まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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ポーランド王ボレスワフ1世妃 ユディタ

2012-11-23 23:02:14 | ポーランド王妃
推測ずくしの王妃
ボレスワフ1世妃 ユディタ・ヴェギレリスカ


969~1030/在位せず

ポーランド公からポーランド王になったボレスワフ1世には4人の妃がいます。
一人目の妃はマイセン辺境伯リクダックの娘ハウニルダ(?)ですが離婚しています。

ユディタは二人目の妃で、985年にまだ公子だったボレスワフと結婚しました。
ハンガリー大公ゲーザとシャルロトの大公女、ということですが
近年では「誰の子かわからんが、とりあえずハンガリーの貴族の娘だったのでは?」 と
唱える学者もいるそうです。

       
この結婚は、 “ たぶん ” ボレスワフ1世の母方の伯父ボヘミア公ボレスラフ2世が
ネゴシエイトしたと言われています。
さてはボレスラフ2世が存在力を示すために、どっかの娘さんを大公女と偽って
嫁がせましたかね?
昔ならバレなかったかも… いや、さすがにバレるか?

二人の間には986年頃にベズプリムという王子が生まれていますが
ユディタは987年に離婚されています。 さてはバレた?
これは “ たぶん ” ポーランドとハンガリーの関係が悪化したからだと言われています。
結婚生活が長ければ、国同士が争っても別れずにいたのかもしれませんが
3年弱じゃね… まだ信頼関係が築かれていなかったのでしょうね。

ボレスワフ1世はすぐにエムニルダ・スウォヴィアンスカと再婚しました。
うって変わって妻を熱愛したボレスワフは、ユディタが生んだ長男ベズプリムに冷たく
継承権もエムニルダが生んだ次男ミェシュコ(2世)に与えてしまいました。
しかもペズプリムは16歳になるとイタリアに送られ、修道士にされてしまいました。
ひどいわね! 母親はどうであれ息子じゃないのさ!!

ユディタはハンガリーには戻らず “ たぶん ” ポーランド内に留まっていて
離婚後しばらくして亡くなったとされています。
なんどけど、1030年頃亡くなった説もあるんですよねぇ…

1031年にはペズプリムがミェシュコ2世を倒して(一瞬)王になっているので
その時まで生きていられれば辛い人生を華やかに終えられたのに…

1000年以上昔の話なのではっきりしないことが多いのもしかたないけど
たぶん、たぶん、って、両親も生没年も定かでないとは
王様の奥方にしては曖昧なことが多いですよね。

王の愛情が少ないお妃は記録も少ないということだろうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
U-KISSは今までちゃんと聞いたことが無かったんだけど、同じ職場のSさんが貸してくれた
ミニアルバム Stop Girl があまりにも良くて、以前の歌を探しまくって聞いている今日このごろです。
コメント (4)
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