marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(350回目)哲学者 シモーヌ・ヴェーユ のこと Ⅱ

2017-05-21 08:26:58 | 思想・哲学
 僕がシモーヌ・ヴェーユのことを書こうとした訳。彼女の書いた『工場日記』という著作がある。どうして身体も弱かったのに、身体をいじめて、当時のとてもひどい労働条件の中に入り込んでその体験をしたかを知りたく、僕が無論内容職種は異なるけれど工場勤めになったとき手にしたのが、彼女のその『工場日記』だったのだ。今では、もの作りのシステムは当時とは雲泥の差である。しかも、今はより労働が、ルターが書いているような労働感をより合理的に(これは我田引水な解釈であるが)仕組みとして、その歴史の中の戦いにおいて労使関係や工場内の仕組みについてより周知され歴史的戦いから目的を達成されるようになって改善されてきたと言えるだろう。しかし、その目標は最終は今も変わらず「儲け」であるから、ユダが潜んでいることを忘れるなということになろうか。
◆今、またここに来て僕は、諸々のいきさつから最後のご奉公として入社時の業務で類似職場につくことになったので、彼女の事を思い出したのだ。それに5月メーデーから憲法記念日、そして人権についてのことに少し考えが及ぶと、その歴史のなかに、アメリカへのピューリタンたちが革命を起こしたものとは、似ていてその質的意味合いが異なるフランス革命を思い出し、1900年でも(彼女は1909年生まれ、1943年没)カトリックの長女と言われたフランスという国に異色の哲学者シモーヌ・ヴェーユ(日本に彼女を最初に紹介したのは評論家の加藤周一氏だったと思う)のことを思い出し、彼女についての本を引っ張りだしたという訳だ。
◆あれは20年以上も前の事だったが、それも東京に長期派遣で体験教育労働のため行っていた時、下町の小さな個人経営の古本やで手に入れたのが「シモーヌ・ヴェーユ研究:村上吉男著(白馬書房)1980年9月1日初版」であった。いい値段でした。今ではフランス哲学古典と言えば、田辺保先生の諸々の本が読みやすいと思う。でもここは本の紹介ではないので・・・
◆僕は、何分プロテスタントなので、宗教的な組織体をあまり好まない。圧倒的な権威と機構に委ねてしまう事には抵抗するものだが、彼女のいた国においては、その列車に乗り込むには哲学者としては困難だったのだろうと思う。プロテスタントの歴史においては、そもそも思考する人間(神が自分の似姿に創造されたという)とは何か(無論、自分も含めて)ということを相対的に考えざるを得ない。そこから多くの学問が生まれてきたし発展してきたと僕は思っているのだが、その視点から見ると、どうして、列車に乗り込んでその中からものを言って欲しかったと思うし、今も多くのキリスト教に興味を持たれる方には、その事をお勧めする。プロテスタントは、乗り込んだら文句を言ってはいけないという権威的組織はないのです。キリストのみです。すべてのしがらみからさっぱり抜け出して本当にキリストのみなのです。文句があれば、それを彼に聞けば多くの教えがある(恵み)と信ずる者です。体験で理解される。
◆それでそういう視点から見ると「フランス国の革命「自由」の中に罪を見抜いた」(345回)ということが理解されてくるのではないだろうか。彼女は列車には載らず、立ち続けて、神を待ち望んでいたのだ。ここに僕は、自己を相対化できない特に女性特有のと言ったら怒られるが(肉的)気質というものを見てしまう。「神の元に安らうまでは人間の魂の平安はない」(アウグスティヌス)ではなく、自分の魂の空隙を人間の不幸で埋めないと私の安らぎはないのですと彼女は叫んでいたのである。
◆「〔・・・〕苦難と危険はわたしの精神状態からいってもどうしても欠かすことができないのです。・・・わたしはこの性質をかえることができません。〔・・・〕地球上に広がっている不幸がわたしにつきまとい、わたしを打ちのめし、わたしがその能力をまったく働かすことができないようにしてしまうのです。わたしがその能力を取り戻し、つきまとわれた状態から解放されていられるのは危険と苦しみを十分に与えられているときだけなのです。〔・・・・〕」彼女には危険と苦しみとがパンのように必要だったと。
◆イエスは尋ねている「あなたの隣人になったのは誰か」。「耐えず喜べ、耐えず祈れ、すべてのことに感謝しなさい」とパウロは手紙に書いた。僕らは、キリストの苦しみを知り、より以上に深く知ろうと日々、生活を通して体験しているのです。・・・ Ω 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