凡庸な王に尽くした王妃
フェルディナント3世皇女 エレオノーレ・マリア・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ミハウ・コリブト妃/ロートリンゲン公カール5世妃
1653~1697/在位 1670~1673
フェルディナント3世は3度結婚していて、一人目の王妃マリア・アンナには
神聖ローマ皇帝レオポルト1世を含む6人が生まれました。
皇女は2人ですが、次女マリアは生まれてすぐ亡くなっています。
長女マリア・アンナはスペイン王フェリペ4世妃になりました。
二人目の王妃マリア・レオポルディーネには皇子が一人。
三人目のエレオノーラ・ゴンザーガには一男三女が生まれました。
三女マリア・ヨーゼファは1歳で亡くなりました。
エレオノーレ・マリアは四女になります。
家系図がさっぱりしていますが
本当はロートリンゲン公家とゴンザーガ家も入り乱れております。
17歳の時、ポーランド王ミハウ・コリブトと結婚しました。
翌年とその翌年王子を流産してしまい、ミハウの敵に偽装妊娠だという噂を流されます。
なんの取り柄も無い一瞬芸の王でしたが、エレオノーレは夫に忠実でした。
ポーランド語も学んでミハウの視察旅行に同行しました。
1673年、ミハウは亡くなりますが、エレオノーレはその後2年間ポーランドに留まりました。
1678年、ロートリンゲン公カール5世と再婚します。
子供は6人生まれ、生涯インスブルックで暮らしました。
善良で優しさの見本みたいな人だったそうです。
嫁ぐ相手が違ったら、もっといいエピソードが残っていたかもしれないのに…
でもいい人の話しってあまり残っていないのよね…悪女にくらべて。
後妻と対照的なエピソードの無さ・・・
フェルディナント3世皇女 マリア・アンナ・ヨーゼファ
フォン・エスターライヒ
プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム妃
1654~1689
マリア・アンナはフェルディナント3世の五女になります。
母はエレオノーラ・ゴンザーガです。
24歳の時、プファルツ選帝侯子ヨハン・ヴィルヘルムと結婚しました。
マリア・アンナの兄レオポルト1世は、ヨハン・ヴィルヘルムの姉
エレオノーレ・マグダレーナを妃に迎えていました。
二人の王子を生みましたが、二人とも幼い頃に亡くなっています。
結婚から10年後に結核で亡くなりました。
ヨハン・ヴィルヘルムは翌年選帝侯になっているので、後1年長生きしたら
選帝侯妃の称号が与えられたんですけどね…
ヨハン・ヴィルヘルムは1691年にコジモ3世とマルゲリータ・ドルレアンスの王女
アンナ・マリーアと再婚しています。
彼女にはい~っぱいエピソードがあります。
アンナ・マリーアについてはまたの機会に…
(参考文献 Wikipedia英語版)
フェルディナント3世皇女 エレオノーレ・マリア・フォン・エスターライヒ
ポーランド王ミハウ・コリブト妃/ロートリンゲン公カール5世妃
1653~1697/在位 1670~1673
フェルディナント3世は3度結婚していて、一人目の王妃マリア・アンナには
神聖ローマ皇帝レオポルト1世を含む6人が生まれました。
皇女は2人ですが、次女マリアは生まれてすぐ亡くなっています。
長女マリア・アンナはスペイン王フェリペ4世妃になりました。
二人目の王妃マリア・レオポルディーネには皇子が一人。
三人目のエレオノーラ・ゴンザーガには一男三女が生まれました。
三女マリア・ヨーゼファは1歳で亡くなりました。
エレオノーレ・マリアは四女になります。
家系図がさっぱりしていますが
本当はロートリンゲン公家とゴンザーガ家も入り乱れております。
17歳の時、ポーランド王ミハウ・コリブトと結婚しました。
翌年とその翌年王子を流産してしまい、ミハウの敵に偽装妊娠だという噂を流されます。
なんの取り柄も無い一瞬芸の王でしたが、エレオノーレは夫に忠実でした。
ポーランド語も学んでミハウの視察旅行に同行しました。
1673年、ミハウは亡くなりますが、エレオノーレはその後2年間ポーランドに留まりました。
1678年、ロートリンゲン公カール5世と再婚します。
子供は6人生まれ、生涯インスブルックで暮らしました。
善良で優しさの見本みたいな人だったそうです。
嫁ぐ相手が違ったら、もっといいエピソードが残っていたかもしれないのに…
でもいい人の話しってあまり残っていないのよね…悪女にくらべて。
後妻と対照的なエピソードの無さ・・・
フェルディナント3世皇女 マリア・アンナ・ヨーゼファ
フォン・エスターライヒ
プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム妃
1654~1689
マリア・アンナはフェルディナント3世の五女になります。
母はエレオノーラ・ゴンザーガです。
24歳の時、プファルツ選帝侯子ヨハン・ヴィルヘルムと結婚しました。
マリア・アンナの兄レオポルト1世は、ヨハン・ヴィルヘルムの姉
エレオノーレ・マグダレーナを妃に迎えていました。
二人の王子を生みましたが、二人とも幼い頃に亡くなっています。
結婚から10年後に結核で亡くなりました。
ヨハン・ヴィルヘルムは翌年選帝侯になっているので、後1年長生きしたら
選帝侯妃の称号が与えられたんですけどね…
ヨハン・ヴィルヘルムは1691年にコジモ3世とマルゲリータ・ドルレアンスの王女
アンナ・マリーアと再婚しています。
彼女にはい~っぱいエピソードがあります。
アンナ・マリーアについてはまたの機会に…
(参考文献 Wikipedia英語版)
こんばんわ。
コメントありがとうございます。
私はマルグリート・ドルレアンを悪女候補の筆頭に挙げようと思うほどですが、日本ではあまり知られていないですね。
シャルル・ド・ロレーヌも嫁ぎ先まで押しかけて…罪作りよのう…
本当に愛し合っていたのなら結ばれるのが一番幸せだったでしょうね。
しかし結婚後のマルグレートの行動から考えると、新婚当時は幸せだとして、その後はどうだったか…
初恋は実らないほど美しい思い出になるのかも…
マリア・アンナの夫は、後にアンナ・マリーアと再婚していますが、彼女の母親マルゲリータ・ドルレアンスはエレオノーレ・マリアの夫カール5世といとこ同士で、元恋人ではないでしょうか?
歴史にもし、はありえないけれど、マルゲリータとカールが結婚していたらどうなっていたのだろう、と考えてしまいます。
コメントありがとうございます。
そうなんですよね。
当時のヨーロッパ王室の縁談は、新郎と新婦がどこかで誰かと繋がってる…というわけで、その繋がりを探すのが楽しくなってきます。
一人目の夫が長生きしてたら再婚もなかったわけで、そうするとその後の勢力図にも違いが生まれていたかもしれないですね。
エリア55さま
こんばんわ
どういたしまして! キレイなブログですよね。
さすがイタリア在住!って感じで羨ましくなります。
まわりが世界遺産だらけなんですもの。
これからちょくちょく覗いてみます^^