まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ

2011-05-30 00:48:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
嫁ぎ先で張り切りすぎた皇女
フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ
ナポリ=シチリア王フェルディナンド4世妃


1752~1814/在位 (ナポリ王妃)1768~1806 (シチリア王妃)1768~1812

マリア・カロリーナは、フランツ1世とマリア・テレジアの十女です。
妹のマリー・アントワネットと一番仲が良くて
どちらかが病気になるともう一方が寝込む…というほどでした。
しかし、二人揃ってお行儀が悪かったみたい…

         
1767年、ナポリ王フェルディナンド4世と婚約していた姉のマリア・ヨーゼファ
天然痘で急死しました。
フェルディナンドの父スペイン王カルロス3世は、同盟維持のため代わりを要求してきます。
マリア・アマーリアはフェルディナンドより年上だったので
マリア・カロリーナが選ばれました。

マリア・カロリーナはナポリへ嫁ぐのを泣いて嫌がりました。
しかしマリア・テレジアが聞くかいな!  1768年、お嫁に出されてしまいます。

初めてフェルディナンドに会ったマリア・カロリーナは「醜い…」と思ったとか。
手紙にも “ 絶対彼を愛せないと思う ” と書いています。
一方フェルディナンドもマリア・カロリーナのことは気に入らなかったようです。
でもさすがに皇帝の娘と王の息子だけあって、世継ぎづくりは怠りませんでした。

嫌々嫁がされてきたものの姉のマリア・アマーリアとは違い
マリア・カロリーナは母マリア・テレジアの指示を聞いていたみたいです。
まずは、夫フェルディナンドの興味を狩猟に向けさせ、国政を掌握しようとしました。
王子が生まれてからはさらに権力を強くしようとしました。

この後、マリア・カロリーナの座を脅かす政治家ベルナルド・タヌッチの起用をめぐって
義父カルロス3世と一悶着をおこしたりするんですが省きますね。
姉マリア・アマーリアと同じようなことしますね…
カルロス3世は「あの姉妹、やめときゃよかった 」と思ったことでしょう。

結局タヌッチがいなくなった宮廷は、マリア・カロリーナと寵臣アクトン男爵が
二人で仕切っていたようなものでした。
またスペイン貴族が退去させられ、新オーストリア派の貴族に一新されました。
兄ヨーゼフ2世のアドバイスでナポリ海軍の強化にも乗り出しました。

アメリカと同盟を結んでイギリスに宣戦布告したスペインのカルロス3世とは
アクトン男爵(イギリス人)の処遇をめぐって、またまた悶着をおこしましたが
これも釈明の手紙などで切り抜けました。

マリア・カロリーナとアクトン男爵は恋人同士だと噂されていて
夫のフェルディナンド4世の耳にも入っていました。
フェルディナンドは二人を不意打ちしてやろうと狙っていてスパイもつけました。
「殺してやる~!」と脅したりもしたそうです。

夫婦の和解が成って、カステッランマーレに移ったアクトン男爵でしたが
週3回はマリア・カロリーナと会うためにナポリを訪れていたらしい…ミエミエね。

マリア・カロリーナの政治的な動きについては長~くなるからはしょってきますが
まずは悪化していたローマ教皇との関係改善をすすめたこと、
子供たちの結婚については、夫を無視して母親ゆずりの政略結婚をすすめたこと、
フランス革命後、啓蒙君主主義を捨て反動(保守)の道を選んだこと…などなどです。

また、ナポリを12の地域に分割して長官たちに取り締まらせることにしました。
これは地域への分権ではなくて監視の強化のためで、秘密警察とスパイが増加しました。

スパイたちから自分の不人気ぶりを知ったマリア・カロリーナは革命などを恐れて
イギリスと軍事同盟を結ぼうと考えました。
ジョージ3世王妃シャーロット・オブ・メクレンブルクに面会を願い出て
断られたマリア・カロリーナは、身を落として大使夫人エマ・ハミルトンに会っています。
(この女性もけっこうスキャンダラスな人なんですけど、それはまた別の機会に…)

いいこともしてますよ。
ナポリの食糧危機の際には姉マリア・アンナとともに私財を投じて穀物を買い入れました。

細かいことははしょりますが、マリー・アントワネットの投獄後
マリア・カロリーナは怒り心頭でフランスとの関係を一切絶とうとし
フランス語を「野蛮人の言葉だ」と言って一切しゃべろうとしませんでした。

その後スペインによる領土譲渡があったり、対フランス戦への参戦などがありましたが
結局1806年に夫フェルディナンドは廃位されて、ナポリ王の座は
ナポレオンの兄ジョゼフ(ジョゼッぺ)にもっていかれてしまいました。

シチリア王座は1812年に廃位され、息子のフランチェスコが摂政に就きました。
これはフェルディナンドというより、マリア・カロリーナの力を削ぐためでした。

マリア・カロリーナはオーストリア追放の翌年、1814年に亡くなりました。

フェルディナンドはなんと! マリア・カロリーナの死から2ヶ月後に
ルチア・ミリアッチョという女性と再婚しています。
1816年、フェルディナンドは、シチリアとナポリを併合し両シチリア王に即位しましたが
ルチアとの結婚は貴賤結婚とされたため、ルチアには王妃の称号はありません。

とにかく政治への関心が高くて精力的な女性だったようですね。
こんな激動の時代ではなくて、100年ぐらい早く生まれていたら名君と言われていたかも…
マリー・アントワネットと足して2で割ればいい感じだったんじゃないでしょうか。

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wkipedia英語版)
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする