麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第19回)

2006-06-10 22:51:05 | Weblog
6月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。


東京では、お昼ころは、夏のにおいがしましたね。

いまから9年前の夏、私は約10年間勤めていた会社を辞めました。
自分の担当していた雑誌が廃刊になったからです。社長は、以前担当していた雑誌に戻ってやらないか、と言ってくれましたが、断って辞めました。その会社では、後半5年間は正社員だったので、退職金と失業保険が出ました。それで、私は、しばらくなまけることにしました。
 1997年。あの、学校を卒業して以来10何年ぶりにやってきた夏休み。
 一人暮らしに戻ってちょうど1年。家では誰に気兼ねすることもなく、外ではもちろん誰にも会わなくていい。まさに私にとっては天国のような生活。
 なまけ始めると、あっという間に、社会人としての10数年は溶けて便器に流れ去り、表面の傷んだ「私」という着ぐるみの中にいるのは、ほとんど学生のころと変わらない自分という感じになってしまいました。37歳。まだ、若かったんだな、と思います。
そうして、ちょうどその休みの間に、私は小説『風景をまきとる人』の草稿を書き始め、1985年の出来事について調べ始めました。それは本当に、夏休みの自由課題を進めるような感じでゆっくり進んでいったのです。(いまでも手元にありますが、その草稿の最初の一行は「僕たちは彼を、いつも『センセー』と呼んでいた。」というのです。進行中の仮タイトルもずばり「こころ」でした)。

 さて、いつも言い忘れていますが、長編小説『風景をまきとる人』は、書籍で読んでいただくほうが、読みやすいと思います。このブログに掲載しているのは、原文といってもいいもので、本のほうでは、出版社の編集さんが、表記の統一や、校正をものすごくていねいにやってくださったからです。
 よかったら、ぜひ本でも読んでみてもらいたいです。あらためてよろしくお願いします。

 今週の短編は、「頭」(前編)です。

では、また来週。

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頭 (短編18・前編)

2006-06-10 22:31:46 | Weblog

「どこかこのへんに床屋があったはずだが」
 と考えながら、夏の午後、僕は坂の下の町を歩いていった。
 このあたりには、昔からの小さな家が多い。木造の古めかしい家々が軒を連ね、家と家の間には、野良猫がうろつくのにふさわしい、暗い細い路地がある。
 小さなパン屋とそば屋の間のそういう路地の奥に、例の、青赤白の理髪店の看板が見えた。
「理容ナカモト」
 看板にはそう書いてある。
 僕が探していたのはその店ではなかった。こんなところに理髪店があるとは知らなかった。けれども、べつにかまわない。
 僕は路地に入っていった。
 少しだけ冷たい風が吹いてきて気持ちがよかった。
 店の前まで来ると、僕はちょっとの間立ち止まり、明るすぎる空を見上げた。
 まぶしい光のせいで、すぐに目を元に戻さなければならなかった。が、再び視線が路地の上に戻ったとき、僕はふと、自分がさっきとは違う場所にいるような気がした。
 目に見える風景はまったく同じなのだが、路地全体の雰囲気が、なんとなく、さっきと違っているように思えたのだ。
 それに、いま、ほんの数秒前に見た雲ひとつない青い空が、なぜかとても古い記憶の中の風景のような気がして、なつかしいような感じがするのも不思議だった。
「こんなときがあるものだ」
 と、僕は思った。
 初めて通った道なのに、以前たしかに通ったことがあると感じたり、ある場所であることを初めてしたときに、これまで何度となく自分がその同じ場所で同じことをしたことがあるような気がしたりすることが。
 それにはなにか理由があるのだろうが、僕にはわからない。

