麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第609回)

2018-05-20 21:48:03 | Weblog
5月20日

一週間前、「悪霊」を読み終わりました。やっぱり、長編の中では一番好きです。最高傑作だと思います。今回は、ニコライより、スチェパン(ステパン)氏の存在が、老いのせいで、いままでよりもさらに心にしみました。レンブケ県知事夫人主宰のパーティでの演説場面を読んでいて、涙が出てきました。その感動的な主張は作者の考えを代弁したものに違いありません。と、作者はすぐにその物語の中の聴衆に紛れ込み、今度は、演者のギャンブル好きをヤジって、「おまえにそんな立派なことをいう権利があるのか」と攻撃し、彼の滑稽さ(作者自身の滑稽さ)をあぶりだす。涙は泣き笑いになって、やがて笑いだけになり、読者である私の気分は、この物語のベース音であるあいまいなセブンスコードに戻る。

そうやって、作者はあくまでステパン・ヴェルホーベンスキーを狂言回しとして描くのですが、今回はその描写の端々に、作者の愛情を(以前以上に)強く感じました。とくに、ツルゲーネフをモデルにしたといわれる文豪カルマジーノフとのやりとりの場面など。国民的作家であるカルマジーノフに対して、ステパン氏はまったく無名の存在なのですが、二人の会話を読んでいると(ドストエフスキーがツルゲーネフを吐くほど嫌いだという理由はあるとしても)、ステパン氏の洞察力が文豪に比べてはるかにまさっていることがわかるように書かれている。また、ほかの場面でも、町の誰もが把握できないでいるニコライの実像やその周りの若者たちの正体を、彼が直観的に深く理解していることがわかるように書かれている。つまり、よく読むと、この何者でもない老人が、登場人物の中で最も聡明である(かもしれない)ことがわかるように描かれている――それが、今回とても驚きでした。彼の滑稽な役回りも、実は、その聡明さを隠す煙幕なのかもしれないと思いました。また、それほど聡明な人間が、何者にもなれないまま死んでいくのは、「賢い人間が何者かになることなどできるわけがない」という「地下室の手記」の主人公の主張そのままなのかもしれないと思いました。

なんのことはない。何者でもない私自身の自己弁護を新たに見つけただけのことだと思います。

もちろん、それらの登場人物を自在に操ったドストエフスキーは、何者でもない人とは対極の存在であることもよくわかっています。
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