『(48)』『岡山の今昔』出雲から勝山へ

2015-08-19 09:32:19 | Weblog
『(48)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』出雲から勝山へ

 美作から出雲、松江と通じる道中には、古来から出雲街道が利用されてきた。島根県西部に位置する出雲を出発すると、少しずつ日本海を臨んでから内陸部に分け入っていく。この道は、出雲街道(雲集街道)と呼ばる。人々はこれをたどって、現在の鳥取との県境にさしかかる。中国山地の間を縫うようにして南に向かい、やがて美作の中心地、津山に向かう道である。おそらく弥生時代までには、山を隔てた出雲に既に、「天の下をつくったところの大神」の神話があったのではないか。その寓話の中では、神の末裔と伝承される支配者たちが、そこかしこに陣取っていいたのかもしれない。出雲から大和(やまと)につながる出雲街道の全行程については、『播磨風土記』でも触れられている。そのうちの距離にしておよそ180キロ(約45里)、そのおよそ90キロ(約22里)が、現在の岡山県内を通る「美作路」なのであった。また現在、山陰エリア・四国エリアと東京を結ぶJR寝台特急で、「サンライズ瀬戸」・「サンライズ出雲」が併結して運転されていて、岡山からは高松行きと出雲行きとに分割される。この出雲行き特急列車は、やがて伯備線を通って岡山県を北上していく。私は未だ乗り合わせたことがないものの、さぞかし旅心をときめかすのではないだろうか。
 今から推し量れば、江戸期の旅人は相当健脚であったらしい。旅人が歩いていた出雲からの道のりは、なかなかに峻厳であったに違いない。朝靄をついて、かの出雲大社に続く松江を出発して、まずは神門(戸)川と斐伊川を南に上ってゆく。松江、出雲絵、安来(以上は現在の島根県)から米子(よなご)、溝口、二部(二歩)、梶尾(根雨)、板井原(以上は現在の鳥取県)とやって来る。それからは、四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)あたりで中国山地に分け入っていく。この峠のあるところは鳥取県日野町と接する岡山県との県境である。このあたりは険しい山道だ。岡山県に入ってからは、山また山の山間を或いは仰ぎ、或いはくぐり抜けるようにして通ってゆく。湯原(ゆばら)、新庄(しんじょう)から蒜山高原(ひるせんこうげん)高原へと向かう。その途中にあって、現在は米子自動車道が通る「鳥居トンネル」があるあたりから、路は南下の道をたどる。天候に恵まれるなら、稜線に沿って南西の方向に、鳥取との県境に沿って象山、三平山、朝鍋鷲ヶ山、毛並山、笠杖山、四十曲峠、それから二子山と続く山々や峠が続く。
 この道筋は、おおまかに、伯備線(はくびせん)の途中までと、かなりの行程が重なっていたのではないだろうか。ここに伯備線は、今では「381系特急「ゆったりやくも」で有名となっている。地方ローカル線ながら、岡山県倉敷駅から岡山県内を南北に貫き、鳥取県の伯耆大山駅とを結ぶ幹線で、今では全線で電化されている。ここに鉄道を通す工事のそもそもは、岡山県側のとっかかりの地点が決まっていなかった。それゆえ、決まるまではとりあえず宿場町の根雨まで通す事として、先行して根雨軽便線として建設が開始された。後に岡山側起点が倉敷と決まり、南北両面から工事が開始となる。おりからの鉄道建設ブームに乗って、1928年(昭和3年)には全線開通にこぎ着けたのであった。
 なお、この出雲街道を歩いて、米子からこの道と分かれ、大山寺にまで行くのが大山往来、大山街道、もしくは大山道と呼ばれる。現在の伯備線の大川寺駅は、大山に間近い(鳥取県東伯郡大山町)。この山は、標高1729メートルにして、中国地方では最高峰である。日本の古代から、東の大山(おおやま)と区別して「伯耆大山(ほうきだいせん)」と通称される。ここは、古来、「神気が周囲を照らす中国地方最大の霊峰」とか言って敬われてきた。因みに、『出雲風土記』には「大神岳」の名前が見えて、そこに付随して国引き神話が伝えられる。それには、出雲の国造りを進める八束水臣下津野命(やつかみすいおみつのみこと)が狭い出雲国を広くしようと、ある時、この大山と三瓶山(さんびんやま)に縄をかけて現在の島根半島をつくったことになっている。大山往来は、その後、美作の国の久世までの行程を、出雲街道と重なるようにして進んで行く。
