母の愛を知らずに育った “ 善き天使 ”
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 ギーゼラ・フォン・エスターライヒ
ドイツ・オーストリア=ハンガリー軍元帥レオポルト夫人
1856~1932
弱腰のフランツ1世の後に即位した、さらに弱々しいフェルディナント1世と
皇后マリア・アンナにはお子様がいませんでした。
フェルディナント1世を継いだのが “ ハプスブルク家最後の輝き ” フランツ・ヨーゼフ1世、
そして皇后はあの、 “ シシィ ” エリーザベトです。
二人には4人のお子様が生まれました。
皇女は3人で、長女ゾフィーは一家でハンガリーへの旅行中、3歳で亡くなりました。
ギーゼラはフランツ・ヨーゼフ1世とシシィの次女になります。
シシィがゾフィーを生んだ時、フランツ・ヨーゼフ1世の母后ゾフィーは
さっさと子供を取り上げて自分で育てることにしました。
同じように次女のギーゼラも長男のルドルフもゾフィーに育てられました。
皇太子ルドルフはマイヤーリンク事件で有名ですね。
フランツ・ヨーゼフ1世は子煩悩だったようで、子供たちが使っていたものを
保管しておいたり、クリスマスに詩を贈ったりしていたようです。
エリーザベトはウィーンを嫌って始終留守にしていましたので
どちらかといえば父親の愛情を多く感じていたかもしれません。
1873年に、バイエルン王 “ 美女大好き” ルートヴィヒ1世の孫にあたる
レオポルトと結婚しました。
ハプスブルク家の年長の娘なのに、王様クラスと結婚していないのよ、どう思う?
フランツ・ヨーゼフ1世がレオポルトの両親に宛てた手紙によると
カトリックの王子が少ない中で、レオポルトだけが信頼に足る…ということでした。
ですので、バイエルンサイドでは大喜び! ギーゼラは大歓迎を受けます。
二人が暮らしていたレオポルト宮殿の向いの道路にはギーゼラの名前がつけられました。
ギーゼラは慈善活動に熱心で、いくつもの慈善団体に名を連ねていたということですけど
こういうエピソードは多いので割愛しますね。
第一次世界大戦中夫レオポルトが元帥として東部前線に出兵すると
宮殿を病院にして軍人を受け入れました。
1918年に革命が始まると王家は都市から避難しましたが、ギーゼラは留まって
初めて20歳以上の女性が投票したワイマール国民議会に一役かいました。
また、チロル=ザルツブルク間を結ぶ鉄道や支援者にも名を連ねています。
お母様と違って、市民生活にアクティブに関わってらっしゃったんですね。
ここらへんは政治好きな祖母ゾフィーによる教育によるものでしょうか?
おかげでワイマールでは “ ウィーンからやって来た天使 ” と呼ばれました。
旦那様との仲も良かったようで、1923年には金婚式を迎えました。
その7年後にレオポルトが亡くなり、さらに2年後にギーゼラが亡くなりました。
夫婦並んでミュンヘンの聖ミヒャエル教会に葬られています。
お子様は四人生まれ(家系図省きましたが)次女アウグステと長男ゲオルクか
ハプスブルク家の皇子・皇女と結婚しています。
弟の皇太子ルドルフについては、幼い頃に母の愛を知らずに育ったことや
祖母&父と母の教育方針の違いなどが、後年自殺事件をおこす要因のひとつとも
言われていますが、ギーゼラにはあまり影響がなかったんでしょうか?
やはり、女性の方が逆境に強かったり順応性があったりするのかしら?
