これほど低調とは…。今夜、衆議院選北海道第一区選挙区の公開討論会を覗いてきた。聴衆がこんなに少ないとは…。それに加えて候補者の熱気がちっとも伝わってこない。いったいどうなっているんだ???
はじめに断っておかねばならない。
私はこの欄で政治的プロパガンダをするつもりはまったくない。
というより、私は典型的な無党派層の一人だと自認している。
今回、公開討論会に赴いた動機もイベント的な興味から赴いてみたというのが本音であり、16日に選挙する際の参考にできるかな、というスタンスで参加した。
※ コーディネーターを務めた相内俊一氏です。
後で知ったことだが、今回の公開討論会の主催は札幌青年会議所ということだった。したがって公的な討論会というものではないが、候補者にとっては自らの主張を選挙民に訴える絶好の機会ではないのかと思ったのだが…。
ところが蓋を開けてみると、1区に立候補している5人の候補者のうち2人が欠席したのだ。どうゆうことなのだろうか? この出欠者については明らかにしてもいいだろう。
《公開討論会に出席した候補者》
◇野呂田博之(日本共産党)
◇船橋 利美(自由民主党)
◇横路 孝弘(民主党)
《欠席した候補者》
◇大竹 智和(日本維新の会)
◇清水 宏保(新党大地)
候補者も候補者なら、選挙民も選挙民である。
私は会場のかでるホール(中央区北2西7)の定員521名のキャパシティでは狭すぎるのではないかと思ったのだが、まったく人が集まらないのだ。定員521名の席はスカスカで最終的に100名を超えたかどうかといった程度だった。この関心の低さはどう解釈すればいいのだろう?
※ 私は中段付近に着席したが、私の前の座席の様子です。
さて、肝心の公開討論会は3人の候補者に対して、コーディネーター役を務めた小樽商大教授の相内俊一氏が候補者に質問をする形で進められた。
この討論会もちっとも盛り上がらないのだ。あらかじめ主催者から拍手や野次、声援等は禁止されていたこともあり、討論は粛々と進められた。
どうも予め質問項目が通知されていたらしく、候補者の中にはペーパーを読み上げるような人もいて、聞いていて白けるばかりだった。
また、コーディネーターが互いの主張に対して質問や反論を求めても、2~3の意見があっただけで、盛り上がらず相内氏が思わず「皆さんシャイですね」と2度も口にしてしまうほどだった。
なぁ~んだかなぁ…、という感じである。
良く言えば皆さん紳士的になったということだろうか?
しかし、もっと丁々発止の白熱した議論を聞きたかったなぁ、というのが偽らざる気持ちである。
※ 私が北海きたえーるに行く場合、地下鉄直結で会場入りするためきたえーるの正面を見たのは初めてのような気がする。
久しぶりのフットサル観戦である。
フットサルはサッカーとは似て非なるものという感じであるが、試合展開のスピーディーさが魅力である。
12月9日(日)13時キックオフと知り、会場の北海きたえーる(北海道立総合体育センター 豊平区旭町4-1-40)へ急いだ。
会場にはまあまあの観客が入っているように見えた。(会場での発表によると1,634人とのことだった)
※ この日の試合はNHKが中継していたため、放送陣が最上階に陣取って放送していた。
1年ぶりに観戦するフットサルだったが、相変わらずスピーディーな試合展開が面白い。
試合は前半エスポラーダが先制するも、府中も入れ返して1対1の同点で折り返した。
後半開始間もなく、それまで前線に張って何度もチャンスをうかがっていた府中の18番ダンタスが豪快に蹴りこんでリードした。
エスポラーダも反撃を試みるも府中の組織だった守備にチャンスすら与えてもらえない印象だった。反対に府中はその後も何度か惜しいチャンスを逃していた。
試合を見ているかぎり、リーグ戦でのこれまでの戦績(府中が2位、エスポラーダ5位)が反映されているかのような試合展開だった。
