好きの私も、小さい頃図に乗ってからかったりしていたところ、何度か青い眼をカッと見開いて、牙をむき出しに怒られたことがある。
 『落葉』については、春草自身が「画の面白み」を優先することで、三次元的な奥行き表現がうまくいかなかったと述懐しているらしい。それでも、違和感はさほど感じない。林の中に自分もいるような気がしている。手を伸ばすと触れるかのようであるのだが。美術批評によると、木の名前は、過ぎやトチノキの若木、クヌギなどであるとのことである。少年時代に、森や林の中を、きのこや栗や「ぐいび」(方言か)など森の幸を探し求めてやたらと歩き回っていたのが、懐かしく想い出される。

(続く)

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(306*220)『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学1)

2017-08-08 21:39:59 | Weblog

(306*220)『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学1)

 石川啄木(いしかわたくぼく、1886~1912、本名は石川一)は、短歌で人生のさまざまな場面を巧みに表現した。例えば、「働けど働けど吾が暮らし楽にならざりじっと手をみる」は、労働者なら分かる心情を吐露した。「たわむれに母を背負いてそのあまり軽気に泣きて三歩歩まず」からは、しみじみと情感が伝わってくる。さらに「ふるさとのなまりなつかし停車場の人混みの中にそを聞きに行く」とあるのには、今も故郷から出て来た者の心に懐かしく響いてくる。だれでもが容易くわかる言葉を使っている。だから、作者の心の動きがわかる。そんな彼だが、『時代閉塞の現状』なる社会評論を、発表している。
 「蓋(けだ)し、我々明治の靑年が、全く其父兄の手によって造り出された明治新社會の完成の爲に有用な人物となるべく敎育されて來た間に、別に靑年自體の權利を認識し、自發的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日淸戰爭の結果によって國民全體が其國民的自覺の勃興を示してから間もなくの事であつた。既に自然主義運動の先蹤として一部の間に認められてゐる如く、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義が即ち其第一聲であった。(中略)
 樗牛の個人主義の破滅の原因は、彼の思想それ自身の中にあった事は言ふまでもない。即ち彼には、人間の偉大に關する傳習的迷信が極めて多量に含まれてゐたと共に、一切の「既成」と靑年との間の關係に對する理解が遙かに局限的(日露戰爭以前に於(おけ)る日本人の精神的活動があらゆる方面に於て局限的であった如く)であった。(中略)
 この失敗は何を我々に語つてゐるか。一切の「既成」を其儘にして置いて、其中に、自力を以て我々が我々の天地を新に建設するといふ事は全く不可能だといふ事である。
 斯くて我々は期せずして第二の經驗ー宗敎的欲求の時代に移った。それは其當時に於ては前者の反動として認められた。個人意識の勃興が自ら其跳梁に堪へられなくなったのだと批評された。然しそれは正鵠を得てゐない。何故なれば其處にはたゞ方法と目的の場所との差違が有るのみである。自力によって既成の中に自己を主張せむとしたのが、他力によって既成の外に同じ事を成さんとしたまでゞある。(中略)
 かくて我々の今後の方針は、以上三次の經驗によって略(ほゞ)限定されてゐるのである。即ち我々の理想は最早(もはや)「善」や「美」に對する空想である譯はない。一切の空想を峻拒して、其處に殘る唯一つの眞實ー「必要」!これ實に我々が未來に向って求むべき一切である。我々は今最も嚴密に、大膽に、自由に「今日」を硏究して、其處に我々自身にとっての「明日」の必要を發見しなければならぬ。必要は最も確實なる理想である。
 更に、既に我々が我々の理想を發見した時に於て、それを如何にして如何なる處に求むべきか。「既成」の内(うち)にか、外にか。「既成」を其儘にしてか、しないでか。或は又自力によってか、他力によってか。それはもう言ふまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。從って過去に於ける失敗を再びする筈はないのである。
 文學ー彼(か)の自然主義運動の前半、彼等の「眞實(しんじつ)」の發見と承認とが、「批評」としての刺戟を有(も)ってゐた時期が過ぎて以來、漸くたゞの記述、たゞの説話に傾いて來てゐる文學も、斯くて復(ま)た其眠れる精神が目を覺して來るのではあるまいか。何故なれば、我々全靑年の心が「明日」を占領した時、其時、「今日」の一切が初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に沒頭してゐては時代を批評する事が出來ない。私の文學に求むる所は批評である。(完)」
 これにあるのは、個人主義になったり、宗教に傾倒することでは、時代への批評の精神を養うことができない。それができるのは、文学者として社会変革に積極的にかかわっていくことなのだと。
 芥川龍之介(あくだかわりゅうのすけ、1892~1927)は、若くして達者な物語構成力を身につけていた。作家活動は東京大学の学生時代から既に始まっており、よくある文壇デュー前の下積み時代などはないと言って良い。最終作の「河童ーある阿呆の一生」までの作品はいずれも短編に属する。中学校の国語の教科書にも、よく出て来るものが、多い。その特徴は着眼点にあり、ぐいぐいと引っ張られる。双方から放たれた矢が寸分の狂い無くぶつかり合ったり、地獄から脱出するための一本綱に数珠つなぎに人がぶら下がる様などは、現実にはあり得ないことなのだが、読者はそのことを心に刻むべくして刻む。言うなれば、彼の小説には、研ぎ澄まされたストーリーがあって、それが暫しながら読む者の脳裏を独占してしまう。そんな彼にして、「侏儒の言葉」という名の評論があり、文学とは少し離れたテーマについての、多くは断片的な文章の集まりとなっている。その「序」には、こうある。
 「「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。」
 これらからすると、本人としては世間体を気にせず、自由な気持ちでペンを走らせてみたのかもしれない。気軽に論じてみたからご覧あれ、ということなのだろうか。それにしては、なかなかに本質を突くような社会批評が幾つもあり、その中から幾つか紹介しておこう。
 「日本人。我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命(さるたひこのみこと)もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?」
 「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆(ほとん)ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。」
 「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似てゐる。…なぜ軍人は酒にも酔はずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?」
 「小児。軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章もーーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
 「倭寇。倭寇(わこう)は我我日本人も優に列強に伍(ご)するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮(さつりく)、姦淫(かんいん)等に於ても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙人(スペインじん)、葡萄牙人(ポルトガルじん)、和蘭人(オランダじん)、英吉利人(イギリスじん)等に劣らなかった。」
 これらのうち、一際風変わりな書きぶりで、日本人全体への提言らしきものが見えている気がするのが、日本の古代史をもじった、やや風変わりな「日本人」考なのである。ここに「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)とあるのは、伝説上の女神アマテラスの孫を天孫降臨の地に案内する役を務めた忠臣にして、これもアマテラス同様に実在の人物ではなく、「訓紀」(「日本書記」及び「古事記」)が想像でつくり出した人物神に他ならない。
『古事記』にはその風貌を記述した場面はなく、『日本書紀』神代下にそれが次の如く特異なものであったと記されている。
 「一神有り。天の八達之衢に居り。其の鼻の長さ七咫。背の長さ七尺余。七尋と言ふべし。且つ、口・尻明耀。眼は八咫鏡の如くにして、てりかがやけること、赤酸醤に似れり。」(『日本書紀』神代下の第九段一書第一)
 これが(初出)発表されたのは1925年(大正14年)のことで、あの治安維持法の制定・施行と同じ年だ。川端俊英・同朋大学教授によれば、「「皇祖皇宗」ライの真理のごとく唱える教育勅語の「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝行ニ」を、歴史的事実を歪めるものとして茶化しているのである」(川端俊英「大正期の文学に現れた人間観(8)ー芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界」:岡山部落問題研究所「部落問題ー調査と研究」2000年12月、第149号)とのこと。
 今ひとつ、「軍人は小児に近いものである」と述べているのは、いかにも曖昧さに安住しない性癖のあった芥川らしい。こちらが(初出)発表されたのは1923年(大正12年)のことであった。これより前の1916年(大正5年)12月から2年4か月にわたり、芥川は横須賀海軍機関学校で幹部候補生に教鞭(英語)をとっていて、そこでの経験から来るのであろうか。そうであるなら、現場を何かしら観察した上での断定と見なせることに留意したい。そして、最後の「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」との問いかけは、今日においてもなお続けられている叙勲の浅ましさ、人間不平等の「臣民思想」に根ざしたものだということを、それぞれ白日の下に明らかにしているのではないだろうか。