そういえば、各王国の王侯貴族の娘は平気で海外に嫁がされちゃっていたんだものね。
それだけじゃなくて敵の国だったりしたわけですから、強くないとやっていけないかも…
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 ギーゼラ・フォン・エスターライヒ
ドイツ・オーストリア=ハンガリー軍元帥レオポルト夫人
1856~1932
弱腰のフランツ1世の後に即位した、さらに弱々しいフェルディナント1世と
皇后マリア・アンナにはお子様がいませんでした。
フェルディナント1世を継いだのが “ ハプスブルク家最後の輝き ” フランツ・ヨーゼフ1世、
そして皇后はあの、 “ シシィ ” エリーザベトです。
二人には4人のお子様が生まれました。
皇女は3人で、長女ゾフィーは一家でハンガリーへの旅行中、3歳で亡くなりました。
ギーゼラはフランツ・ヨーゼフ1世とシシィの次女になります。
シシィがゾフィーを生んだ時、フランツ・ヨーゼフ1世の母后ゾフィーは
さっさと子供を取り上げて自分で育てることにしました。
同じように次女のギーゼラも長男のルドルフもゾフィーに育てられました。
皇太子ルドルフはマイヤーリンク事件で有名ですね。
フランツ・ヨーゼフ1世は子煩悩だったようで、子供たちが使っていたものを
保管しておいたり、クリスマスに詩を贈ったりしていたようです。
エリーザベトはウィーンを嫌って始終留守にしていましたので
どちらかといえば父親の愛情を多く感じていたかもしれません。
1873年に、バイエルン王 “ 美女大好き” ルートヴィヒ1世の孫にあたる
レオポルトと結婚しました。
ハプスブルク家の年長の娘なのに、王様クラスと結婚していないのよ、どう思う?
フランツ・ヨーゼフ1世がレオポルトの両親に宛てた手紙によると
カトリックの王子が少ない中で、レオポルトだけが信頼に足る…ということでした。
ですので、バイエルンサイドでは大喜び! ギーゼラは大歓迎を受けます。
二人が暮らしていたレオポルト宮殿の向いの道路にはギーゼラの名前がつけられました。
ギーゼラは慈善活動に熱心で、いくつもの慈善団体に名を連ねていたということですけど
こういうエピソードは多いので割愛しますね。
第一次世界大戦中夫レオポルトが元帥として東部前線に出兵すると
宮殿を病院にして軍人を受け入れました。
1918年に革命が始まると王家は都市から避難しましたが、ギーゼラは留まって
初めて20歳以上の女性が投票したワイマール国民議会に一役かいました。
また、チロル=ザルツブルク間を結ぶ鉄道や支援者にも名を連ねています。
お母様と違って、市民生活にアクティブに関わってらっしゃったんですね。
ここらへんは政治好きな祖母ゾフィーによる教育によるものでしょうか?
おかげでワイマールでは “ ウィーンからやって来た天使 ” と呼ばれました。
旦那様との仲も良かったようで、1923年には金婚式を迎えました。
その7年後にレオポルトが亡くなり、さらに2年後にギーゼラが亡くなりました。
夫婦並んでミュンヘンの聖ミヒャエル教会に葬られています。
お子様は四人生まれ(家系図省きましたが)次女アウグステと長男ゲオルクか
ハプスブルク家の皇子・皇女と結婚しています。
弟の皇太子ルドルフについては、幼い頃に母の愛を知らずに育ったことや
祖母&父と母の教育方針の違いなどが、後年自殺事件をおこす要因のひとつとも
言われていますが、ギーゼラにはあまり影響がなかったんでしょうか?
やはり、女性の方が逆境に強かったり順応性があったりするのかしら?
そういえば、各王国の王侯貴族の娘は平気で海外に嫁がされちゃっていたんだものね。
それだけじゃなくて敵の国だったりしたわけですから、強くないとやっていけないかも…
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
はじめまして、コメントありがとうございます。
ギーゼラもマリア・ヴァレリアもシシィに似なくて残念なところはありますが、おかげで父親が誰だか疑われなかったのは幸いでしたよね
ロシアの二大家系、リューリク家・ロマノフ家は(読み方など含め)難しい家系図でなかなか手がつけられずにいるのですが、いつの日か頑張って作ってみたいと思います。
私も歴史、王族が好きなので、楽しく拝見させていただきました♪
特にハプスブルクとロマノフが好きです。
ギーゼラは母の愛を知らなくて可哀想ですよね。当時の王族なら仕方ないかもしれないけど、彼女の場合妹は母に可愛がられていたので、尚更可哀想です。
しかし、シシィの子供たちは誰も母に似なくて(ルドルフは少し似てるかな)美人じゃないですよね…(^_^;)
マリーヴァレリーの長女は美人だなぁと思うのですが…。
また遊びに来ますね!