※ エスポラーダのチャンス、府中のディフェンスの陣形です。右手のボールを持った選手が写っていればGoodなんですけどね。
試合に変化が表れたのは残り時間4分を切ってからだった。エスポラーダベンチはリスクを負ってパワープレーに出た。パワープレーとはGKをフィールドからあげて、代わりにフィールドプレイヤーを入れて5人体制で攻撃するもので、いわば点を取られるリスクを負いながらのスクランブル体制である。
私は以前にエスポラーダがこのパワープレーで立て続けに3点失点した場面を見ているので、悲惨な最期を予想した。
幸い今回は点を取られるような場面はなかったが、相手のディフェンスを突破しての得点も奪えない状況が続いた。
残り1分を切ったときだった。エスポラーダ22番神選手が、相手守備陣が混乱する中で同点ゴールを決めた!会場総立ちでようやく会場内が沸き立った。(これでなんとか同点のまま試合を終えてくれ、と私は願った)
※ 府中の18番ダンタス選手の豪快なシュートとそれを防御するエスポラーダの選手です。これもボールが写っていれば…。微かに見えますけど…。
ところがその直後、エスポラーダは府中にPKを与えてしまった。「せっかくの同点が無になる」とがっかりしたのだが、幸いにも相手キッカーが外してくれて事無きを得た。
「これで良し」と思ったのだが、エスポラーダはさらにパワープレーで挑んだ。「無理することないよ」と私は思ったのだが、この賭けが奇跡を呼んだ。試合終了間際、10番エース鈴木祐太郎のまさかの一撃で見事に勝利を呼び込んだのだ。
※ 府中の10番山田選手がPKを蹴った瞬間です。外してくれたのはエスポラーダには幸運でした。
試合展開からいって劣勢は免れない状況での勝利は奇跡と称しても許されるだろう。
フットサルはサッカーと似て非なるものと先に述べたが、サッカーと異なり試合後半になると劣勢チームはかなりの確率でパワープレーを採用することである。(しかし、今回のように4分間も採用するのは稀である。せいぜい2分程度だ)そしてこのプレーが、今回のように効果を発揮する場合もあるが、反対に大敗を喫してしまう場合もある。
また、試合中にタイムアウトを取ることがルールで認められている。そのため、試合後半は両チームの駆け引きに試合が左右される場合があるのがサッカーとは違ったところか?
※ 大逆転になる3点目を取って大喜びのスタンドです。
まだまだマイナーなフットサルだが、このような試合を見せられると楽しくなってくる。次戦も観戦してみようかな? と思い始めている…。
昨日(8日)札響の本拠地キタラ(中央区中島公園1-15)で今年の「札響の第九」演奏会があった。
2009年の年末に「年の暮れに第九でも聴きましょうか?」と私が提案以来、毎年3人でベートーヴェン交響曲第9番 ニ短調op.125「合唱付き」を楽しんでいる。
今年の特徴は指揮者がこれまでの尾高忠明さん、高関健さんという日本人指揮者から、札響の首席客演指揮者を務めるラドミル・エリシュカというチェコの方に代わったことだった。
ラドミル氏は当年81歳という高齢であるが、その履歴を見るとヨーロッパではかなり高名な方のようだ。
もう4回目ともなると第九について語ることはいいだろう。今回はちょっとやぶにらみ的なことを記すことにしたいと思う。
その一つは、指揮者のラドミル氏のことだ。私たちの席は例によって比較的リーズナブル(4,000円)なRAブロックだった。その席はちょうどオーケストラを横から見る位置で、指揮者のラドミル氏の表情がよく見えるところだった。
私にはラドミル氏が演奏中なんだか不機嫌そうに見えた。時々、ラドミル氏のサインがダメ出しをしているようにも見えた。これはあくまで素人がそう見えたという話であって、おそらく真実ではないとは思うのだが…。あるいはレベルの高いヨーロッパからやってきたラドミル氏にとっては不満な箇所もあったのかな?などと考えてしまった。