 横開きのガラス戸を開け、中に入った。
 小さな店だった。
 奥の仕事場では、ここの主人らしい五十歳くらいの男が、ひとりの客の髪をカットしている最中だった。
 クーラーがよく効いて涼しかった。理髪店独特の、シャンプーや整髪料のにおいが快かった。
 すぐには気がつかなかったが、入って左にある客用の長椅子には、ひとりの男が腰かけて順番を待っていた。
 主人と同じくらいの年齢だろうか。頭はもう、ごま塩になっている。
 男は、黒のビニール張りの椅子に深く体を埋めてタバコを吸っている。
 僕はその男の隣に座った。
「四十分くらいかかるかな。もっとかな」
 と、考えた。
 雑誌でも読もうと思って探したが、そういうものがない。新聞すらないのだ。
「ヘンな店だな」
 と思ったが、ないものはしかたがない。
 なんとなくあいまいな気分のまま、僕は壁に背中をもたせかけて目を閉じ、少し眠ろうとしてみた。
 けれども冷たい空気のせいで、頭はさえてくる一方だった。僕は姿勢をくずさずに目を少しだけ開け、隣の男を見た。
 作業服のようなものを着ているが、なにをやっている人なのかはよくわからない。小さな印刷会社の経営者、といったところが一番似合うような感じだ。
 タバコの灰を灰皿に落とすときの動作で気づいたのだが、男は右腕の肘から上が自由に動かせないようだった。さらによく見ると、右手の指が、親指を除いてすべてくっついている。指と指の境あたりには、薄い膜が張っているのだ。
「野口英世」
 と、すぐに、小学生のころ「どうとく」の授業で習ったことを思い出した。
「火傷かなにかだろうか」
 僕は考えた。それ以上見ているのは悪いような気がしてやめた。
 店の中は静かだった。
 シャツにしみこんだ汗が冷えて、胸板がひんやりした。
 ハサミの音が規則的に響いていた。
 僕はタバコを吸い始めた。すると、隣の男が、それまで自分の手元に置いていたガラス製の灰皿を僕のほうに押してよこした。
「どうも」
 と、僕は言って、頭を下げた。相手も同じように頭を下げた。
 煙を吸い込むと、薄荷タバコのような味がした。

 やがて、僕は短くなったタバコを消した。
 主人はいま、客の頭を洗っている。
「この客がすんで、そのあと隣のごま塩頭、それから僕か……。やっぱり四十分くらいだな、ちょうど」
 と、僕はまた考えた。
 仕事場の奥のドアが開いて、初老のやせた女の人が出てきた。ここの奥さんらしい。仕事場を通り抜け、奥さんは入り口のほうへやってきた。
「どうぞ」
 僕に言ったのだろうか。僕は、隣の男をちょっと見て、それから奥さんのほうへ向きなおした。
「いいんですよ。その人は」
 奥さんは微笑んで言った。やさしそうな人だとは思うが、どことなく、爬虫類を思わせるような表情だ。
「そうか。この人はいいのか」
 と、僕は奥さんの言葉をオウム返しに心の中でつぶやいて立ち上がった。
 ごま塩頭の男は、きっと主人の知人なのだろう、と僕は考えた。世間話でもしに来たのだろう。こういう小さな町ではよくあることだ。
 以前、坂の上の理髪店で、主人とその知人の男がテレビの競馬放送を見始めたために、髭をそっている途中で十分くらい放っておかれたことがある。僕はシェービングクリームを顔の片側につけたまま首を持ち上げて、ぼんやり競馬放送を見ていた。