(続く)

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(305*219)『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ2(1920~24年まで)

2017-08-08 21:34:01 | Weblog

(305*219)『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ2(1920~24年まで)

 そして迎えた1920年2月、野党が普通選挙法案を提出したのを機に、原首相はこれに反対の立場から衆議院を解散するに至る。解散の11日前に、「積極財政」を前面に出した1920年度予算が衆議院を通過していたこと、同年3月から5月にかけての「反動恐慌」が民間では大不況へ向かう前触れとして一般大衆に感じられていなかったことなどせが、5月10日の総選挙実施と開票結果に幸いした。これら選挙法改正による「ガス抜き」からの要因に助けられた形で、原首相の与党・政友党は衆議院464議席中278議席を得て選挙に圧勝したのであった。
 1922年(大正9年)3月には、全国水平社が結成される。その綱領には、こうあった。
 「一、特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す
一、吾々特殊部落民は絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し以て獲得を期す
一、吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す
大正十一年三月三日、全國水平社創立大會」
結成に際しては、次の呼びかけが採択された。被差別者自身が自主的な運動で解放を勝ち取ることをうたったもので、執筆したのは西光万吉(さいこうまんきち)という奈良県の被差別部落の青年であった。
 「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。
 長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」

(続く)

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(304*218)『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ1(1919年まで)

2017-08-08 21:32:42 | Weblog

(304*218)『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ1(1919年まで)

 第二次桂太郎内閣は、社会運動に比較的寛容であった西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の姿勢を翻して、この種の運動を厳しく取り締まっていく。1910年(明治44年)5月、密かに爆弾製造を計画しているとして、無政府主義者の幸徳秋水ら多数が検挙された。これを「大逆事件」という。この事件だが、その年の12月10日には大審院の公判が開始され、翌年1月18日には24名全員の死刑判決が出るという短兵急な審理であった。翌日の天皇による命令で、うち12名が無期懲役に減刑される。その一週間後には、幸徳ら12名は命を絶たれ、幸徳の友人の堺利彦らが遺体を引き取りに行った。後日談だが、第二次大戦後の研究(1950年発表の史料集の『大逆事件記録』に詳しい)により、彼らの全員がえん罪であったことが判明している、それは単に誤認・誤審というよりは、戦前の天皇制崇拝と、政府の意におもねる官憲(検察、警察)そして法廷がもたらした悲劇であったのだ。
 ところで、この事件が当時の知識人一般に与えた影響は、甚大であったことが伝わる。
石川啄木(いしかわたくぼく)は、すなわち自身の日記に「日本はダメだ」と記し、永井荷風(ながいかふう)も、「わたしは世の文学者と共に何も言はなかった。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした」(雑誌『改造』1919年12月号)と嘆いた。そんな中でも、この判決に公然と異議を唱えた知識人に徳冨蘆花(とくとみろか、1868~1927)がいた。彼が、被告12人の処刑された翌月の1911年2月、第一高等学校弁論部主催の講演会に臨んでおこなった演説には、こうある。
 「諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能(あた)わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。
(略)繰り返していう、諸君、我々は生きねばならぬ。生きる為に常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
 諸君、幸徳君らは乱臣賊子(らんしんぞくし)として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。然し今日となって見れば、逆賊でないこと西郷の如き者がある乎。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。然し百年の公論は必その事を惜んで其志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。」(『謀叛論』)
 当時の徳富は、いわゆる無政府主義者でも社会主義者でもない、一人の文学者であったに過ぎない。その本人が、自身のことを「臆病だ」としつつも、罪なき者を罰してはならなかったと、糾弾した。それが、どれほど勇気を必要とする一事であったかは、想像するに余りある。
 1911年(大正元年)、青鞜社(せいとうしゃ)が創設される。文藝結社であるとはいえ、家父長制度から女性を解放することを第一に掲げる。これを呼びかけたのが平塚明(はる)(平塚らいてう、平塚雷鳥の本名)らであり、文芸機関誌『青鞜』を発刊し、この文芸機関誌『青鞜』の発刊第1巻第1号に、彼女が著した「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」は、創刊の辞として注目された。それから9年を経た1920年、平塚は、今度は市川房枝、奥むめおらの協力を得て、新婦人協会を結成する。女性の政治演説会への参加を禁じた治安警察法第5条の改正などの請願運動をおこす。1922年に治安警察法第5条2項の改正に成功した。一方、平塚が創設したその後の青鞜社は停滞しており、1923年末に解散してしまう。その後の明は、昭和初期には無政府主義運動にかかわり、高群逸枝らの『婦人戦線』の同人となる。また、クロポトキンの相互扶助の理念に共鳴して消費組合「我等の家」の設立にも関わる。
 1919年(大正8年)3月、我が国貿易収支は輸入超過に転じていた。翌1920年(大正9年)に入ると、「反動恐慌」の有様となっていく。大戦景気で蓄積していた在外正貨は急速に減少していった。加えるに、1912年(大正12年)の関東大震災により復興財源が必要となったことがあり、財政が逼迫していったことも痛手となる。不況と震災を背景として、日本社会は暗い世相に流れ込んで行くのであった。
この頃の明るい話題としては、1919年3月に、有権者資格を広げる選挙法改正を、衆議院議員から出た初の「平民宰相」、原敬(はらたかし)・政友党内閣が行っていた。それまで有権者の納税資格を10円以上であったのを3円以上に改めた。そのことで、有権者数は約150万人から約300万人に倍加した。とはいえ、あらたに選挙資格を持つ有権者約150万人の半分位は、比較的富裕な農民であった。そういう理屈で、都市部における政治地図はほぼ影響を受けることがなかったのが、「平民特権階級」出身の原の政治手腕というどころだったか。

(続く)

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(300*217)『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の農民などの状態