もう一つ、この「札響の第九」の開催の時期がずいぶん前倒しされて開催されたなあ、という感じなのだ。
‘09が12月26日、‘10が12月26日、そして昨年が12月17日だった。それが今年は12月8日である。札響の都合もあるとは思うのだが、以前に比べずいぶん早い時期の開催である。「今年もいよいよ暮れだなあ」とは記したが、本音を言えば「ちょいと早いんじゃないの」という気分だ。
できればもう少し年末も押し迫ってから開催してほしいなあ、というのが偽らざる気持ちである。
と言いながらも、三人でこれまた恒例の忘年会になだれ込み、「来年はどの席を予約しようか」という話が早くもH氏から出てくるのだった…。
とにかく脚本がいい。構成がいい。キャストがいい。
舞台はまずサプライズゲストの登場から始まる。彼らの舞台を観て感動したという音楽家・吉俣良さん(NHK大河ドラマ「篤姫」「江〜姫たちの戦国〜」の音楽を担当)が彼らの舞台に音楽を付けた方が良いと積極的に協力してくれて札幌の舞台にも駆けつけてくれたという。舞台はまず吉俣さんのキーボードでの演奏から始まった。感動の伏線である。
舞台は石巻の復興支援ボランティアのスタッフ事務所という設定である。そこに集う3人のボランティアの様子が描かれ、知らず知らずのうちに「ボランティアって何?」ということを観客に問いかけるような内容である。
まず、脚本を担当したのが主演も兼ねる福島カツシゲさん(ヒロキの役)である。彼がお笑いユニットの出身ということもあるのだろうか、いたるところに笑いが配されているのだ。ヒロキの何気ない仕草、何気ないセリフに何度笑わされたことか。とうとう私は声に出して笑ってしまう場面もあった。
そうした日常の中でヒロキの同僚であるヤス(石倉良信さん)とボランティアの考え方について衝突してしまう。その際も、ヤスはけっこうシリアスに迫るのだが、ヒロキはそれほど深刻には捉えていないようなひょうひょうとした感じが舞台におかしな緊張感を生まなかったのが良かった。
もう一人、ヒトシ(田口智也さん)という巨漢の特異なキャラクターが登場するが、彼の存在も舞台に絶妙の癒し感を与えていた。彼は二人に絡む場面もあるが、狂言回しといった役柄となって構成に深みを与えていたように思う。
※ 写真は向かって左から福島カツシゲさん、石倉良信さん、田口智也さん、吉俣良さんの順です。
震災の復興支援ボランティアという過酷で、深刻な現場を明るいタッチで描きながらも「復興支援って何?」、「ボランティアって何?」という根源的な問を見ている者に考えさせる内容となっていた。
私は舞台の進行に笑いながらも、何時の間には瞼にうっすら涙が浮かんでいるのに気付いた。シリアスな話題なのに笑いを忘れない舞台に素直に感動した。
舞台の最後は再び吉俣良さんが登場して、彼の作曲による「添歩み(そゆみ)」というしっとりとした曲がイシノマキのボランティアの笑顔の写真をバックに演奏された。
私はたまたま見た道新の「イベントカレンダー」でこの舞台のことを知った。この舞台がまだ行ったことのない「キューブガーデン」(中央区北2東3)で行われるということで「キューブガーデンってどんなところなのかな?」という興味もあって出かけたのだが、思わぬ僥倖に出会えた夜(12月7日)だった。
キューブガーデンはビルの2階にある小さなライブスペースだった。2階席もあるようだったが椅子席ではせいぜい100席ちょっとではないだろうか? 昨夜は満員状態だった。(ウェブ上で調べたところ収容人員350人とあったが、それはスタンディングの場合だろう)
※ ストーリーが終わってから福島カツシゲさんはなぜか兄弟舟を歌い始めた。サービス精神旺盛な人である。
札幌公演は残念ながら6日、7日の両日の公演で終了である。この後は12月25~30日まで東京・下北沢のGeki地下Libertyで6日間連続公演が予定されているそうである。
東京の方、あるいは近くの方必見である。料金が1,000円と良心的なのもいい!
