石狩川河口を訪れるたびに不思議に思っていたことがあった。それは石狩灯台が河口に出来た砂嘴の真ん中付近に立っていたからだ。もっと先端に立てるのが普通では?との疑問が今回の講座によってその疑問を解消できた。

※ 映画「喜びも悲しみも幾後月」の舞台となった石狩灯台と主題歌の歌碑です。
石狩灯台は、昭和32(1957)年制作の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となったことで有名な灯台である。
この灯台が砂嘴の先端に立っていないことをいつも不思議に思っていた。
石狩市民カレッジ「不思議いっぱい!石狩川河口」講座の第2回は「河口砂嘴の地形変化を考える」をテーマに開講された。
講師の石川氏は、前回は自らが実地踏査を繰り返すことでその不思議に迫ったが、今回のテーマは過去数百年に遡らねばならないことから、古文書、絵図、伊能大図、地形図、空中写真など数々の資料に丹念にあたり、その変化を追い、私たちに伝えてくれた。

※ 石狩川河口に伸びた砂嘴の概念図です。八幡神社は白く彩られた市街地の上端のところに位置します。
さまざまな資料にあたり石川氏は石狩川河口の砂嘴の変遷を次のようにまとめた。
◇文化文政(1804~30)以前には砂嘴の形状の資料はない。
◇文化文政のころ、現在の八幡神社のあたりが河口の先端だった。
◇明治以降、流域の開拓とともに河口砂嘴の伸びが著しくなった。
◇昭和20年以降、砂嘴の伸長は止まった。
◇現在の海岸線もそのころほぼ確定した。

※ 石狩川河口の現在の砂嘴の先端に立つ講座の受講者たちです。
石川氏は伊能大図や明治期に開拓使が雇い入れたアメリカ人の手による地図にGoogle earthの画像を重ね合せてその変遷を考察するというイメージオーバーレイという方法で砂嘴の伸長のようすをトレースしている。
伊能大図は明治期に日本全国を測量して作成した驚くほど正確な地図として有名であるが1821(文政4)年に完成している。
それによると、伊能大図の時代に石狩八幡神社の位置は砂嘴の先端すれすれだったと思われるという。現在の石狩八幡神社が砂嘴の先端から約2,000mのところにある。ということは1945(昭和20)年いこうは砂嘴の伸長が止まったということだから、1821,年から100年少々の間に砂嘴が2,000mも伸長したことになる。

※ 砂嘴の中央部分を往く参加者たちですが、たくさんの海浜植物が咲いていました。
石狩灯台は1892年に建設されているが、建設当時は砂嘴の先端だったが、その後さらに砂嘴は伸び続けたため、現在は先端から1,000数百mも内陸部に立った形となっている。

※ 建設当時は白黒の灯台だったとか?カラー映画で使うため白赤に塗りなおされたというエピソードがあります。
なぜ砂嘴が伸び続けたのか? そしてなぜ砂嘴の伸びが止まったのか? そのことについても石川氏は講座の中で論及したが、残念ながら資料も少なく確かなことは言えないとした。
私自身が以前から石狩川河口に何度も通い関心が深かったことと、講師の石川氏の真摯な研究態度と素晴らしいプレゼンテーションによって、とても有意義な講座を受講できたとを振り返っている。
砂嘴の伸びについては、そうなったからそうなった、としかいいようなないようでもありますね。色々と複雑な力学(川の水流、海の波、風その他の気象、地震、インフレ、株価、男女雇用機会均等法等々)が働いているでしょうから。
砂嘴が伸びているのかな?とは何となく感じてはいたのですが、季節によって砂嘴の先端が動いているということは新たな発見でした!
そうですね~。インフレ、株価などいろいろな力学が働いているんですねぇ??
田舎おじさん様のメールアドレスが分からないので,メールのつもりでここに書いてます。
私の講座を受講していただいた上,講座内容を詳しくレポートしていただきありがとうございます。
偶然ここのブログに遭遇して,驚きつつ感激しています。
私のHPにリンクを張らせていただきたいのですが,構わないでしょうか。
bannaguro.net@gmail.com
宛て,ご返事をいただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
受講した講師の方からコメントいただき感激しています。
素晴らしい講座を受講できことに感謝しています。
お尋ねの件につきましては、メールにて変身させていただきました。