2017-08-08 21:28:04 | Weblog

(300*217)『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の農民などの状態

 1908年(明治41年)時点でみた農地の所有状況(北海道を除く)では、1ヘクタール未満の零細所有者の占める割合がずば抜けて多い。 5ヘクタール以上の農地の所有者は、約13万戸がある。ところが、同規模の農地の耕作者の数は4万2000戸である。これは、大土地所有者が貸し付け地主化している、つまり小規模農家が大地主からの貸付地で、小作料を支払って耕作していることを覗わせる。
 ところが、1908年以降になると、しだいに1から2ヘクタール前後の農地を耕作する者の数が増加していくのに対し、3ヘクタール以上の富農層とと0.5ヘクタール未満の小規模農家が減少していく。しかも、雇用労働力を雇い入れているとおぼしき5ヘクタール以上の富農としての耕作者の数は、同年4万2000戸から1918年(昭和7年)の2万5000戸、さらに1928年(昭和3年)には1万5000戸にまで減少していくのである。ただし、全農地に対する小作地の割合である、小作地率は1910年(明治43年)から1930年(昭和5年)まで45.6%から47.7%の間でほぼ安定していて、その水準は戦後の農地改革開始前まで続いたことになっている(以上の計数については、三和良一氏による『概説日本経済史第2版』東京大学出版会、1993に所収の統計:『日本農業基礎統計』、『近代日本経済史要覧』から引用させていただいた)。
 1916年(大正5年)8月、東京正米(しょうまい)平均相場(1石=約150キログラム当たり)は13円62銭であったのが、翌1917年からじりじりと上がり始める。それが、1918年(大正5年)1月には23円84銭となる。その後、今度はシベリア派兵などをあてこんだ、商人がコメを買い占めて利ざやを稼ごうしたり、地主がコメを売り惜しんだ。その結果、米の市場は品薄と成り、文字通りのうなぎ昇りになっていく。同年8月には、38円70銭の高値を付けるに至る。東京市内の小売価格は、1升(しょう)売り(約1.5キログラム)当たり50銭を超えた。全国的にも、一升が40、50銭にもなるところが多くなっていく。前年の不作が値上げ圧力に加わる中、人々の値上がり予想が高まる中、労働者一般の賃金の上昇は立ち後れ、実質所得が減っていたところへ米価が上がったことで、生活貧窮者の生活が回らなくなったことが背景にあることで、全国で共通していた。
 きっかけは1918(大正7)年7月、漁師の妻らが米の北海道への移送の中止を求めて、富山県の魚津港の米倉へ押し寄せた。これが発火点になり、富山県内の水橋や滑川を経て、全国規模に拡大した。この発端の事件を「越中(えっちゅう)女一揆」と呼ぶ。当時の「東京朝日新聞」記事に、こうある。
 「200名の女房連が 米価暴騰で大運動を起す
◇米屋や米の所有者を襲い廉売を嘆願し ◇肯〔き〕かなければ家を焼払い鏖殺(おうさつ=みなごろしにすること)と脅迫
 富山県中新川郡西水橋町町民の大部分は出稼業者なるが、本年度は出稼先なる樺太は不漁にて帰路の路銀に差し支うるありさまにて生活すこぶる窮迫し、加うるに昨今の米価暴騰にて困窮いよいよその極(きわまり)に達しおれるが、3日午後7時漁師町一帯の女房連200名は海岸に集合して3隊に分れ、一は浜方有志、一は町有志、一は浜地の米屋及
び米所有者を襲い、所有米は他に売らざることおよびこの際義侠的に米の廉売を嘆願し、これを聞かざれば家を焼払い一家を鏖殺にすべしと脅迫し事態すこぶる穏かならず、かくと聞きたる東水橋警察署より巡査数名を出動させ、必死となりて解散を命じたるにようやく午後11時頃より解散せるも、一部の女たちは米屋の付近を徘徊(はいかい)し米を他
に売るを警戒しおれり。」(出典「東京朝日新聞」1918年8月5日付け)
 富山での、この事件の勃発から始まって、一両日の間に全国津々浦々に広がっていくスピードぶりであった。同年7月22日から9月17日までの間、全国において米騒動が発生したところは49市448町村あったうち、岡山県は1市、50町村、計51市町村に跨っていて、広島県、島根県などと並んで全国トップレベルの発生件数であった。
 1929年(昭和4年)には津山町と西苫田村、二宮村、院庄村、福岡村の一町4か村が合併して、津山市が誕生した。同年、勝北郡と勝南郡とが合併して、勝田郡が誕生した。
その美作では8月8日の深夜、落合町から騒動が始まり、翌9日には、津山の南新座の米屋が春に一升25銭であった米の値段を49銭に引き上げるとの知らせが入った。これに怒った人々は、10日になると、それぞれの役場前に集まって気勢を上げたり、米屋などに押しかけたり、久世地方では、大勢が輸送中のコメを襲撃した。騒動は美作一円に広がりつつあったものの、11日になって安い外米の買付け交渉が実り、神戸から千俵が入ったことで安売り放出するに至り、かろうじて役人と商人達は難を逃れることができた。同年10月には、米穀輸入税減免令の措置がとられた。同年11月の休戦によって、日本経済は「反動不況」に入っていく。

(続く)

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(299*216)『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の労働者の状態