中国が第18回党大会を機に総書記が胡錦濤から習金平に交代したことは記憶に新しいところである。雑誌媒体などはこぞって習金平の特集を組むなど、私たちの関心が高まっているところである。
12月6日(木)の講座はメディア・コミュニケーション研究院教授の藤野彰氏を講師として実施された。藤野氏は長い間読売新聞北京特派員、北京総局長など中国での取材経験が豊富な方であり、中国ウォッチャーとしては一線級の人であろう。
藤野氏からは非常に興味深い話を数多く聴けたのだが、それら全てレポートするとなると相当な紙幅を要することになる。ここでは数点に絞ってのレポートとする。
まず中国の人事の特徴について藤野氏は言及した。ご存じのように中国共産党の人事は今回の大会で総書記に就任した習近平をはじめ、政治局常務委員(7名)、政治局員(18名)など全てが密室で決定される。このシステムについて藤野氏は肯定しないまでも、その優位性を語った。
というは、中国の党中枢に選出されるのは党員8260万人の中から選びに選ばれ、選び抜かれた人材だという点である。中国共産党においては選挙という手段を使わないが、党員となったときから絶えずその政治的能力が篩い(ふるい)にかけられながら、昇進を繰り返すということだ。そこには家柄とか、コネとか、賄賂なども存在するというが、基本的には能力がなければ出世はおぼつかないという。このシステムでは例え指導者が変わろうとも、基本的に国としての方向性に大きな違いを生ずることはない。
他方、民主主義を標榜する国々では指導者は選挙で選出される。このシステムでは時としてまったく考え方の違う指導者が選出される場合がある。その際、国としての基本的な方向さえ違いが出てくる可能性がある。
そうしたシステムの違う国同士が対峙したときに、はたして対等、あるいは対等以上に伍していけるのだろうか、と藤野氏は私たちに投げかけた。
誤解のないようにしなければならないのは、藤野氏はけっして中国のシステムが優れていると言っているのではなくて、中国とはそういう国のシステムだから、そのことを踏まえたうえで中国と外交を進めなければならないということを言われたのだと私は理解した。
藤野氏は現代中国について、あるいは中国共産党について多岐にわたり話をしてくれたが、私自身もいろいろなメディアを通してある程度の理解を得ていたので、藤野氏の話がとてもスムーズに理解することができた。
そうした中で、やはり「日中問題」に触れないわけにはいかないだろう。
いわゆる「尖閣」の問題は日中間における象徴的な問題として捉えるべきだという。
中国は過去のトラウマから(それは対日本だけではなく、対欧州に対しても)日本が考えている以上に日本に対する敵愾心を内在しているという。そしてまた覇権国家、世界大国の道を歩もうとし、海洋強国として太平洋に進出しようとしている。
その進出のネックとなっているのが「尖閣」なのだという。したがって、中国は「尖閣」奪取まで長期戦を仕掛け、日本が隙を見せるのを窺っているともいう。中国の本音としては将来的には「沖縄」をも自国領土とする構えを見せているとのことだ。
藤野氏は、今や経済的にも、軍事的にも日本を凌駕する存在となった中国に対して、領土問題では隙を見せず、その他の問題については毅然とした姿勢を取りつつも、隣国としての互恵関係を築くことが大切ではないか、と締め括った。
藤野氏の話から、隣国中国に対して私たちの価値観から見て批判するのではなく、相手の立場に立って、相手の考え方を理解した上でどう付き合っていくのがベストなのかを考え、探っていくことが大切なのではと考えのだが…。
昨夜(5日)札幌市情報センター(北区北8西3 エルプラザ1F)において「『もうひとつの北海道環境白書』を読み解く」という座談会が開催された。
登壇者は山中康裕氏(北海道大学大学院環境科学院教授)、久保田学氏(環境中間支援会議・北海道代表)、有坂美紀氏(元環境相北海道環境パートナーシップオフィススタッフ)の三名だった。
3名が登壇したのは、この本が環境中間支援会議・北海道と北海道大学大学院環境科学院のコラボレーションによって作成されたのでそれぞれ代表としてお二人が登壇し、有坂氏は作成スタッフとして関わったことで、座談会では進行・質問役を務めた。
