○○46『自然と人間の歴史・日本篇』遺跡から見た倭の五王の時代

2016-07-10 10:32:11 | Weblog

46『自然と人間の歴史・日本篇』遺跡から見た倭の五王の時代


 それにしても、ここに上表文を出した当人の倭王の「武」とは、一体誰かを決める証拠らしいものが、国内には見つかっていないのだろうか。そこで先の一文の中段以降に「済死。世子興、遣使貢献。世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」とある中の「武」とあるのを、戦後日本における考古学資料と比べ合わせてみる作業が行われてきた。
 5世紀、おそらくはヤマトの王権が日本列島のどのくらいにまで浸透していたかを覗わせる遺跡が幾つか発掘されている。稲荷山古墳(いなりやまこふん)は、埼玉古墳群の一つであり、武蔵国北部(現在の埼玉県行田市)にある。ここから出土した鉄剣は、国宝とされている。1978年(昭和53年)に鉄剣をエックス線調査が行われた。すると、剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表裏の合計で115文字が金象嵌(きんぞうがん)で刻まれていたことがわかった。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最も長い。
 具体的には、表に「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」の57文字が書かれている。また裏には、「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉根原也」の58文字が記されている。
 表、裏の書き下し文を掲げると、次の通りであるとされる(人名は、漢字をカタカナに直してあり、句読点はこちらで付けた)。
 (表)「辛亥の年七月中、記す。ヨワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ、其の児、名はタサヒワケ。其の児、名はハテヒ。」
 (裏)其の児、名はカサヒ(ハ)コ、其の児、名はヨワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王。寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也。」(なお、X線写真は井上・大野・岸・斎藤・直木・西嶋「シンポジウム鉄剣の謎と古代日本」新潮社、1978に収められている)
 現代訳は、識者による試みにより「辛亥(しんがい)の年の7月、次のことを記す。オホヒコの8代後のヲワケ臣(おみ)の家系では、代々、杖刀人(じょとうじん)の首(おびと)として仕えてきた。ワカタケル大王の斯鬼宮(しきのみや、現奈良県桜井市)にもヲワケ臣は杖刀人の首として仕え、天下を左治している。そこで祖先以来の功績を記念してこの刀を作った」と解読されているところだ。
 この文の意味するところは、作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜が述べてある。この鉄剣とともに稲荷山に葬られたのは、「オワケ」こと「乎獲居臣」(おわけのおみ)だというのが大方の見方だ。その通りなら、この人物こそは、代々受け継いでいる「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」の政治の補佐役を務めていたと推測できることになるのだろう。
 では、この鉄剣が作られた年代はいつのことであったのか。同鉄剣銘文の最初の「辛亥年七月中、記す」とあるのは隻暦何年のことであったのか。干支は60年ごとに繰り返されるので、辛亥年だけではいつの時代かは特定できない。そこで、銘文中にワカタケルと読めるのを『宋書』(倭国伝)にいう倭の「武」、我が国の雄略大王と考えると、この鉄剣は5世紀後半の西暦471年に製作されたのが推測できるというのだ。
 なお、ほぼ同時代の国宝級の鉄剣ではないかということでは、国内でもう一つ見つかっている。1873年(明治6年)、肥後(現在の熊本県和水町)の江田船山古墳の発掘が行われ、5世紀後半の推定築造にして、長さ約62メートルある前方後円墳の後円部から、石棺式石室(横口式家形石棺とも呼ばれる)が発見された。この石室からは、鉄剣や、金製、金銅製の装身具が出てきた。鉄剣には、金象嵌銘で「獲□□□鹵大王」と記されていた。これから、記されるのはワカタケ(キ)ル大王=雄略天皇ではないかという説もなされているものの、読めないところが含まれるので、説得力には欠ける。いずれにしても、この鉄剣を帯びて埋葬されていた人物が、「典曹人」と呼び慣わされる、大王家に仕える役職に就いていたことが窺えるのである。なお、この人物がの装身具については、朝鮮半島からの輸入であるとの推測もなされている。
 関連して、後の大和朝廷になってからの最初の公定歴史書『古事記』中の「大長谷若武命」(おおはつせわかたけるのみこと)、さらに中国の漢時代に編纂された『礼記』(らいき)と関連づける説も提出されていることから、ここでは、笹生衛(さそうまもる)氏の論考から紹介させていただこう。
 「ワカタケル大王=雄略天皇は、478年、中国南朝の宋へと上表文を送った倭王「武」にあたる。宋書に残る彼の上表文は、漢文の修辞を駆使しており、五世紀代の大和王権内には漢籍に通じた人物がいたと考えられる。そうすると、鉄剣の銘文と『礼記』との関係を考えてもあながち無理な推定ではないだろう。
 この『礼記』祭法代二十三には、神と祭祀(さいし)のあり方、それと「天下」との関係を説明する次の一節がある。
 王宮に日を祭り、夜明(やめい)に月を祭り、幽榮(ゆうえい)に星を祭り、○榮(うえい)に水旱を祭り四○壇(しかんだん)に四方を祭る。山林川谷丘陵の能く雲を出し 風雨を為し怪物を見(あら)わすを皆、神と曰う。天下を有(たも)つ者は百神を祭る。 諸侯は其の地に在れば則ち之を祭り、其の地を亡(うしな)えば則ち祭らず。
 王宮で日神を祭ることにつづき、月神、星神、水旱の神を祭ることを述べ、「神」とは何かについて説明する。曰く、山林や川・谷、丘陵で雲を出し風雨を起こして不思議な働きをしめすもの全てが神であると。これは自然環境の働きに神を見るもので、『延喜式』祝詞(のりと)や祭祀(さいし)遺跡の立地状況から推測できる神観と基本的に一致する。」(笹生衛「神と死者の考古学ー古代のまつりと信仰」吉川弘文館、2016)
 なお、以上の二ところの考古学資料の発見からは、5世紀の中ごろまでには、大和王権による、当時の倭国を支配する動きが、その端緒としてであれ、すでに始まっていたとする向きも、かなりの数の歴史学者から出されているところだ。

(続く)
 
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★