新9『美作の野は晴れて』第一部、故郷の人々2

2016-03-06 09:45:41 | Weblog
9『美作の野は晴れて』第一部、故郷の人々2

 祖父、安吉の人生を、本人から直接にある程度の詳しさをもって聞いたことはない。それでも、私が小学校を終えるまでの時期に聞いた身の上話で、覚えているものがある。あれは夏の日だった。炭焼きの手伝いをしていた。傾斜したところに上から下へと同寸法の穴を掘る。そこに樫や楢や栗といった材料を1メートル弱に切ったものを縦に並べていく。空気の流れも欠かせない。上の方に穴を開けて、ブリキの煙突を立てている。ある程度の間隔を確保してから土をかぶせる。それが終わったら、急ごしらえの下の口から柴や新聞紙を使って火を付ける。
 その日は火付けのあと、祖父が仕事の手を休めて傾斜地に腰掛け、僕も並んで腰掛けていた。祖父は腰にぶら下げていた煙管(きせる)を左手に取って、それに袋から藻草を少し取り出して詰め始める。フワフワした茶色い藻草を2、3回煙管に詰め終わると、祖父はそれをおもむろに口に大抵はやや下向き気加減にくわえる。マッチで火を付けてスパスパやる。
 さっそく煙がたなびいている煙管を一吸いする。うまそうに吸う祖父の顔を窺うのが好きだった。そんなにうまいものなのかと、訝るもう一つの自分の心がある。
 そのときの話は薄々ながら覚えている。
「おじいちゃん、いつ頃炭が焼けるんかなあ」
「いま火を付けたけんな(からね)。1日燃やして、それで火を引く。燃え過ぎるといかんのでな。中の様子を見ながらな」
 炭は、燃やさず消さず焼き尽くすことが大事だ。したがって、火を付けると空気穴だけを残して後は泥で塞いでしまう。酸素の供給を最小限に抑えて燃やさずに焼くと、いい炭ができる。
「そうじゃなあ(だね)、火を消してから3日くらい置いてから取り出すんじゃ(のだ)。泰司がてご(手伝い)をしてくれたんで、助かったぞ。この分だとええ炭が出来るぞ。」
そう言い終わって、祖父は煙管にもう1回肌色をしたモグサを詰め直した。今度もゆっくり吸ってから空をグルリと見渡した。
「ふーん。風が出てきとるな。雨が降らにゃあええがなあ(降らなければいいが)」
「降るんじゃろうか(だろうか)?」
私がそう訊くと、
「うーむ。西の空が怪しうなってきたな。夕方にはひと降りあるかもしれん」
祖父が目を南に広がる灰色の空を見ながら言った。
「そしたら、せっかく点けた火が消えてしまやあせんかな、おじいちゃん」
「そりゃあ、大丈夫じゃ、消えやーせん(消えない)」
 空の高い方では、雲が風で流れているようであった。このあたりでは、車が行き交う喧噪も、人々のかけ声も聞こえてこない。二人が口をつぐむと、とたんに静寂がやってきて、そのまま視線を前にやると、冬の間の白黒とは違って、色鮮やかな緑色をなす山里の風景が広がっている、それをただただ眺めて居る自分がある。ややあって、祖父が私の名を呼んだ。
「泰司」
「うーん?」
 横を向くと祖父の穏やかな表情があって、何かを話したそうにしているのがわかった。「おじいちゃんはなあ、若いとき目をけがをしたんだぞ。目の玉が飛び出るようなひどい怪我じゃった。」
そう言い終わって、祖父は真鍮製のように見える煙管をまたひと吸いした。
「ふーん」
 道理で祖父の目をいつも見慣れていて、目ぢからが感じられないと感づいていた。とはいえ、そのとき祖父の話をどう受け取ってよいのかわからない。少しだけわかったつもりで、残りの部分はぼうっと霞んでいる。今度は祖父がかわいそうになった。祖父は医者にかかって直したのだろうか。
「でもなあ、なんとか我慢した。なんとか目はつぶさんですんだが、あれからよう見えんようになってしもうたなあ」
「・・・・・」
 私には返す言葉がなかった。祖父はまた煙管に口を当て、今度はうまそうに一吸いした。
 しばらく経ってから、私の顔の方に振り向けた祖父と目線を合うと、祖父の目が弱々しい光を放っている。ほかにも、辛い思い出があったのかもしれない。それにしても、あのとき、なぜあんなふうな話を私にする気になったのだろう。
 祖父には、これといって叱られた覚えがない。祖父の代になってから、田圃の所有面積が広がったらしい。1946年(昭和21年)から、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の肝いりで実施されたの農地改革はそれまでの農村の所有関係を一変させた。我が村内での地主の保有小作地は6反(60アール)に制限されたと伝えられる。
