田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も12年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ノスタルジック ジャーニーを振り返る 後編

2019-08-18 21:07:05 | 

 私の職業人生の後半の13年間はいわゆる管理職としての13年間だった。それまでの立場とは違って、緊張感のある日々だった。教育現場は他と比べて特殊な組織とも言われ、難しい日々の13年間だった。

  よく言われることだが、教育現場においては職員はスタッフ意識が強く、会社や役所の組織のようなライン意識が薄いとされている。つまり、職員(教員)一人一人は責任をもって子ども(生徒)に向き合っているという意識が強いのだ。そのこともあり、難しい問題に直面した時など、組織としての意思統一を図るために管理職として腐心する場面が多々あった。そうした13年間の中でも私なりに創意工夫をしながら務めた13年間だった。そんな日々を振り返ってみたい。 

 

◇平成 6年3月(1994)~平成 7年3月(1995

  網走市立能取小学校 教頭(廃校)

      

      ※ 廃校になった校舎は当時のままの姿で建っていました。集落の会館などに使用されているのでしょうか?

      

      ※ 校舎の周りはパークゴルフ場として整備され、立派の芝生が養生されていました。 

 教頭として初任の学校は網走市立能取小学校という能取湖に面した学校だった。児童数25名、職員は校長をはじめとして9名の構成だった。この学校は児童数が少ないため、1・2年生、3・4年生、5・6年生がそれぞれが同じ教室で学ぶ複式学級という方式だった。私は一般の教員時代に複式教育を経験したことがなかった。そのため、複式教育の現場を目にしたとき、まったく異質の教育の現場に足を踏み入れたような感覚だった。直接に指導をする立場ではなかったが、より効果的な指導方法について先生方と議論を重ねたことが懐かしい。それから私が力を入れたのは学校の環境整備だった。校務補さんの力を借りながら校舎の整備をいろいろと手掛けた。特に能取湖に棲む魚たちを生態飼育する水槽を整備したことを思い出す。また、「新米教頭奮戦記 能取の風」と題して職員室通信を発行したことも思い出である。一年間で103号まで発行した。

 けっこう充実した新米教頭生活だったが、網走管内の教育事情もあり、私は一年でこの能取小学校を去ることになってしまった。 


◇平成 7年4月(1995)~平成10年3月(1998

  生田原町立生田原小学校 教頭(現遠軽町立生田原小学校)

      

      ※ 当時と全く変わらない堂々とした造りの校舎でした。

       

      ※ 学校の敷地内には由緒ある「たたら校園」が整備されていました。

 生田原小学校もけっして大きな学校ではなかったが、各学年1クラス規模の学校だった。

 この学校は地域的な事情もあり少し落ち着きのない子どもを抱える学校だった。そこで私は校舎の内外を花で飾ることを思い立った。子どもの心を落ち着かせたいとの思いからだった。私は種子の段階から花づくりを進めて(もちろん先生方の協力を得ながら)、3,000株以上の苗を育てて、夏になると学校の周辺を花でいっぱいに飾った。学校の前を走る国道沿いにも花を植えた。花の種類はベゴニアセンパフローレンスという種だった。花を飾るだけではなく、花を素材にしてポランティアやキャンペーンなどに活動を広げた。3年間の実践で、子どもたちの生活に落ち着きが出てきたことを実感できた。

 もう一つの思い出は、近隣の勇払原野で開催されるクロスカントリースキー大会のリレー部門(100kmを5人でリレーする競技)に職員を誘って参加したことも懐かしい思い出である。成績?確かブービー争いしたはずと記憶している。

 

◇平成10年4月(1998)~平成13年3月(2001

  津別町立恩根小学校 校長(廃校)      

       

       ※ 廃校になった校舎の壁には私が設置した「あふれる笑顔 ひまわりの花咲く 恩根小」のスローガンが掲げられていました。

      

      ※ 校舎入り口には、私が夜な夜な彫刻刀で削り出した校章が今も掲げられていました。

 平成10年からは立場が変わって一校を預かる校長という立場で務めることになった。恩根小学校は北海道特有の極小規模校で児童数が9名、職員が4名という構成だった。小規模ゆえに家族的なのんびりした雰囲気があったが、そこに安住することなく職員にも、児童にも刺激を与えることが私の務めだった。そうしたことと共に力を注いだのがやはり環境整備だった。学校の歴史を紐解くと、ひまわりの花を盛んに栽培していた時期があったことが判明したので、その復興に力を注いだ。学校の周囲にひまわりの花を植え、集落にもひまわりの花を栽培することを呼びかけた。そして「あふれる笑顔 ひまわりの花咲く 恩根小」というスローガンを掲げて、ひまわりの花の栽培を通しながら学校づくりを進めた。