座談会では発刊の契機について語られた。環境問題において世界のエポックメーキングとなったのが1992年にリオデジャネイロで開催された「地球サミット」である。このサミットを契機として世界も日本も、そして北海道も環境に関する考え方が大きく変化してきた。その20年間の北海道での変化を振り返り、これからの20年を展望しようという試みをしたということだった。
※ 発刊された「もうひとつの北海道環境白書」のカバー表紙です。
購入した本(販価1,050円)をさっそく手に取って見た。いわゆる官庁や団体などが発行する白書とは体裁からして違う。カラー写真や顔写真が使用され、表や図よりも文章が多くを占める。
北海道の環境に対して実践してきたり、活動してきたりした代表的な12名の方が登場し、それぞれの立場から来し方を語り、行く末を語ったものである。(12人の中に私が現在活動していることに関わっている方がお一人登場していたのが嬉しかった)
座談会で語られた中に印象的だった言葉がいくつかあった。
曰く、12人の方々は、20年はおろか、それよりずっと長いキャリアで活動されている方がほとんどである。
また、有言実行タイプが多く、先見の明に優れている人が多いということだった。そして、コトの進め方として決して独断専行するのではなく、さまざまな立場の人の話を聞きながら課題を解決しようとしてきたということだ。
さらに未来を担う若者へのメッセージとして、活動する環境は自ら選び取ることができるのだから、自らに適した環境を選び取ろう。
価値観は必ずしも絶対ではない。今良いことが未来まで良いとは限らない。少し少し進めていこう。
いずれも傾聴に値する言葉だった。
※ 座談会が終了したところで一枚撮らせていただきました。
ところで、座談会の中で1992年のリオの「地球サミット」で伝説のスピーチをしたセヴァン・スズキのことが出てきた。彼女のスピーチには私もいたく感動したものだ。そのことを拙ブログでも取り上げたことがあった。また、彼女が来札した時には会場に駆けつけもした。(その懐かしのブログはこちら ⇒ 「セヴァン・スズキ」 、「セヴァン・スズキ Ⅱ」、 「セヴァン・スズキは訴える」)
また、「もうひとつの北海道環境白書」に登場した12人の中に私の知っている人が登場したと記したが、それは桑園交流ネットワークの事務局を務める石塚祐江氏である。彼女は道栄紙業株式会社非常勤顧問、環境省認定環境カウンセラーとして登場しているが、牛乳パックの再資源化について本道の先駆者とのことだった。現在は循環型社会を目ざして各種の実践に精力的に取り組んでいる方である。
彼女が登場したことで、私も多少は環境のことに関わらせていただいているのかなぁ…、などと改めて気付いたのだった…。
実は…、私はこの秋、生ごみの堆肥化に取り組んでいた。いわゆる「ダンボール箱生ごみ堆肥化法」という方法だ。ベランダでの堆肥化ということで躊躇したところもあったのだが、このほど無事に堆肥化を終え、関係所に届けることができた。
桑園交流NWでフラワープロジェクトを推進する立場として、桑園地区で「生ごみ堆肥化」に取り組むと聞いて、花壇に堆肥を利用させていただこうと考えていたので、堆肥の生成にも関わらねばならなくなった。
※ このようにダンボールをベランダの隅において生ごみ堆肥化作戦を実施しました。
8月下旬、関係所から堆肥化容器として多少加工されたダンボールと、基材となるピートモスともみがらくん炭を混合したものを受け取ってきた。
私の方では基材を撹拌するためのシャベルと温度計を用意した。
最初はこわごわ生ごみを基材の中に混入し、混ぜ合わせた。説明書によると生ごみが分解するときに熱が発生し30℃くらいになるとあったが、私の場合は20℃くらいにしたならない。関係所に問い合わすと、どうやら水分が少ないらしい。水分を加えることにより、分解がより促され温度計が30℃近くを指すようになった。
※ 発生した熱を逃がさないため、内側をタオルケットで覆ってから蓋をしました。
心配した悪臭はほとんど感じず、微かにカビのような匂いを感ずるだけだった。
毎日生ごみを投入し、基材を撹拌することを忘れなかった。
温度が下がり気味になると、廃食用油や砂糖など温度が上がりやすい材料を投入した。
