「100匹目の猿」って、知っている人もあるでしょうが、ちょっと概要をのべますと、
宮崎県の幸島で、京都大学の研究チームが、サツマイモで猿の餌付けを行っていました。
1953年、「イモ」と名付けられた一歳半の雌猿が、それまでどの猿もやっていなかったのですが、
川の水で砂の付いたサツマイモを洗って食べることをやり始めた。
そして、その行動は数年かけて、少しずつ群れの仲間に伝わっていった。
そしてある日、このイモ洗い行動が臨界値(ここでは100匹目)に達すると、
不思議なことが起こった❗
まるで、テレパシーでも使ったかのように、瞬く間に
幸島の群れ全体に、
この行動が伝わったのです。
しかも、驚く👀‼️べきことに、物理的な交流のない、200キロも離れた大分県の高崎山の猿の群れや、全国の猿の群れに伝わっていった、
ということです。
・・・・・
以上の文章をネット上で
再確認中に
雌猿の名前が「イモ」であったことに気付いたのですが、
私は、小学4年生の頃、
私の家の場所を友達O君に
図に書いて説明していました。
「ここに、イモ屋という
店がある。」
「へぇー、イモや か!?
イモ、イモ、
お前は、イモにしよう!」
と言って、
私が否定する間もなく、
O君は仲間にふれまわったのです。
それ以来、中学3年生まで、
ワルガキ仲間の間では、
私のアダ名は「イモ」だったのです。
今まで誰にも言いませんでしたが?、
私はこのアダ名がイヤでたまりませんでしたので、
高校は千葉の麗澤高校に行くことになり、ほっ!としたのです。
しかし、
私は1954年生まれで、
幸島のイモに近い生まれですし、
今、まだ「心を洗う」ことが
日本においてでさえ一般的でないので?
こうして書き綴っているのですが・・
とても、偶然とは思えないのです。。。
宮崎県の幸島で、京都大学の研究チームが、サツマイモで猿の餌付けを行っていました。
1953年、「イモ」と名付けられた一歳半の雌猿が、それまでどの猿もやっていなかったのですが、
川の水で砂の付いたサツマイモを洗って食べることをやり始めた。
そして、その行動は数年かけて、少しずつ群れの仲間に伝わっていった。
そしてある日、このイモ洗い行動が臨界値(ここでは100匹目)に達すると、
不思議なことが起こった❗
まるで、テレパシーでも使ったかのように、瞬く間に
幸島の群れ全体に、
この行動が伝わったのです。
しかも、驚く👀‼️べきことに、物理的な交流のない、200キロも離れた大分県の高崎山の猿の群れや、全国の猿の群れに伝わっていった、
ということです。
・・・・・
以上の文章をネット上で
再確認中に
雌猿の名前が「イモ」であったことに気付いたのですが、
私は、小学4年生の頃、
私の家の場所を友達O君に
図に書いて説明していました。
「ここに、イモ屋という
店がある。」
「へぇー、イモや か!?
イモ、イモ、
お前は、イモにしよう!」
と言って、
私が否定する間もなく、
O君は仲間にふれまわったのです。
それ以来、中学3年生まで、
ワルガキ仲間の間では、
私のアダ名は「イモ」だったのです。
今まで誰にも言いませんでしたが?、
私はこのアダ名がイヤでたまりませんでしたので、
高校は千葉の麗澤高校に行くことになり、ほっ!としたのです。
しかし、
私は1954年生まれで、
幸島のイモに近い生まれですし、
今、まだ「心を洗う」ことが
日本においてでさえ一般的でないので?
こうして書き綴っているのですが・・
とても、偶然とは思えないのです。。。