 

◇平成13年4月(2001)~平成16年3月(2004

  網走市立白鳥台小学校 校長        

      

      

      ※ まだまだ新しい感じのする白鳥台小学校の校舎です。

      

      ※ 校舎の裏側には学校のシンボルツリーのプンゲンストウヒが立っていました。

 恩根小学校での3年を経て、網走市立白鳥台小学校に転勤となった。この学校は、私が赴任する一年前に周辺の小規模校4校が合併して生まれた新しい学校だった。それでも学年各1クラスで児童数130余名の小さな学校である。学校の骨格につては前任の初代校長がおおよそ作成されていたが、私はその実体化を期待されていたと受け止め、学校づくりに邁進した3年間だった。校舎は新設されたばかりで環境整備に意を払う必要はなく、もっぱら教育内容の充実に力を注いだ。保護者の期待も大きく、私は職員室だよりはもとより、父母向けの校長室通信を発行し、学校が目ざしていることについての理解を深めようと力を注いだ。

 この学校においても私の面白がり屋精神が顔を覗かせた。それは十勝で開催された「十勝スピードウェイ12時間耐久ママチャリレース」に職員を誘って出場したことである。職員のほぼ全員が選手、サポート役として十勝(更別村)まで遠征し、夜間の12時間をリレー形式で走り切った。もちろん私は選手役として出場した。(かなり足を引っ張ったが)

 

◇平成16年4月(2004)~平成19年3月(2007

  北見市立北光小学校 校長

      

      ※ 私が在職したころと変わらず、住宅街なのになぜか学校前には畑が広がっていました。

      

      ※ かなり古びた感じのする校舎です。

 白鳥台小学校での3年間を終え、私のキャリアの最後となる北見市立北光小学校に転任した。北光小学校は北見市の住宅街に建てられた学校だった。当時は北見市内で一二を争う大規模校で、児童数は700名を超えていた。職員数は確か30名を超えていたはずだ。

 正直に告白すると、私はこの学校に赴任して初めて学校教育現場の管理職としての難しさに直面した思いだった。どういうことかというと、それまでの学校のような職員との応接方法が通じなかったのだ。職員たちは身構えてしまい、意識的に私との距離を取ろうとした。大規模校においては北海道の教育界の悪しき伝統が色濃く残っていたのである。そうした中で、私が力を注いだのが地域の幼・保・小の連携である。近隣する幼稚園・保育園に呼び掛けて、互いを理解するために職員の相互訪問を実施したり、連携して行事を開催したりすることで地域の教育力を高めようと図ったことだ。ただ哀しいかな私の任期は3年間である。この連携の動きが十分に定着するまで見届けることができずに退職を迎えてしまった。その後は、その機運が急速に萎んでしまったとも聞いた。

 スタッフ意識の強い学校教育現場において、多数の職員と意思を通じ合うことの難しさを痛感させられた3年間だったが、それでも無事に3年間を務め終えることができ安堵しながら退職の日を迎えたのだった。

 

 当初、この「振り返り」編は学校や事務所の周辺の自然を懐かしむことを述べようと考えていた。ところがやはり、勤務したところを振り返るということは、そこで営んだ仕事のことに思考が向かっていくのは逃れがたいことだった。前編でも書いたが、多少自慢話めいた記述となってしまったが、こうして自分をさらけ出し、自分自身を振り返ってみることも必要なのではと思い、恥をさらけ出すことになってしまった。まことに恥ずかしいかぎりであるが、ご容赦いただきたい。

 

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ノスタルジック ジャーニーを振り返る 前編

2019-08-17 21:28:05 | 

 現役を退いて12年。今夏のお世話になった土地・職場を巡る旅は、私にとってはある意味で記念碑的な旅だった。おそらくそれは最初で、最後の旅となるのかもしれない。思い出多かったノスタルジック ジャーニーを振り返ってみたい。 

 私の職業生活は1980(昭和45)年に置戸町立置戸小学校に赴任以来、網走管内(現在のオホーツク管内)において36年間お世話になった。その間、私は9ヵ所の学校・事務所にお世話になった。

 ライブレポにおいては、訪れた順に紹介したが、ここでは改めて年代順に並べ替えて、私の職業人生を振り返ってみることにする。(今回は前半は4ヵ所を振り返る) 

◇昭和45年4月(1970)~昭和55年3月(1980)

  置戸町立置戸小学校 教諭 

      

      ※ 校舎は平成11年に町内の小学校の統合と同時に建て替えられ、当時の面影はどこにもなかった。

      

      ※ グランドは芝生化したとのことだったが、やや管理に問題があるのか?鮮やかな緑とは言い難かった?