 仕事中の主人の脇を通り、僕は空いている理髪用の椅子に腰かけた。
 座り心地はまあまあだった。正面の大きな鏡に、髪の毛のかさばった自分の姿が映っている。
 奥さんが、理髪店ではおきまりの、青と白の縞模様の布を持ってきた。大きなよだれかけのようなその布を、奥さんは目の前でゆっくり広げ、僕の体を覆った。
 布は洗いたてのシーツのようないいにおいがした。僕は目を閉じた。
 奥さんが後ろに回り、首のところで布を止めようとするのがわかった。
 と、つぎの瞬間、僕は、いきなり後頭部を殴られたような衝撃を受け、目を見開いた。頭の中で、ブーンと低い音が鳴り、視界が暗くなった。
 それが、奥さんが布を恐ろしい力で絞りあげたからだと気づくのに数秒かかった。
 驚きのあとで、今度は苦痛が僕を襲った。
 布で直接首の骨をこすられたような激痛が走り、軋むような鈍い音がした。僕はうめき声をあげた。
「ちょっと、きつかったかしら」
 奥さんの声が、がんがん響く。それにしても、このやせた女の華奢な腕のどこに、こんな力が潜んでいたのだろう。
 布は生き物のように僕の首を締めつけている。それは、「ちょっときつい」などという程度ではなかった。が、僕はなぜか平静さを保とうとして、
「え、ええ、少し」
 と言った。声が震えた。自分の声だとは思えなかった。
「ごめんなさいね」
 奥さんはそう言って、僕の首に巻きついた布にもう一度手をかけようとした。僕は苦痛のうちにも、ほっとした気持ちになった。
 そのときだった。さっきから、隣で客の頭を洗っていた主人が、突然、大声をあげた。
「やめろ」
 僕は思わず身震いした。気の遠くなりそうな緊張感が、僕の体を貫いた。これまでうすくぼんやりと感じられていたその姿が、急に鮮やかな色つきになって現れたという気がした。
「やめろ」
 主人は低い声で繰り返した。
「だって、あなた」
 奥さんはそう言ったが、その声は、なにか、抗議をしても仕方がないというような弱々しいものだった。それほど主人の声は圧倒的だった。
「きついのは、その人の首が太いせいだろう」
 主人は、冷静に事実を述べているだけ、といったような感情のこもらない口調で言った。
僕は薄目を開けて鏡を見た。暗くぼうっとした視界の中に、ゆがんだ僕の顔が見えた。首がいまにもちぎれそうなほど細くなっている。
――首が太いからだって?
 僕はのどをヒューヒュー鳴らしながら考えた。
 僕の首はそんなに太くはないはずだ。肥満体でもないし、いままで誰にもそんなことを指摘されたことはない。それに、もし僕の首が太いとしても、それがなんだというのだ。首が太いということがなぜ、こんなところで拷問を受ける理由になるのだろう。
「へへへへへ」
 どこからか、そういう笑い声が聞こえた。
 それは、洗面台の上に顔を伏せて、主人に髪を洗ってもらっている隣の客の笑い声だった。陶製の洗面台に反響して、こもってはいるが大きな声で男は笑い続けている。
「お、お願いします。これを少し緩めてください」
 卑屈ともいえる言葉遣いで、僕は主人に懇願した。そう言った僕の声は、死にかけた怪鳥の鳴き声のようだった。
 しかし、主人も客も、なんの反応も示さない。主人は忙しくて仕方がないというような顔で客の頭を洗い、客のほうもされるがままになっている。僕は、まるで場違いな冗談を言って座を白けさせた人間のように無視された。「わずらわしいから、もういうな」。僕はふたりが無言のうちにそう言っているような気がした。
 僕は「奥さんなら……」と考えて、必死でその姿を探した。が、さっきまで鏡の中に見えていたのに、いまはどこに行ったのか、姿が消えてしまっている。
 主人にも、隣にいる客にも、そしておそらく奥さんにも、初めから僕を助けようという気持ちなどぜんぜんないのだ。ようやく、それがわかってきた。
 僕が彼らになんの理由で苦しめられているのか、自分がこんな目にあわせられるような、どんな悪いことを彼らにしたのか、まるでわからなかったが、そんなことは考えても意味のないことだった。いまの僕にあるのは、ひとつの事実、理髪店で絞首刑に処せられているという事実だけだった。
 僕の頭は、だんだんぼんやりとしてきた。意識が遠のいていくのが自分でもわかった。目をいっぱいに見開いても、もうなにも見えなかった。耳鳴りがやんで、頭の中がしんとした。
「このまま死んでゆくんだな」
 と思った。
「もうどうしようもないんだな」
 そう思うと、いままで必死で抵抗してきたことが、ひどく馬鹿馬鹿しい、無駄なことだったように感じられた。
 全身から力が抜けていく。
 薄れていく意識の中に、昔好きだったある女の顔が浮かんで見えた。
 気を失う寸前、それは、奥さんの、爬虫類のような笑顔にすりかわっていた。
                             (後編に続く)
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