2017-08-08 21:26:54 | Weblog

(299*216)『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の労働者の状態


 ここで第一次世界大戦前後の国内産業のおおよその発展状況について述べると、第一次世界大戦の主戦場はヨーロッパであったため、我が国の輸出が伸びて好景気が続いた。その旗頭が紡績業であり、岡山県では玉島紡績所、下村紡績所、岡山紡績所、そして倉敷紡績所などが代表的な資本として成長していった。けれども、日清戦争後の不況と相次ぐ紡錘の増設による過剰生産の中で、多くの会社が経営内容を悪化させていく。その県内資本の中で群から一つ跳び出したのが、1888年(明治21年)に「資本金10万円、4472錘の紡績設備」で株式会社として設立された倉敷紡績所である。同社の大原孫三郎ら幹部は、原料を最初から輸入棉花の混用で賄うとともに、規模拡大、生産性向上を目指しての技術革新に努めた。そのため、1895年(明治28年)の同社の紡績生産設備の規模は2万2016錘に急増した。
 ここで、当時の労働者がどのような状態に置かれていたかをみておこう。そもそも「一般工場法」と呼ばれるものは、欧米で最初に生まれた。これは、個別資本ではままならない、労働条件や労働時間などを政府の力で規制するものである。イギリスでの労働者の保護立法は、1802年の工場法(正式には徒弟の健康と道徳に関する法律)以後、たびたび制定されている。エリザベス救貧法の教区徒弟制度の一環としてのものであった。1819年にオーウェンの努力で紡績工場法(木綿工場法)ができた。これとても、繊維という特定の業種に限られていた。9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限された。加えるに、監督官制度が無かったために実効力には乏しかった。そのような状況の中で、労働者の要求も高まり、またシャフツベリーなど工場主の立場からも普遍的、実効的な労働者保護立法の必要を主張する人々の運動が続いた。
 これらが力となって、ホイッグ党のグレイ内閣の1833年に、一般的な(どのような工場にも当てはまる)工場法の制定が実現した。これは、選挙法改正(第1回)(1832年)、奴隷制度廃止などの自由主義的改革の一環としての制定経緯を持つ。この1833年工場法の下では、12時間労働、9歳以下の労働禁止、13歳未満の児童労働は週48時間、18歳未満の児童労働は週69時間、一日最高9時間労働、18歳未満の夜業禁止、工場監督官・工場医の設置などが定められた。それまでの婦人労働、児童労働、深夜労働など、ありとあらゆる形での労働力酷使の状態、つまりは「掠奪経営」による労働力の消耗が烈しかったのが、この立法で改善に向かう根拠を与えられた。加えて、監督官が工場の労働実態を立ち入って調査し、工場主や少年、婦人、労働者の供述を受けることで工場経営が透明性を増した。監督官の主張が明確に述べられる特徴を持ち、半年毎に議会によって公表されることにより、これをもって実効性のある労働時間制限ができ始める仕組みであった。イギリスでの草の根運動はこれ以後、8時間労働制の実現へと進んでいく。
 日本では、1911年(明治44年)3月28日に工場法が公布される(第二次桂内閣)。工場法は、工場労働者の保護を図るため、年少者の就業制限、年少者・女子の労働時間制限、業務上の事故に対する雇用者の扶助義務などを定め、盛り沢山の内容であった。とはいうものの、適用対象は、常時15人以上の労働者が使用されている工場に限られ(第1条)、工場主は12歳未満の者を働かせることはできないといいながら、法施行の歳に10歳以上の者を引き続き働かせる場合には適用除外するのであった(第2条)。そして工場主は、15歳未満の者や女子に1日当たり12時間を超えて働かせてはならないことにしているのだが、誰がどのようにこの遵守を感得できるのだろうか、疑問は尽きない法であった。なお、この工場法の施行は、公布から5年後の第二次大隈重信内閣時の1916年(大正5年)9月のことであった。あわせて、この法律立案の基礎資料の一つであったのが、次にその一節を掲げる横山源之助の筆による『日本之下層社会』中の「製糸女工の実態」なのである。
 「余嘗て桐生・足利の機業地に遊び、聞いて極楽観て地獄、職工自身が然かく口にせると同じく、余も亦たその境遇の甚しきを見て之を案外なりとせり。而も足利・桐生を辞して前橋に至り、製糸職工に接し、更に織物職工より甚だしきに驚ける也。労働時間の如き、忙しき時は朝床と出でゝ直に業に服し、夜業十二時に及ぶこと稀ならず。食物はワリ麦六分に、米四分寝屋は豚小屋に類して醜陋みるべからず。特に驚くべきは其地方の如き、業務の閑なる時は復た期を定めて奉公に出だし、収穫は雇主之を取る。而して一ケ年支払ふ賃銀は多きも二十円を出でざるなり。而して渠等工女の製糸地方に来る、機業地若くは、紡績工場に見ると等しく、募集人の手により来るは多く、来たりて二・三年なるも、隣町の名さへ知らざるもあり。其の地方の者は、身を工女の群に入るるを以て茶屋女と一般、堕落の境に陥る者と為す。若し各種労働に就き、その職工の境遇にして憐れむべき者を挙ぐれば製糸職工第一たるべし」(横山源之助『日本之下層社会』、1899年(明治32年)刊 )
 工場法のその後に触れておくと、1923年(大正12年)3月公布、1926年(大正15年)7月施行の改正法第1条で、適用を「常時10人以上の職工を使用するもの」と改める。第2条の「年少労働」と第5条の「深夜業」は削除となる。この法律は、さらに第二次大戦後の1947年(昭和22年)11月に失効し、代わりに同年9月の労働基準法施行へとつながっていく。
 織物業は、地方にも伝搬していった。例えば美作の地でも、1916年(大正5年)には郡是(グンゼ、京都府何鹿郡(いるかぐん)で、現在の綾部市が本拠、操業開始は1886年(明治19年)、創業者は波多野鶴吉)の津山工場が営業を始めた。なお、後日談としてこの郡是は、第二次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)から京都府内の宮津工場において、メリヤス肌着の生産を開始した。1954年(昭和29年)になると、ナイロンの発明により凋落した生糸の生産に終止符をうち、合繊加工業(ナイロン製のミシン糸)へと進出した。1972年(昭和47年)からは、ミシン糸の一貫生産工場として先年するようになった。さらに、2003年には多角経営へと道を目指し、津山グンゼ株式会社として新たなスタートを切った。

(続く)

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(297*214)『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の世界と日本(政治経済)

2017-08-08 21:17:36 | Weblog

(297*214)『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の世界と日本(政治経済)


 ところで、1905年、アメリカでの日露の講和条約(いわゆるポーツマス条約)で日本が手に入れたのは、旅順と大連の租借権(第五条)に留まらなかった。日本の北海道の北に延びる「サハリン島南部及其の付近における一切の島嶼(とうしょ・・・・・を完全なる所見とともに永遠日本帝国政府に譲与す。其の譲与地域の北方境界は北緯五十と定む」としてあった。他にも、日本はこの条約により長春以南の東清鉄道・同附属地炭鉱の採掘権、それから安東奉天の間の軍用軽便鉄道の経営権をも手に入れる。
 これらを基礎に、日本の「満蒙開拓」が開始される。聞こえはよいが、侵略というに間違いない。具体的には、1906年(明治39年)11月、さっそく南満州鉄道株式会社が設立され、東清鉄道南満州支線の経営を担当していく。「そこのけ」といわんばかりの進出であった。この会社の公称の資本金は2億円で、政府が半額を現物出資することになる。この会社の事業の中心は、大連と長春間ほか6支線の鉄道営業である。これを基礎として、撫順・煙台炭鉱の採掘から水運、電気、満鉄附属地の土地・家屋の経営なども広範囲に手掛けていく。これらから、日本が当時から中国東北部の植民地経営に並々ならぬ野心を抱くようになっていることが見てとれる。
 この頃には、日本の領土と人口とは幕末から明治初期と比べ、かなり変化していた。その領土は、1875年(明治8年)、38万2561平方キロメートルであったのが、明治の末年になると元々の日本、樺太南部、「関東州・満州鉄道周辺」、朝鮮なども合わせた面積は67万9187平方キロメートルにまで拡大していた。その人口は、明治8年の3500万人たらずから、明治末年にはおよそ7100万人に増えていた。これはまさに、「弱小国を、勝手な訳をつけてまるごとのみこんだ結果」(溝上泰子「わたしの歴史ー絵と文」未来社、103ページ)なのであった。ちなみに、2015年夏の現在、日本と韓国との間に領土問題で揺れる一つの島があり、それは韓国側では「ドクト」、日本側では「竹島」として、それぞれ声高に「我が領土」なのだと叫び合っているのはどうしたものか。日本側においては先の大戦前、戦中に至るまで朝鮮を侵略してきた歴史に対する意識が極めて希薄なのが、気にかかる。あえてこの島はどちらの国のものでもない、といいたい向きがあってもおかしくはなかろう。そもそも、双方で半分に分けるに足る面積がないのはわかっているし、国際連合による信託統治とか、双方の間を取り持った形での共同統治でどうかといっても、いまのところどちらの政府も応じる気配がないようだ。こうなると、遠い将来の青写真かもしれないが、互いの国で根強くあるところのナショナリズム(「民族主義」と訳すべきか)をこれ以上鼓舞させることなく、「地球政府」(仮称)が出来るなどして、なんとか平和的解決のできる時節が到来するのを、将来の「地球市民」として今はじっと我慢して待つしかないのかもしれない。
 第一次世界大戦は1914年(大正5年)7月28日(現地時間)のオーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まり、1918年(大正9年)11月の休戦条約をもって終わった。開戦のきっかけは、同年6月28日、ハプスブルク帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォで暗殺されたのに始まる。当時のサラエヴォは同帝国の軍事占領下にあって、反ハプスブルクの動きが活発化しつつあった。これに当時の二分された欧州の国際関係が触発され、またたくまに欧州全体の規模での戦争へとひろがっていった。
 この大戦の主戦場はヨーロッパであり、大規模消耗戦のため国土は荒廃した。大戦後に世界一の経済力にのし上がったのはアメリカであり、その座から退いていったのがイギリスである。そのアメリカは、1919年(大正8年)にいち早く金の輸出を解禁した。イギリスにおいては、1925年(大正14年)、対戦前と同一の平価である1ポンド=4.866ドルで金本位制に復帰することをきめた。その背景には、「投資収益の対ドル価値を維持するためには、イギリスの輸出競争力の弱体化をも辞さないイギリス政府の金利生活者階級擁護」(宮崎義一「ドルと円」岩波新書、1988)の姿勢があった。
 1921年(大正10年)、日本は、中国の袁世凱(えんせいがい)政府に対し「21箇条要求」を突きつけた。その第一条とは、中国の山東省にあるドイツの権益(「膠州湾租借条約」)を日本が引き継ぐことを認めさせようとするものであった。というのは、第一次世界大戦の最中、火事場の欧州にドイツの勢力がつきっきりとなっていた間に、日本は1914年(大正3年)にドイツに対し宣戦布告を行い、陸軍は青島(チンタオ)を、海軍は独領南洋諸島を占領していた。この中には、こうした「漁夫の利」だけに甘んじることなく、さらに「南満州」、「東部内蒙古」、「中央及び南部中国」及び「中国全体」に関わるものへと多範囲に及ぶ要求が並んでいた(詳しくは、安藤良雄「現代日本経済史講義」東京大学出版会、1963)。