 今度は、この道を久世から北に向かって辿るには、久世から釘貫小川へと北上していく。この辺りには、現在、米子自動車道が通っている。この整備された道路に乗って擂鉢山トンネルをくぐり抜ける。そこからさらに、湯原インター(現在の真庭市湯原)に進んだあたりか。そこからは北西方向に進路を変えて進み、藤森(真庭市藤森)、川上(現在の真庭市)の上徳山(現在の米子自動車道の蒜山インターを出たところ、真庭市)へとつながる。それからは三平山(標高1010メートル)を左手に眺めながら、鳥取との県境を越えていく。四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)をくぐりぬけるのだ。さらに進んで、現在の県道如来原御机線の通っている鳥取県日野郡江府町へと通じていく。鉄路との関わりで、現在の伯備線に乗って根雨駅まで進むと、そこからは日野川に沿いながら伯備線は一路米子へと向かっていく。ちなみに、この駅を出て米子と逆方向に辿るのは、新見(岡山県新見市)へと向かう。なお、美作を外れるまでのこの道については、1603年(慶長8年)に入府した森忠政が、その翌年から出雲街道の支路としての整備を命じたと言われる。
 かつては、この大山道を牛が曳かれて行っていた。作家の山本茂実氏は、こんな風に往来の模様を描いておられる。
 「山ツツジの咲き乱れる大山街道は黒い和牛をひいた旅人でにぎわっていた。
 白の手こう脚絆に大山笠をつけ、大きな紺のふろしき包みを背負って、そうでない者は黒い和牛を曳いていた。この人たちの中には美作ばかりでなく、遠く備前、備中、備後、安芸(あき)あたりからの人も多かった。
ー中略ー
大山参りはけっしてたんなる神参りではなくて、もっと直接生産に結びついた種ものの交換や、田植えの手伝いをする牛馬の市や、各地の名産を持ち寄って交換する大がかりなバザールだったのである。
 大山馬喰(ばくろう)座の取引き記録を見ると、これは明治中ごろのものであるが、牛の数は年間1万頭、価格にして六万~八万五千円と記録されている。その大部分が大山山麓の笹と隠岐の島で育った牛だったという。」(山本茂実「塩の道・米の道」角川文庫、1978)
 出雲街道に話を戻して、この道が新庄(しんじょう、現在の真庭市新庄村)に入ると、美甘(みかも、現在の真庭市美甘村)へと進み、さらに昭和の初期まで備前に通じる旭川の高瀬舟の起点であった勝山(かつやま、現在の真庭市勝山)へと出ていく。この勝山の地は、日本の中世から戦が絶えなかった。1390年(明徳元年)から1394年(明徳4年)にかけては、三浦貞宗が関東から入って高田城を築城した。1548年(天文17)年といえば世の趨勢は「下克上」(げこくじょう)の戦乱の最中であって、三浦貞勝は山陰の尼子氏に攻められ、あえなく落城してしまった。それを、1559年(永禄2年)といえば織田信長が上洛して足利義輝に謁見した年なのだが、その年の勝山の地では、勢力を盛り返した三浦貞勝が城と領地を奪還した。その後も備中の三村氏、さらには毛利氏や宇喜多氏による争奪戦が繰り広げられてゆく。
 勝山はその後、豊臣氏の天下となり、宇喜多氏が領国を受け継いだ。勝山の領国支配が安定したのは江戸時代に入ってからで、勝山は初めこそ津山森藩に属していたのが、その後は幕府天領、1764年(明和元年)には三河西尾から三浦明次(三浦貞勝とは同祖異系)が2万3千石で入封し、高田城を修築して勝山城と改名した。それから、明治になるまでは三浦氏を領主とした勝山藩の領国支配下にあった。今は真庭市に組み込まれた勝山町の町並み保存地区は、駅の北側に広がる。城山や太鼓山といった山を背にして、高田神社や化粧寺といった寺社群が神々や仏の居を構えている。武家屋敷の跡や、数は少ないが白壁土蔵や格子のはまった江戸時代の商家も残されていている。それに加えて、町興しということで、行く先々の民家の軒先にさらり、ぶらりと下げられた草木染めの暖簾(のれん)が、この閑かな城下町を訪れる人に美作の風情を感じさせてくれる。

(続く)

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