こうして9~11月までの3ヶ月、ベランダでの「生ごみ堆肥化」に取り組んだ。11月になると気温も下がり、ダンボール内の温度も上がりにくくなったので生ごみの投入を止め、撹拌だけを続けた。
投入した生ごみは完全に分解され、跡形なく消えた状態だった。
※ 中には温度計と撹拌用のシャベルが…。生ごみは完全に姿を残していません。
12月に入って、関係所から「生ごみ堆肥化を終了し、堆肥を集める」との連絡が入ったので、12月3日関係所に運んだ。
担当者が私のダンボール内の堆肥を見て、「よく出来ていますね」と言われてホッとした。
この後、私たちが作った堆肥は、さらに寝かせて熟成させ来春の花壇や畑の堆肥として利用されるという。
今回初めて取り組んでみた「堆肥化」だが、私の中での評価は正直言ってまだ出ていない。それは妻からの賛同がまだ得られていないからだ…。
最近の映画では長丁場となる2時間24分が長く感ずることなく最後まで緊張感を持続させてくれた映画だった。これは脚本・監督の周防正行氏の力によるところが大きいのだろう。特に最後の検察官と被疑者が対峙する45分間は圧巻だった。
つい1週間ほど前のことだ。知人のH氏に尋ねられた。「今ならどの映画がお勧め?」と…。
私は迷わず「今なら『終の信託』でしょう!」と答えた。そう勧めた本人が見ないわけにはいかない。ところが新聞の映画案内を見ると、「終の信託」はすでに一日に1回しか上映されておらず、しかも7日限りで終映と表示されていた。
そこで慌てて今朝(4日)9時30分の上映開始に間に合うようにシネマフロンティアに出向いて観ることができたのだった。
※ 浜辺で語り合う江木(別所広司)と折井(草刈民代)です。
ストーリーは女医の折井綾乃(草刈民代)と重度のぜんそくで入退院を繰り返す江木秦三(役所広司)が、医師と患者の関係を越えて恋愛感情が生まれる中、江木は自らが重篤に陥ったとき延命治療はしないでほしいと折井に依頼する。そして江木が心肺停止状態になったとき折井は江木との約束を果たしたのだが…。その処置に過誤があり殺人罪に問われてしまう。
そして最後の場面、検察官(大沢たかお)と折井綾乃(草刈民代)の対決の45分間の場面の大沢の演技が圧巻だった。理詰めで攻める検察官役に大沢はぴったりはまったという感じであった。
※ 検察官室で対峙する検察官(大沢たかお)と折井(草刈民代)です。
映画「終の信託」は10月27日公開というから、すでに相当数のファンが観ていてレビューも多数寄せられているがその評価もマチマチである。私としては画面に絶えず吸い寄せられ、緊張感が持続できたことからも秀作の一つに加えたいと思う。
ところで映画の主題だった終末医療については私も他人事ではない世代に入ってきた。
この映画の江木同様、私も回復の可能性がまったくなくなった段階での延命治療は無意味だと思っている。
そのためにもそろそろリビングウィル(生前の意志)をはっきり伝えておくことが必要な時期に差し掛かってきたようだ。
その際の“終の信託”はやはり医師ではなく、家族だろうなぁ…。
「きゅうかつをじょする」と読むらしい。恥ずかしながら、私はこの言葉を知らなかった。この言葉はログ友(こんな言葉はあるのかな?)さんで、教養溢れるYさんに教えていただいた言葉である。「久闊を叙する」とは意味的には「無沙汰をわびるあいさつをする。久し振りに友情を温める。」と云う意味のようだ。
大学卒業後、東京の企業に就職し、家庭も東京に構えたN氏夫妻から「姪っ子の結婚披露宴に出席するため来札するので会えないだろうか」と連絡が入った。断る理由などない。即決OKの回答をした。
妻と相談し、回復期にあるN氏の体調を考え、市内のお店などではなく我が家で歓待することにした。
N氏とは高校時代の友人なのであるが、実はN氏夫妻には30代の頃に大変お世話になっていたのだ。私が1ヶ月の研修で上京した際、東京で他に知人のいなかった私は休みのたびにN氏宅にお邪魔して歓談させてもらったのだった。
以来、私が上京した際、N氏が帰郷した際に、それこそ久闊を叙していたのだが、このところ久しく会うことがなかった。
昨日(12月2日)、N氏夫妻が投宿しているホテルまで迎えに行き、札幌の大学で学んだN氏にとって懐かしい主だったところを車で案内したのだが、とても喜んでくれた。
その後、我が家へ移って歓談した。