(続く)

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(296*213)『自然と人間の歴史・日本篇』日清・日露戦争に乗った人々、抗した人々(社会主義者の場合)

2017-08-08 21:14:54 | Weblog

(296*213)『自然と人間の歴史・日本篇』日清・日露戦争に乗った人々、抗した人々(社会主義者の場合)


 堺利彦(さかいとしひこ、)は、日本の日本の科学的社会主義の草分けである。彼は、明治維新の興奮冷めやらぬ1870年(明治3年)、「貧乏士族の子」として現在の福岡県豊津に生まれた。彼が述べているところを聞いてみると、「わたしの父は初め小さな士族として、家屋と、宅地と、その周囲の少しの山と、金録公債証書の何百円かを所有していたが、わたしが家督を相続、わたしが家督を相続したころには、公債が無くなったばかりでなく多少の借金があり、家屋と地所とは全部で金七〇円で売却したのであった」(川口武彦編『堺利彦全集』第三巻」法律文化社、1970年刊に所収された)とある。
 長じてからの堺は、自由主義的(リベラル)な立場でジャーナリズムに身を置く。大坂の『万朝報』という新聞にあって、内村鑑三や幸徳秋水らとともに、日露戦争に反対した。この新聞社が反戦から撤退するに及んでは、これを退社し、非戦論者としての立場を守りつづけていく。興味深いのは、彼は単に社会主義者として日露戦争に反対したのではないらしい。自身の『桜と狆と愛国心ーコスモポリタンの心理ー』において、「日本主義者、帝国主義者、国家主義者、愛国者、国自慢者などがコスモポリタン人でない」としつつも、「日本人と、日本語と、日本の風俗と自然に対してまだかなり多くの「愛着」をもっていることは争われない」とも述べている。この立場を理解するには、かの司馬遼太郎が「パトリエティズム(愛国主義)」と「ナショナリズム(お国自慢主義)」とを使い分けて、後者が一方的な軍国主義につながったと語っているのと重ね合わせてみると存外わかりがよいのではないか。堺と言う人は、このように飄々としたも巧みな文章を書く。そして包容感あふれる論述をする。誠に誠実な人柄であったのではないか。後年の堺は、『赤旗事件の回顧』で、自分達の歩みの分水嶺となった事件の出来(しゅったい)をこう振り返っている。
 「回顧すれば、すでにほとんど二〇年の昔である。何かそれについて書けと言われる。今さらながら自分の老いを感ぜざるをえない。昔語りは気恥ずかしくもある。しかし、それも一興として、あるいは多少の参考として、読んでくれる人も無いではあるまい。しばらく昔の夢に遊んでみる。
(ー中略ー)
 当時の「分派」を言えば、その前年(明治四〇年)いわゆる大合同の日刊平民新聞が倒れてから以後、一方には片山潜、西川光二郎、田添鉄二らを代表とする議会政策派があり、一方には幸徳秋水、山川、大杉らを代表者とする直接行動派があった。そして前者は東京で社会新聞(一時は週刊)を出(い)だし、後者は大阪で(森近運平の経営で)大阪平民新聞(月刊、後に日本平民新聞)を出だし、さらに前者は後分裂して西川の東京社会新聞を現出した。
 しかしわたし自身の見方から言えば、当時の分派は三派の対立であった。すなわち幸徳君らの無政府主義と、片山君らの修正主義と、わたしなどの正統主義であった。ー中略ー
しかしわたしは、実際上には幸徳君らと密接に提携していた。ー中略ーしかしわたしとしては、幸徳君とは毎日毎晩、会えば必ず議論するというほどで、決して友情のために主義主張を曖昧(あいまい)にしてはいなかった。ー中略ーこの赤旗事件の時、幸徳君は郷里(土佐中村)に帰っていた。彼はほどなく上京してあとの運動を収拾しようとした。しかし形勢は大いに変化していた。同年七月、西園寺(さいおんじ)内閣が倒れて桂内閣がそれに代わった。西園寺内閣の倒れた原因の一つは、社会主義を寛容し過ぎて、ついに赤旗事件まで起こさせたという非難であったという。したがって桂新内閣の反動ぶりは盛んなものであった。そこで一方には赤旗事件で金曜会の連中が一掃され、一方にはまた、電車問題の凶徒聚(しゅう)衆事件が確定して、西川、山口等、多くの同志が投獄され、その他の人々は手も足も出しようがなく、運動は全く頓挫(とんざ)の姿を呈した。幸徳君はこの形成の下にあって、ますますその無政府主義的態度を鮮明にし、ますます極端に走って行った。そして明治四三年九月、わたしが出獄した時にはすでにいわゆる大逆事件が起こっていた。」(元は昭和二年六月太陽臨時号に所載。後に川口武彦編『堺利彦全集』第三巻」法律文化社、1970年刊に所収された)
 与謝野晶子(よさのあきこはペンネーム、本名は與謝野晶子)は、「君死にたまふことなかれー旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」を発表し、その中で切々とした生身の人間の心情を吐露した。 
 「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃(やいば)をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや。
 堺(さかひ)の街のあきびとの、舊家(きうか)をほこるあるじにて、親の名を繼ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの、家のおきてに無かりけり。
 君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戰ひに、おほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獸(けもの)の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければ、もとよりいかで思(おぼ)されむ。
 あゝをとうとよ、戰ひに、君死にたまふことなかれ、すぎにし秋を父ぎみに、おくれたまへる母ぎみは、なげきの中に、いたましく、わが子を召され、家を守(も)り、安(やす)しと聞ける大御代も、母のしら髮はまさりぬる。
 暖簾(のれん)のかげに伏して泣くも、あえかにわかき新妻(にひづま)を、君わするるや、思へるや、十月(とつき)も添はでわかれたる、少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならで、あゝまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。」
 これを反戦の歌というには、少し無理がある。さりとて、いわゆる「芸術至上主義」からする作品だというのでもないし、子を産み、育てる女性の立場からの、やむにやまれぬ心情の吐露なのであった。それが世間に伝わって、受け取る人によっては嫌戦気分になるのに力があったということではないか。