 全国的には、例えば不在地主が所有していた土地のうち、大地主については250町部(約250ヘクタール)も所有している者もあったとか。この農地改革によって、彼らの持ちうる土地面積は3町歩に制限され、あとは政府がただ同然で買い上げて、その地、その地を交錯している農民に安い値段で売った。これにより、戦前は農民の約80%が小作人であったのが、この改革により、基本的に全農民が一戸平均1、2町歩程度の自作農になることができた。
 その後、我が家の「西の谷」や「中の谷」などの山間の棚田を開墾したおかげで、6、7反(60、70アール)くらい増えた。そして1町8反(1.8ヘクタール)の身上となった。婿養子に入った6年後に舅の繁蔵が他界した。
 あれは真夏の日差しの強い日だった。蝉たちが声を張り上げていた中を、津山市掘坂(ほっさか)にある佐藤のうどん屋さんにうどんを仕入れに行った。そこは吉井川沿いの、ちょっとした高台にあって、祖父と兄と僕とで3台の自転車を連ねて出かけたような気がする。祖父は荷台の大きな自転車を引いていた。
 仕入れが終わるまでの間、祖父と私は広い庭で待っていた。つくったうどんやそうめんには天日干しが欠かせない。うどん屋さんのコンクリート敷の広い庭には、うどんやそうめんが干し棚に何十もという多さで立てかけてあった。
「泰司、見てみい。地面をコンクリ(コンクリート)で舗装しとる。じゃあから(だから)天気干しで麺がからからに乾くんじゃな」
「うん」
 祖父は満足そうに笑っていた。
 人工舗装の庭はたいそうな熱を蓄えていて、それがまた、上からぶら下がっている麺の乾燥を早める。
 左手の眼下には加茂川の清流がゆったりと流れている。なま暖かい風が吹いたような気がした。そこには釣り人とおぼしき人もいた。
「ほうーっ」
一呼吸置いてから、心地よさそうに次の言葉が出てきた。
「ええなあ(いいね)、今日は景色がようて(よくて)・・・・・」
額に手を当てて日差しをさえぎってから遠くを望む。
「魚釣りもぎょうさん(沢山の)人が出てしょうりんさるで(行っておられるよ)」
「でも、ここもだいぶん(相当)奥じゃなあ(だね)」
 そのときから、私の田舎の生活史で一番好きな眺めのひとつの場所としては、やや遠くではあったが、やはりあの加茂川の流れが最高のものとなっている。祖父は19歳のときまで存命であったので、思い出は尽きない。
 祖母のとみよには、幼い頃、引き戸格子の障子を破ったりして数度ならず叱られたことがある。躾けの厳しい人であった。しかし、かわいがってもくれ、小学校の低学年時代に一度自宅の風呂に一緒に入った記憶がある。
母からは
「泰司、おばあちゃんがきょうは一緒に風呂に入ろう、いっとりんさるで(言っておられるよ)」
「うん、わかった」
 その頃は、祖母に肩たたきをしたり、かゆいといって背中を掻いたりしてあげていたので、そのことで祖母が喜んでいてくれるのかと思った。
「泰司、背中を流しちゃろうか(してあげようか)」
「うん」
 祖母にへちまのたわしを使ってもらいながら、ふと、『おばあちゃんは小柄じゃなあ』などと、とりとめのないことを考えていた。
 祖父との思い出は、生き物を介在してのことが多い。ある朝、家の子牛が市場に売られていった。その朝のことは薄薄覚えている。あれはひょっとしたら小学校時代ではなく、中学校になってからのことだったのかもしれない。人の記憶とは、名か゜゛い再現でみればしょせんうつろで、頼りなくなってしまうものなのかもしれない。
 ある日やってきたのは荷馬車ではなく、見知らぬおじさんが乗ったオート三輪であった。この歌に出てくる子牛の場合は、何回かあった。私の家の牛は母牛1頭とその子牛であった。家から子牛を送り出したときのことは、ただの一度しか覚えていない。
 なにしろ、その牛をずっと見てきているので、半ば家族のようなものである。雌のため、時には、獣医さんが来て何度も種付けをしてもらい、何頭もの子牛を生んだ。子供牛は半年もするとセリに出される。牛の親子の別れは朝早くにやってくる。その度に牛の母と子は悲しげな声を上げ合うのだった。
「雄牛じゃけんいうて、殺されるんじゃないじゃろうなあ、おじいちゃん。」
僕はためらながらも祖父にたずねた。
「そうじゃな。あれをなあ、飼い主が買うてもっと太らせるんじゃ。解体されるのはそれからじゃな」
 淡々とした祖父の返事に私は少し楽な気持ちになったものだ。うちの子牛は雄なのじゃから、いずれ人間に供される肉となるために売られていったに違いない。そして、それは仕方がないことだと思い直すしかなかった。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★