 私にとっての教師人生の始まりの地である。23歳から33歳まで人生の中でも最も活力があった時期ともいえる。若さゆえに、教育にも社会活動にも全力投球できた地だった。(もっとも今から振り返れば、それは稚拙の域を出ていなかったが…)後に一時社会教育の道へ進んだのも、この地で多くの方々から教えられたことが礎であった。

 私事においてもこの地で結婚をし、子どもも授かった地である。 

◇昭和55年4月(1980)~昭和58年3月(1983)

  北海道教育委員会派遣 東藻琴村社会教育主事(現在の大空町)

      

      ※ 東藻琴村教育委員会が入っていた庁舎です。当時とまったく変わらぬ姿でした。          

      

       ※ 村役場庁舎と同じ敷地に、同じ意匠で建てられた農村環境改善センターです。この中にホールがあり

        そこで「高石ともやとナターシャセブン」コンサートを開催しました。

 置戸での体験から社会教育の道へ進むことを関係者から勧められ、興味もあったので派遣社会教育主事の仕事に挑戦することになった。東藻琴村は純農村で人口も3,000人強と少なく、皆が顔見知りという関りの中で社会教育の仕事をさせてもらった。思い出の仕事としては社会教育だより「もことやまだより」を毎月発行し、全戸に届けたことだ。

 また、仕事とは一線を画し、村の青年たちは力を合わせ村に新設されたホールで「高石ともやとナターシャセブン」のコンサートを小さな村で成功させたことが大きな思い出である。(仕事ではなかったが、私としては社会教育の一環だったと思っている) 

 ※ ライブレポでは網走教育局派遣と称したが、正式には北海道教育委員会派遣でした。 

◇昭和58年3月(1983)~昭和61年3月(1986)

  北海道教育委員会派遣 美幌町社会教育主事

      

      ※ 美幌町教育委員会社会教育課が入っていた美幌町コミュニティセンターです。

      

       ※ コミュニティセンターには体育館が併設されていて、町民のスポーツ活動の場として活用されていました。

 派遣社会教育主事の任期は3カ年である。東藻琴村での任期を終えた私は、さらに社会教育の仕事を極めたいと思い、その旨を上司に伝えたところ美幌町への派遣を命じられた。

 美幌町は東藻琴村とは人口規模がまったく違い、仕事の質も違った。美幌町においては社会教育だよりを東藻琴村のように単独で全戸に届けることは不可能だったため、町の広報紙の中に社会教育だより「みどり野」というコーナーを特設させてもらい生涯学習の奨励に努めた。 

◇昭和61年4月(1986)~平成 6年3月(1994)

  小清水町立小清水小学校 教諭

      

      ※ 小清水小学校も町内の6小学校が再編統合したことに伴い、平成25年ら新校舎を建設したとのことで

        こちらも当時の面影はまったくうかがうことができなかった。

      

 

 社会教育の世界で6年間経験させてもらったが、やはり自分のホームグランドに戻ることが必要と考え、その旨の希望を伝え、小清水町立小清水小学校に赴任させてもらった。

 久しぶりの学校教育の現場とあって不安もあった。そこで私は同僚を誘ってある民間の教育運動の研修方法に学び、定期的に自己研鑽するグループで教育方法の研究に没頭した期間であった。その時に学び合った仲間との繋がりが今にも続いているのである。

  以上が私の職業人生の前半である。人は自分の過去を振り返るとき、どうしても自分を美化しがちである。それを読まされる側としては鼻白む思いになるだろう。それを避けたいと思ったのだが、どうしても私にとって良い思い出のみを書き連ねる結果となってしまったことをご容赦いただきたい。

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2017夏 道東の山旅 No.6

2019-08-15 12:22:45 | 

西別岳山頂標識


1時間45分かけて西別岳山頂に到達しました。
自分の節操のなさに呆れて、自分に苦笑しています。朝令暮改どころ瞬令瞬改です。
No.5を投稿した後に登山口にやってきた人が「今から登る」と言います。(地元の方のようでした)
「私は明日登ります」というと、「明日はまずダメですね」と言います。そこで急遽心変わり、登ることを決めました。
コンデションは霧雨に、山頂付近は強風と最悪で、ただただ山頂標識をカメラに収めるために登ってきたようなものです。
それでも、山頂に足跡を記したということで、満足することにします。
これで、今回は帰宅することにします。たった二つの山だけで、山旅とはおこがましい気もしますが、天候には勝てません。
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2019夏 道東の山旅 No.5