(続く)

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(295*212)『自然と人間の歴史・日本篇』日露戦争に乗った人々、抗した人々(自由主義者の場合)

2017-08-08 21:12:01 | Weblog

(295*212)『自然と人間の歴史・日本篇』日露戦争に乗った人々、抗した人々(自由主義者の場合)


 話を、日露戦争に移そう。この戦争の開始時点で特徴的な事柄としては、日本にとっては大陸及び朝鮮半島侵略の一環として行われたことである。また、終息場面で特徴的なことは、日本がすでに戦争遂行の力をほぼ失いつつあったことだ。経済は疲弊し、兵たちの犠牲もそれ以上になると軍の瓦解も視野に入るまでになっていた。当時の日本に来て、東京帝国大学で教鞭をとっていたドイツ人医者のベルツは、大方のマスコミがこうした戦争への傾斜を時流ととらえ、これに乗ろうとするかれらの態度を、こう評していう。
 「(1903年)9月15日
 二か月この方、日本とロシアとの間は、満州と勧告が原因で風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本史はとっくの昔に宣戦を布告せざるを得なかった筈だ。だが政府は幸い傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は日本が海陸ともに勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ。
 (1903年)9月25日
 日本の新聞の態度もまた厳罰に値するものといわねばならぬ。時事や東京タイムスの如き最も名声ある新聞ですら、戦争をあたかも眼前に迫っているものの如く書き立てるのだ。交渉の時期は過ぎ去った、すべからく武器に物を言わすべし・・・・・と。しかしながら、勝ち戦さであってさえその反面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない。」(『ベルツの日記』)
 日本ではめずらしい、国際派の作家・司馬遼太郎も、その作品の『坂の上の雲』において、当時の新聞にかなり辛辣な批評を行っている。
 「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。・・・新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化に少しも気づかなかった。」(文春文庫版第7巻、218~219ページ)
 「(日露)戦後も、日本の新聞は、(中略)ロシアはなぜ負けたか。という冷静な分析を一行たりとものせなかった。(中略)もし日本の新聞が、日露戦争の後、その総決算をする意味で、「ロシア帝国の敗因」といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずから負けた」ということになるであろう。
 もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本でおこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対優越性といった迷信が発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。」(文春文庫版第6巻、206ページ)
 では、戦争に抗した側はどうであったのだろうか。中江兆民(ペンネームは「中江篤介」か)は、日本にフランスの啓蒙思想を紹介したことで、「日本のルソー」として知られる。「自由・平等・博愛」というフランス流の自由民権運動に熱心で、その独特の文体とともに一世を風靡していた時期がある。その中江が『三酔人経綸問答』を著したのは、日本と清国との間で戦争をするのは愚策だと訴えたのは、彼としては自然の成り行きであった。ただ当時の文壇でこれを正面から述べると差し障りがあったらしい。当時は、言論の自由などは、との取り締まり当局からすれば、吹けば飛ぶようなものであったのではないか。架空の人物による対話形式、問答による寓話の形で、迫り来る戦争に警鐘を鳴らした。
 「抑々豪傑君の所謂阿非利加か亜細亜の一大邦は僕固より何の邦を指すことを知ること能はず。但所謂大邦若し果て亜細亜に在るときは、是れ宜しく相共に結んで兄弟国と為り緩急相救ふて以て各々自ら援(すく)ふ可きなり。妄に干戈(かんか)を動し輕(かるがるし)く隣敵を挑(てう)し、無辜の民をして命を弾丸に殞(おと)さしむるが如きは尤も計に非ざるなり。」(『三酔人経綸問答』)
 「若夫れ支那国の如きは其風俗習尚よりして言ふも其文物品式よりして言ふも其地勢よりして言ふも、亜細亜の小邦たる者は当に之と好(よしみ)を敦くし交(まじはり)を固くし務て怨を相嫁(か=押しつける)すること無きことを求む可きなり。国家益々土産を増殖し貨物を殷阜にするに及では、支那国土の博大なる人民の蕃庶(はんしよ=衆多)なる実に我れの一大販路にして混々(こんこん)尽ること無き利源なり。」(同)
 「是故に両邦の戦端を開くは互に戦を好むが為にして然るに非ずして、正に戦を畏るゝが為にして然るなり。我れ彼を畏るゝが故に急に兵を備ふれば彼も亦我を畏れて急に兵を備へて彼此(ひし)の神経病日に熾(さかん)に月に烈しくて、其間又新聞紙なる者あり、各国の実形と虚声とを並挙して区別する所無く、甚きは或は自家神経病の筆を振ひ一種異様の彩色を施して之を世上に伝播する有り。」(同)
 「是に於て彼の相畏るゝ両邦の神経は益々錯乱して以為へらく、『先んずれば人を制す。寧ろ我より発するに如かず』と。是に於て彼の両邦戦を畏るゝの念俄に其極に至りて戦端自然に其間に開くるに至る。是れ古今万国交戦の実情なり。若し其一邦神経病無きときは大抵戦に至ること無く、即ち戦争に至るも其邦の戦略必ず防御を主として余裕有り義名有ることを得て、文明の春秋経に於て必ず貶譏(へんき)を受ること無きなり。」(同)
 この中で、何より興味深いのは、「国家益々土産を増殖し貨物を殷阜にするに及では、支那国土の博大なる人民の蕃庶(はんしよ=衆多)なる実に我れの一大販路にして混々(こんこん)尽ること無き利源なり」として、資本家にとっても清国と仲良くすることが、日本にとっての利殖の近道でもあるとした。この主張には、彼が「単に仏国流の自由民権思想を抱いていたばかりで、ついにそれ上に出でなかったけれども、誠忠真摯なる自由民権家」(堺俊彦)が感じられる。このような論陣を張っての参戦への抵抗は、当時の非戦論者一般とこれに同意する民衆においても、大いに頼もしい存在であったのではないか。
 内村鑑三は、キリスト者といっても、教会に依拠して論陣を張っていたのではない。彼を有名にしたのは、『万朝報』に掲載された次の論文(抜粋)にある。
 「余は日露非開戦論である許りではない。戦争絶対反対論者である。戦争は人を殺すことである。爾うして人を殺すことは大罪悪である。(中略)若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。(中略)余の戦争廃止論が直に行はれやうとは、余と雖も望まない。然しながら戦争廃止論は、今や文明国の識者の輿論となりつつある。」(『万朝報』)
 こうして内村が気を吐いたのには、過ぐる日清戦争の開始直後にとった行動があった。徳富蘇峰(とくとみそほう)の『国民之友』(1894年9月3日号)において、彼の論文の邦訳たる「日清戦争の義」が掲載された。その中での彼は、「吾人(ごじん)は朝鮮戦争を以て義戦と論定せり」と戦争肯定とも受け取れる発言をしていた。しかし、下関での講和条約の内容が清国や朝鮮国への侵略的な内容を帯びていたことに驚くとともに、これからは非戦論者として生きて行こうと決意したのであった。