懐かしい話、子どもの話、近況、等々…、話は多岐に及んだが、話の中心は何といってもN氏の手術のことだった。人一倍元気で仕事をバリバリこなしていたN氏だったから「倒れた」と聞いたときは信じられなかった。久しぶりに再会しN氏の口調に往時の張りが戻っていないことに大変な手術だったらしいことを想像させられた。
しばらくの歓談の後、N氏から「今日のところは…」と解散宣言がなされた。体調を考えると引き止めることはできない。体調が回復した際の再会を約し、N氏夫妻を見送った。
N氏の早期の体調回復を祈ると共に、自らの体調管理にも一層配慮しなくてはいけないことを痛感させられた夜だった…。
講演会やイベントなどで興味のある内容となるとどこへでも駆けつけてしまう私である。昨日(12月1日)は清田まで車を走らせた。
1日は市内で興味がある講演会・イベントが四つも重なってしまった。中でもこの時期だから、道内主要政党による公開討論会に興味があったのだが、先に予約した関係もあり道新記者が語る「北海道日本ハムファイターズの強さの秘訣を語る」講演会に清田区民センター(清田区清田1条2丁目5-35)まで出かけた。
講師は道新の札幌担当の3人の運動部記者の中では年長(42歳)の渡邊徹也氏だった。
渡邊氏は取材先から駆けつけたとあって、まずは取材用バッグの内容を紹介してくれた。いわば運動部記者の七つ道具であり、興味深かった。その中身とは…。
◇パソコン ◇カメラ ◇双眼鏡 ◇スコアブック ◇日ハム記録集 ◇日本野球機構の記録集 ◇新聞を切り抜いたスクラップブック ◇各種雑誌媒体等から日ハム関係を切り抜いたスクラップブック ◇野球のテクニカルに関するスクラップブック ◇メモ帳(小型)
などをバッグに詰め込み取材しているとのことだ。
※ 講演をする道新運動部記者 渡邊徹也氏です。
日本ハムが札幌ドームで試合があるときの運動部記者の一日を追ってみると…。
13時頃に球場入りして取材活動を開始する。
14時頃からの日ハムの練習、対戦相手の練習などを取材するが、その間は立ちっ放しの取材になる。(選手が練習中に座っての取材はご法度とのこと)
18時からは試合の観戦しながら取材。(スコアブックを記入しながら)
21時30分頃に試合が終わったとして、22時過ぎに取材が終了。(ヒーローインタビューでお立ち台に上がる選手の選定は、報道陣の中の幹事社が提案し、球団の了解を得て決定される)
取材終了後、原稿を作成し22時50分までに送稿するとのことだ。(道新の早版の締切時間)
23時過ぎ、会社に帰社し早版をチェックし、遅版に修正が必要な場合は修正を行う。
その後、スクラップブックの作成などをして午前2時頃勤務が終了し、帰宅して就寝は午前3時頃になるとのことだ。
自らの仕事を淡々と語った渡邊氏だったが、う~ん、これは好きでないと勤まらないと思った。
そして各選手の取材に対する反応などについて個々に語ってくれたが、そのことを記すと膨大になるので割愛することにする。
さて、肝心の日ハムの強さの秘訣だが、このことについて渡邊氏は「予想外の結果」と私の予想外のことを口にし、多くを語らなかった。渡邊氏としては、それまで語ってきた個々の選手の横顔などから、選手たちの結集力の高さが優勝をもたらしたと語りたかったようだ。それは渡邊氏が栗山監督や稲葉選手たちの人間性の素晴らしさや見事なリーダーシップのことを何度も口にしていたことからもうかがわれた。
私にとって溜飲の下がる話を渡邊氏から聞いた。
それは彼が「今年の日ハムのパリーグ優勝が現実的になったと思えた試合は9月28日の対西武戦だった」と語ったことだ。この試合は私も急遽札幌ドームに駆けつけ、同じような印象をブログに「日ハム 制パへカウントダウン」と記して投稿していたからだった。
※ 講演会は道新の販促活動の一環として行われたもので、「道新ぶんぶんクラブ」のマスコット「ぶんちゃん」も講演後登場した。
わざわざ清田まで出向いて聴いた講演だったが、取材の裏側を知ることができ興味深かった。そして渡邊氏が「(運動部 渡辺徹也)という署名入り記事に今後注目してほしい」と語りかけたが、今後道新に彼の署名入りの記事を目にしたら、誠実そうな彼の顔とスキンヘッドを思い浮かべることにしよう。
※ 署名入りの記事では「渡邊」ではなく、「渡辺」と記しているそうだ。