2013年9月7日に発行された日本経済新聞紙の朝刊の文化欄に、見出し「宮崎駿監督が引退会見 『この世は生きるに値する』」という解説記事が載りました。
9月6日に東京都武蔵野市内で、映画監督の宮崎駿さんが引退記者会見を開催した一連の記事の中で、宮崎さんの監督作品をまとめた解説として、分かりやすい記事でした。
日本経済新聞紙の電子版では見出し「『この世は生きるに値する』 宮崎駿監督が引退会見 子どもに伝え続けた半生」という記事として掲載されました。

映画製作プロダクションの業界について、ほとんど知らない半可通としての素人の感想を述べると、宮崎さんはなぜ、監督を引退するという発表をしたのかという理由が実際には分からないのです。
一般的に映画監督は引退すると表明するのが業界の常識なのでしょうか。宮崎さんが引退記者会見で述べたように「2008年に公開した『崖の上のポニョ』から5年間かかって新作『風立ちぬ』が発表されました」。このために、単純に類推して次期作品の製作に5年かかるとすると、もうすぐ73歳になる宮崎さんは、約80歳までの期間を次期作品の製作に没頭する計算になります。
宮崎さんが所属するスタジオジブリは、Webサイトによれば、高畑勲さんと宮崎駿さんの二人の監督のアニメーション映画制作を目的に、株式会社の徳間書店の子会社として1985年6月に設立されました。その後、1997年6月に、株式会社徳間書店と合併・吸収されて、株式会社徳間書店/スタジオジブリ・カンパニーとなるなど運営組織は変化しています。2005年に再び独立します。経緯には、紆余曲折(うよきょくせつ)があります。
アニメーション映画制作の素人として推察すると、宮崎さんが監督を務めた「風の谷のナウシカ」は1984年に公開され、観客動員数が91万人との興業成績を収めた成功を機に、“監督主義”を貫くためにスタジオジブリが設立されます。「風の谷のナウシカ」は東映動画(現・東映アニメーション)が制作した作品です。
「風の谷のナウシカ」で「人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出すことを実現した」姿勢を、次のアニメーション映画制作でも持続させるために、「一作一作に常に全精力を注ぎ込み、すみずみまで目の行き届いた妥協のない内容を目指していく」姿勢を貫く目的で、スタジオジブリは設立されます。
1986年にスタジオジブリが制作した「天空の城ラピュタ」は高畑勲さんがプロデューサー、宮崎駿さんが監督を務めてつくられました。スタジオジブリ設立直後は、会社として成功するかどうかは分からないために、当時の映画製作と同様に、「社員としては雇用はせず、作品ごとに約70人のスタッフを集めて、完成すると解散するというスタイルをとりました」とのことです。
この当時のスタジオジブリの経営責任者は、出版社徳間書店の社長だった徳間康快さん(故人)でした。そして、スタジオジブリはアニメーション映画の「となりのトトロ」と「火垂るの墓」を製作します。この2本は実は同時期に作られ、1988年4月に二本立てとして公開されました。「となりのトトロ」は宮崎駿さんが、「火垂るの墓」は高畑勲さんがそれぞれ監督を務める作品を同時に製作するという大冒険を強行します。
「となりのトトロ」は観客動員数が80万人との興業成績を収めると同時に、トトロの“ぬいぐるみグッズ”が予想以上に売れたことによって、この収入によって映画製作費の部分的な補充ができるようになったそうです。
「となりのトトロ」などの興行成績の成功を期に、スタジオジブリをどういう会社にしていくのか、という自分たちの組織の問題に直面します。具体的には「スタッフの待遇と新人の採用・育成だった」そうです。途中経緯を省略し、結論を伝えると、宮崎さんは「スタッフの正規社員化と固定給制度の導入、かつ賃金の倍増を目指す、さらに新人の定期採用とその育成」を実現します。企業として“一人前”になったようです。
予想に反して、長くなったので、素人の類推は明日になります。
9月6日に東京都武蔵野市内で、映画監督の宮崎駿さんが引退記者会見を開催した一連の記事の中で、宮崎さんの監督作品をまとめた解説として、分かりやすい記事でした。
日本経済新聞紙の電子版では見出し「『この世は生きるに値する』 宮崎駿監督が引退会見 子どもに伝え続けた半生」という記事として掲載されました。

映画製作プロダクションの業界について、ほとんど知らない半可通としての素人の感想を述べると、宮崎さんはなぜ、監督を引退するという発表をしたのかという理由が実際には分からないのです。
一般的に映画監督は引退すると表明するのが業界の常識なのでしょうか。宮崎さんが引退記者会見で述べたように「2008年に公開した『崖の上のポニョ』から5年間かかって新作『風立ちぬ』が発表されました」。このために、単純に類推して次期作品の製作に5年かかるとすると、もうすぐ73歳になる宮崎さんは、約80歳までの期間を次期作品の製作に没頭する計算になります。
宮崎さんが所属するスタジオジブリは、Webサイトによれば、高畑勲さんと宮崎駿さんの二人の監督のアニメーション映画制作を目的に、株式会社の徳間書店の子会社として1985年6月に設立されました。その後、1997年6月に、株式会社徳間書店と合併・吸収されて、株式会社徳間書店/スタジオジブリ・カンパニーとなるなど運営組織は変化しています。2005年に再び独立します。経緯には、紆余曲折(うよきょくせつ)があります。
アニメーション映画制作の素人として推察すると、宮崎さんが監督を務めた「風の谷のナウシカ」は1984年に公開され、観客動員数が91万人との興業成績を収めた成功を機に、“監督主義”を貫くためにスタジオジブリが設立されます。「風の谷のナウシカ」は東映動画(現・東映アニメーション)が制作した作品です。
「風の谷のナウシカ」で「人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出すことを実現した」姿勢を、次のアニメーション映画制作でも持続させるために、「一作一作に常に全精力を注ぎ込み、すみずみまで目の行き届いた妥協のない内容を目指していく」姿勢を貫く目的で、スタジオジブリは設立されます。
1986年にスタジオジブリが制作した「天空の城ラピュタ」は高畑勲さんがプロデューサー、宮崎駿さんが監督を務めてつくられました。スタジオジブリ設立直後は、会社として成功するかどうかは分からないために、当時の映画製作と同様に、「社員としては雇用はせず、作品ごとに約70人のスタッフを集めて、完成すると解散するというスタイルをとりました」とのことです。
この当時のスタジオジブリの経営責任者は、出版社徳間書店の社長だった徳間康快さん(故人)でした。そして、スタジオジブリはアニメーション映画の「となりのトトロ」と「火垂るの墓」を製作します。この2本は実は同時期に作られ、1988年4月に二本立てとして公開されました。「となりのトトロ」は宮崎駿さんが、「火垂るの墓」は高畑勲さんがそれぞれ監督を務める作品を同時に製作するという大冒険を強行します。
「となりのトトロ」は観客動員数が80万人との興業成績を収めると同時に、トトロの“ぬいぐるみグッズ”が予想以上に売れたことによって、この収入によって映画製作費の部分的な補充ができるようになったそうです。
「となりのトトロ」などの興行成績の成功を期に、スタジオジブリをどういう会社にしていくのか、という自分たちの組織の問題に直面します。具体的には「スタッフの待遇と新人の採用・育成だった」そうです。途中経緯を省略し、結論を伝えると、宮崎さんは「スタッフの正規社員化と固定給制度の導入、かつ賃金の倍増を目指す、さらに新人の定期採用とその育成」を実現します。企業として“一人前”になったようです。
予想に反して、長くなったので、素人の類推は明日になります。