(続く)

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(294*211)『自然と人間の歴史・日本篇』日清戦争に乗った人々、抗した人々(自由主義者の場合)

2017-08-08 21:10:34 | Weblog

(294*211)『自然と人間の歴史・日本篇』日清戦争に乗った人々、抗した人々(自由主義者の場合)


 戦争とは、いうまでもなく国と国との間に発生する国際規模の社会現象であって、国内ではこの動きを助長し、ついには乗ろうという人々が出てくるものだ。まず1894年に勃発した日清戦争に際して知識階級のとった態度は、どうであったのか。そのかれらの中で特異な論陣を張った者の中に福沢諭吉がいた。彼は、啓蒙論者で、かつまた教育者で知られる、明治日本の第一級の知識人と目されていた筈なのだが。この戦争の10年近く前に発表した「福沢諭吉の脱亜論」と呼ばれる一文には、こうあった。
 「我日本の国土は亜細亜(あじあ)の東辺に在りと雖も、其国民の精神は、既に亜細亜の固陋(ころう)を脱して、西洋の文明に移りたり。(中略)左(さ)れば今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興(おこ)すの猶予(ゆうよ)ある可(べか)らず、寧(むし)ろ其伍(そのご)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那(しな)朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可(べ)きのみ。悪友を親しむ者は悪名を免(まぬ)かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(1885年3月16日付け『時事新報』の「社説」)
 この内、「其支那(しな)朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可(べ)きのみ」とあるのは、要は、日本はさしあたっては西洋に追いつくことが優先となるので、かれらが進めている帝国主義的な対外政策を取ることも避けるべきでなくなる。続く「悪友を親しむ者は悪名を免(まぬ)かる可らず」というのは、やや文学的で意味不明ながら、少なくとも中国や朝鮮は日本にとって「良い友」ではない、ということであろうか。
こうして当時の中国や朝鮮と決別したか、の言論前歴をもつ福沢は、清との戦争勃発に直面して、持論を整えいよいよ気合いが入ってきたのであろうか、「日清の戦争は文野の戦争なり(文明の衝突なり」と題する、次の一文を書いた。
 「朝鮮海・豊島の附近に於いて日清両国の間に海戦を開き、我が軍、大勝利を得たるは、昨日の号外を以って読者に報道したる所なり。
 そもそも今回の葛藤に付き、日本政府が注意の上にも注意を加え、ひたすら平和の終結を望みたるは隠れもなき事実なるに、世の中に自から身の分限を知らず、物の道理を解せざるほど怖しさものはあるペからず、
 かの支那人は自から力の強弱を量(はか)らず、無法にも非理を推し通さんとして、ちつとも悛(あらた)むる所なきより、やむを得ず今日の場合に立ち至りて、開戦第一に我が軍をして勝利の名誉を得せしめたり。(中略)
 もとより僥倖の事にあらずとして、さて日清闇の戦争は世界の表面に開かれたり、文明世界の公衆は果していかに見るべきや。
 戦争の事実は日清両国の間に起りたりといえども、その根源を尋ぬれば、文明開化の進歩を謀るものと、その進歩を妨げんとするものとの戦いにして、決して両国間の争いたあらず。
 本来日本国人は支那人に対して、私怨あるにあらず、敵意あるにあらず、これを世界の一国民として、人間社会に普通の交際を欲するものなれども、いかんせん彼等は頑迷不霊にして、普通の道理を解せず、
 文明開化の進歩を見てこれを悦ばざるのみか、反対にその進歩を妨げんとして、療法にも我に反抗の意を表したるが故に、やむを得ずして事のここに及びたるのみ。
 すなわち日本人の眼中には、支那人なく支那国なし、ただ世界文明の進歩を目的として、その目的に反対してこれを妨ぐるものを打ち倒したるまでのことなれば、人と人、国と国との事にあらずして、一種の宗教争いと見るも可なり。
 いやしくも文明世界の人々は、事の理非曲直を云わずして、一も二もなく我が目的の所在に同意を表現せんこと、我輩の決して疑わざる所なり。
 かくて海上の戦争には我が軍勝ちを得て、一隻の軍艦を捕獲し、千五百の清兵を倒したりと云う。思うに、陸上の牙山にても既に開戦して、かの屯在兵を鏖(みなごろし)にしたることならん。
 かの政府の挙動は兎も角も、幾千の清兵はいずれも無辜の人民にして、これを鏖(みなごろし)にするは憐れむべきがごとくなれども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに、多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、彼等も不幸にして清国のごとき腐敗政府の下に生れたるその運命の拙なきを、自から諦むるの外なかるべし。
 もしも支那人が今度の失敗に懲り、文明の勢力の大いに畏るべきを悟りて、自からその非を悛め、四百余州の腐雲敗霧を一掃して、文明日新の余光を仰ぐにも至らば、多少の損失のごときは物の数にもあらずして、むしろ文明の誘導者たる日本国人に向かい、三拝九拝してその恩を謝することなるべし。
 我輩は支那人が早く自らから悟りて、その非を悛めんこと希望に堪えざるなり。」(1894年(明治27年)7月29日付け『時事新報』)
 これの真骨頂とするところは、要は、「幾千の清兵はいずれも無辜の人民にして、これを鏖(みなごろし)にするは憐れむべきがごとくなれども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに」云々の下りであって、この論説によりまた一歩、帝国主義の是認ゆえの国民鼓舞へと傾いていくのであった。

(続く)

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(292*210)『自然と人間の歴史・日本篇』帝国主義の扉(ロシア革命とシベリア出兵)

2017-08-08 21:07:42 | Weblog

(292*210)『自然と人間の歴史・日本篇』帝国主義の扉(ロシア革命とシベリア出兵)


 1917年11月7日、社会主義革命で臨時政府が転覆された。同11月9日、ソビエト政府が樹立され、人民委員会議議長にレーニンが選ばれる。同月、銀行業務の国家独占に関する布告により、株式会社形態の全ての民間銀行(59行)を国立銀行に合併する。
 1917年12月、国民経済を組織するために、人民委員会議の下に最高国民経済会議を設置する。ここには地域別の各国民経済会議(ソブナルホーズ)と産業部門別の管理局(グラフクとシェントル)が作られ、この連携によって経済管理を行うことになった。このシステムは1932年に廃止されるまで続いた。
 さて、誕生したばかりのソビエト政府は外国軍の侵攻と併せて内憂外患に直面する。この間に、食料割当徴発制(余剰生産物の徴収)、労働義務制、私営商業の禁止の施策がなされる。
 1918年5月、製糖業がまず国有化される。続いて、6月に石油工業、機械工業が国有化される。その上で、6月28日には、残りの全ての工業の国有化を内容とする人民委員会議布告が発布される。この措置で、従業員10人以上の全部、従業員5人以上で動力機をもつ全ての企業に適用されることになった。同年9月までに国有化された企業は3000に達した。1921年、国立銀行の業務が再開される。
 この時期は資本主義から社会主義への過渡期と言われた。過渡期の価値法則について、レーニンはブハーリンの「過渡期経済」(1920年刊)に寄せて、「商品・資本主義的制度の均衡の範疇としての価値は、商品生産が著しく消滅して均衡が存在しない過渡期には殆ど役に立たない」と書き、人々の理解を求めた。一方、彼の「自然成長性にかわって意識的な社会的規制者があらわれるならば、商品は生産物に転嫁してその商品的性格を失う」については、「不正確。生産物にではなくなにか別のもの、たとえば、市場を通らないで社会的消費に入っていく生産物に転化する」と脚注している。
 対外関係では、1918年4月6日、日本軍がソ連領土のウラジオストークに上陸・侵攻する。7月2日には英仏軍がムルマンスクに上陸・侵攻する。領土的野心を抱いてのンの派遣であったことは疑いない。1920年1月29日、ウラジオストークで日本との休戦条約が締結された。

