昔の日本の家庭では、床の間に山水などの
掛け軸がかかっていることはよくありましたが、
それらの大ていは上・下はある程度余白になっているのが普通でした。
ある西欧人が、この余白はいらないからと言って
表具師に切り落とさせて、絵の部分だけを表装させたそうです。
これは近代科学による合理的思考の現れに他なりません。
一見その絵の白紙の部分は「不明」「不用」であるかも知れない。
しかし、それはあくまで感覚面から見た表むきの「不明」「不用」にすぎません。
ところが「自然の魂」と「人間の魂」との交流の立場から考えると、
その余白のところにこそ、なお如実にその実体が表現されています。
下の余白の空間には霧がかかっていて見えない谷川の生命が表現され、
上の余白の空間には無限の彼方の山の連なりが表現されています。
今の日本では、核家族化が浸透してきていますので、
床の間や仏壇の間さえ・・、それ以前に、
今の新築住宅には畳の部屋も少なくなっている現状では、
若い人は山水の掛け軸をイメージすることさえむつかしいかも知れません。。
そしてまた、
仏壇が無いということは、先祖供養に意識を向けることも
たいへんむつかしくなっていると思います。。。
近代の合理的思考は、日本人の大和民族としての精神性を
そぎ落とす方向に働いたといえるのではないでしょうか。。
掛け軸がかかっていることはよくありましたが、
それらの大ていは上・下はある程度余白になっているのが普通でした。
ある西欧人が、この余白はいらないからと言って
表具師に切り落とさせて、絵の部分だけを表装させたそうです。
これは近代科学による合理的思考の現れに他なりません。
一見その絵の白紙の部分は「不明」「不用」であるかも知れない。
しかし、それはあくまで感覚面から見た表むきの「不明」「不用」にすぎません。
ところが「自然の魂」と「人間の魂」との交流の立場から考えると、
その余白のところにこそ、なお如実にその実体が表現されています。
下の余白の空間には霧がかかっていて見えない谷川の生命が表現され、
上の余白の空間には無限の彼方の山の連なりが表現されています。
今の日本では、核家族化が浸透してきていますので、
床の間や仏壇の間さえ・・、それ以前に、
今の新築住宅には畳の部屋も少なくなっている現状では、
若い人は山水の掛け軸をイメージすることさえむつかしいかも知れません。。
そしてまた、
仏壇が無いということは、先祖供養に意識を向けることも
たいへんむつかしくなっていると思います。。。
近代の合理的思考は、日本人の大和民族としての精神性を
そぎ落とす方向に働いたといえるのではないでしょうか。。