2019-08-15 09:55:32 | 

西別岳山小屋


西別岳の登山口にある山小屋に着きました。車が5台停まっているということは登山している人がいるのかもしれません。しかし、天候は霧雨です。
西別岳の山小屋は5年ほど前に一度お世話になったことのある山小屋です。中標津からの歩き旅で2泊目にお世話になりました。その時は山小屋に一人きりでの宿泊で、なんとも言えぬ至福感を味わったことを思い出しています。しかし、今回は車中泊にしようと思っています。
明日のわずかな可能性にかけて、本でも読みながら時間を過ごし、体力の回復に努めます。
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2019夏 道東の山旅 No.4

2019-08-15 08:35:46 | 

霧の中の摩周展望台(第3展望台)

またまた視界50メートルの中、摩周展望台まで登ってきました。
展望台は写真のとおり、まさに「霧の摩周湖」です。明日は摩周湖の対岸になる西別岳と摩周岳(カムイヌプリ)を縦走の予定だったのですが、かなり可能性は低そうです。それでも一応西別岳登山口を目指します。
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2019夏 道東の山旅 No.3

2019-08-15 07:32:15 | 
一昨日のリベンジを狙い、藻琴山登山口のハイランド小清水725に来ています。
ところが、下界は晴れていたのに、ここに来ると濃霧の中、視界は50メートル程度でとても登山のコンデションではありません。ざんねですが、断念して、明日の予定の西別岳の登山口に移動します。
明日も台風の影響で可能性は低いようですが、自然が相手ですから致し方ありません。
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2019夏 道東の山旅 No.2

2019-08-14 18:24:26 | 
予定どおり斜里岳登山を終え、地元清里温泉「バパスランド」でひとっ風呂浴びてホッとしたところです。
しかし、25年ぶりだった斜里岳登山は想像していたとは大違い!困難に困難を極めました。年齢を嫌というほど感じさせてもらいました。
小滑落2度、両脚大腿部裏の痙攣、滑落した際にペットボトルを落とししまい、水分不足に悩まされるという三重苦を背負っての登山でした。まあ、それらも全て加齢が原因なのですが…。
苦しく、辛い登山でしたが、天候が良く眺望が抜群だったのが救いでした。

写真は斜里岳山頂標識です。背後に田園風景が広がっています。
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ノスタルジック ジャーニー 9

2019-08-13 13:04:49 | 

小清水町立小清水小学校

昭和62年4月から平成6年3月まで8年間お世話になった学校です。
一般教諭としては最後になった学校です。この学校で出会った5人が今なお毎年集まり旧交を温めてているグループです。様々なことに挑戦した思い出多い8年間でした。

今回のノスタルジック ジャーニーでその変化にもっとも驚いた学校でした。当時の面影はグランドくらいしかありませんでした。校舎の姿はもちろん、建っている場所も違い、学校を探すのに苦労したほどでした。

以上、私が務めた学校、事務所を訪れるノスタルジック ジャーニーはこれで打ち止めとします。楽しくも、懐かしい旅でした。
巡った日が振替休日だったり、お盆休みだったりして、関係者にお会いすることは叶いませんでしたが、先輩面をして内心煙たがれるよりは良かったのではと思っています。
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2019夏 道東の山旅 No.1

2019-08-13 12:15:59 | 


ハイランド小清水725というところに来ています。藻琴山の登山口になるところです。ところが、辺りは霧一色で、気温は14℃でとても山に登ろうとする意欲が起きません。
残念ながらパスすろことにして、明日の斜里岳登山に備えて斜里岳登山口の清岳荘に向かうことにします。
その前にノスタルジック ジャーニーの最後の学校、小清水小学校に寄っていく予定です。

写真はハイランド小清水725に置かれた標石ですが、ここからは屈斜路湖の雄大な景色が望めるはずですが、まったく何も見えません。
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ノスタルジック ジャーニー 8

2019-08-13 11:23:53 | 

旧東藻琴村役場庁舎


昭和55年4月から昭和58年3月まで3年間、網走教育局派遣の社会教育主事として東藻琴村教育委員会にお世話になりました。
当時は新築の庁舎でしたが、あれから30数年経っていますが、ちっとも古さを感じさせない立派な庁舎です。
現在は大空町の東藻琴総合支所として、また大空町の教育委員会事務所として活用されているとのことでした。
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