(続く)

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(293*209)『自然と人間の歴史・日本篇』朝鮮併合へ

2017-08-08 21:04:13 | Weblog

(293*209)『自然と人間の歴史・日本篇』朝鮮併合へ

 日本は朝鮮の李朝に対し、1904年(明治37年)8月の第一次協約によって、日本政府の推薦する財務と外交との「顧問政治」を認めさせた。1905年(明治38年)11月には第二次の日韓協約で、朝鮮の外交権の中核を奪うに至る。その第三条において、
「日本政府は、政府代表者として韓国皇帝のもとに、「統監」を置く」ことにした。初代の統監に就任したのは、伊藤博文であった。さらに翌1906年(明治39年)2月に、日本は朝鮮総監府を置くに至る。続いて1907年(明治40年)7月に取り交わした第三次協約で、日本は朝鮮への内政監督権をも手に入れ、朝鮮の軍隊を解散させる。これに対し、朝鮮国内では義兵沿道と呼ばれる反日運動の狼煙(のろし)が上がる。
 そして1910年(明治43年)8月、日本側が武力を背景に相手方(李王朝政府)を屈服させる形で臨んだ「韓国併合に関する条約」には、こうあった。
 「第一条、韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
第二条、之翻刻皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。
第三条、日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇陛下皇太子殿下竝其の後妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊□威厳及名誉を享有せしめ且 之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約す。
第四条、日本国皇帝陛下は前条以外の韓国皇族及其の後裔に対し各相当の名誉及待遇を享有せしめ且之を維持するに必要なる資金を供与することを約す。
第五条、日本国皇帝陛下は勲功ある韓人にして特に表彰を為すを適当なりと認めたる者に対し栄爵を授け且恩金を与ふへし。
第六条、日本国政府は前記併合の結果として全然韓国の施政を担任し同地に施行する法規を遵守する韓人の身体及財産に対し十分なる保護を与へ且其の福利の増進を図るへし。
第七条 日本国政府は誠意忠実に新制度を尊重する韓人にして相当の資格ある者を事情の許す限り韓国に於ける帝国官吏に登用すへし。
第八条 本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして 公布の日より之を施行す。」(『日本外交年表並主要文書』)
 この結果、京城には日本による朝鮮総督府が置かれることになり、寺内正毅が初代総督に派遣される。これをもって、日本は朝鮮を完全な植民地としたのである。

(続く)

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(291*208)『自然と人間の歴史・日本篇』帝国主義の扉(日露戦争)

2017-08-08 21:03:06 | Weblog

(291*208)『自然と人間の歴史・日本篇』帝国主義の扉(日露戦争)


 さて、ロシアとの戦いの緒戦は朝鮮半島の仁川(インチョン)で行われた。日本海軍がロシア軍艦を奇襲して撃破し、その後の宣戦布告という道を辿る。日本は、図体の大きいロシアに対して短期決戦を挑んだ形であった。その後の戦場は、南山、遼陽、爾霊山(にれいざん)と移して、激戦の末、これらの戦略的要地の占領を成功させた。翌1905年(明治38年)になって旅順(りょじゅん)、奉天(ほうてん)でロシアの大隊と遭遇した。ロシア陸軍の機関銃隊による銃撃対して日本軍は肉弾戦で対抗し、多くの兵士の犠牲の上にこれらの地を占領した。また、日本海(韓国側でいうと「トンヘ」)での海戦において、東郷平八郎が率いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を迎え打ち、その8割の艦船を沈没させたり、抗戦不能にする大勝利を収めた。
 その夏には、かねてから当てにしていた日英同盟関係の英国の調停が入る。米国のポーツマスで講話条約の会合がもたれる。表向きは「痛み分け」であったものの、同年9月に結んだ条約において、朝鮮はいうに及ばず、中国についても大きな権益を獲得し、後の中国侵略への大きな足掛かりを得る内容であった。具体的には、一つには朝鮮の自由処分であり、これを朝鮮の人民が聴いたら激怒する内容であった。二つには、一定期間内のロシア軍の「満州」からの撤退、遼東半島の租借権と、旅順~長春間の鉄道の譲渡。そして三つには、樺太の南半分を日本に譲渡することが含まれていたのであり、日本の帝国主義者たちにとっては濡れ手の泡の如き朗報であったことであろう。
 ところが、1905年(明治38年)8月末、桂内閣により日露講和会議の内容が報道されると、都市部を中心に、日露戦争講和反対運動が起こる。東京では、講和問題同志連合会(対外強硬派の政治団体の連絡機関)が組織される。9月5日に日比谷公園での国民大会と、京橋新富座での演説会・懇親会が並んで企画される。国民大会の方は大衆に訴えた大規模なもので、警視庁はこれの禁止を決定し、9月5日当日には日比谷公園を封鎖するに至る。
 正午頃には予想を上回る数万人が群集してくる。彼らは警官隊のバリケードを突破して、公園内になだれ込む。大会は強行されたものの、30分程度で散会した。勢い余った群衆が、その後、市内各地になだれ込んでいく。内相官邸や二重橋、京橋新富座の付近では、群衆と警官隊が衝突。「弱腰な政府の御用新聞」とみなされた国民新聞社も群衆に包囲される。夜になると、騒擾はさらに広がる。内相官邸、東京市内各所の警察署、派出所・交番、キリスト教会や路面電車が放火や投石されるなど、騒擾は7日まで断続していた。政府は、軍隊を出動させ、6日深夜には東京市と周辺の府下5郡に戒厳令の一部を施行し、鎮圧に当たった。
 「日比谷焼討事件」として伝えられる、この事件は自然発生的に起こったというのとは、かなり異なる。主催者たちが群衆を煽ったのではないにしても、全国津々浦々での同様の雰囲気の充満しつつある中で、それらの集大成としてこの会が挙行されたことがある。だとすると、主催者側も開会前から騒擾に向かうことはありえると見通せたのではないだろうか。二つ目は、この集会の参加した民衆の多くが職工・人足・車夫などの都市下層であったことだ。彼らの言い分として、概ね「日本はのべ約110万人もの兵力を動員し、死傷者20万人を超すという損害を出しながら、国民は動員や増税に耐えながら政府の戦争政策に協力してきたのに、賠償金が得られないなど、ポーツマス条約では日本が弱腰に出ていて、けしからん」というものであったのだろう。この騒擾での死者は17人、負傷者約2000人、検束者が約2000人に及んだ。兇徒聚衆罪(現在の騒乱罪)で311人が起訴され、うち87人が有罪となっている。このような下からの戦争継続、対外進出を求める声は、その後のファシズムへの道を掃き清めていく端緒になっていったであろうことは否めないのではないか。

(続く)

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