連休が始まった。深夜3時前に目覚めてこれを書き始めた。「日常生活の冒険」という大江健三郎の小説があったなぁ・・・などと、そういえばこの長いこと、「文学」などという言葉を聞かなくなった。どうしたものだろう。僕も、巷での本は、これも商業ベースで騒がないと、本は売れなくなるし、いずれ芸能界でも同じで共通性の話題を文字のうえでも、探し何か話題性はと言えば、これもTOKIOの山口君がしでかしてしまったようにとても残念な、動物的雄としての基本肉体の欲求と理性のせめぎあい、私的と公共性の区別が付かなくなってしまった一瞬があったということだ。何故か、とても残念。さて、・・・
◆今のこの時代に、この肉体がドップリ浸かって疑わないそのことから日常の全てが始まって、いつでもその日常から脱出(エクソダス)の備えをしておきなさい(詰まるところ死の備えをしておけ)、と安穏とした日常から引き剥がされるような思いが、ふと湧いて来る時があって目覚める。
これは一種の不安でもあるが、僕にとってはその時点での老化していく、機械的には劣化していくと言えばいいが、ことその思考する肉体が、手っ取り早く言えば考える脳みその神経網の連結の、伝達物質(ex:ドーパミン)が激減しないように、維持するにはどうしたものか、とか、統合する僕の肉体の高齢化と共に起こる部分的弱点が露呈してくるに、そのことが光に向かうイメージと言ったらいいか、思考のイマジネーションを引き起こす言葉がもう湧いてこないのではないかとかなどを土台(基点)となる肉体を点検するところから始まる。そもそも僕には、そんなご優秀な?肉体などあったのか・・・ということも含めて。
◆1960年代、サルトルという実存主義とやらの哲学が流行りだしたころ、フランス文学やら映画には、ベットの中で目覚めるところから始まるシーンが多かったような気がする。ベットの起きがけに、眠りたいが起きようか、これから何をしようか、あれやこれやの思考の目覚めに、実はその肉体の目覚めに、今日の楽しい計画の思いなのか、あるいは、嫌な奴と会わねばならないストレスの前兆を感じるとか、つまり、肉体を動かしては、そこから起こる雑音をまずは差し置いての、目覚めてきた脳みそからの言葉の意識化、肉体とその狭間での点検ということを行うことから始まる小説と言ったらいいいか。お笑い芸人の「ひろしです」のあの美青年達が出てくる「ガラスの部屋」という映画にも、「ラスト・タンゴinパリ」の映画ポスターも(これは音楽だけで見てません)ベットのシーンが使われていたなぁ。詰まるところ、実存主義とかいう哲学は、自分の無様な肉体が、自分の一応与えられた思考というプライドを持って、その威信を維持していくことを心がけようと意志し、行動していく考えでもあると言えるかもしれない。(そして、これは誰にでも当てはまるものであるのだろう)
◆普段の僕にとっては、つまりこういうことだ、それは、一日一日、この抜け出せない与えられた肉体をもって、すでに若い峠を下ってきているこの肉体に於いて、それと闘いながら快適に生活できるかどうか、とうこと。 これが、「僕の日常生活の冒険」である。
自分の思考の言うことを聞かないこの肉体! 僕らがスポーツに敬服するのは、生き物に備わった他を排他する優位性、思う処の肉体とその目的をその行為をもって達成するところ・・・。連休、普段より時間があるし、身の回りのことで時間がないと出来ないことが細々あるから、すっきりさせていこう。
まず、基底の流れ、機能、目標、目的、手段、実施(生活)、効果、実績、維持、有効性、是正、計画、繰り返し続く。鳥と蟻の思考、そして記録・・・。そして、誰でもがこの地上においては限られた身体をもっていること、そのこと自体を考える人はいないけれど。肉体に隷属している人間。霊と肉、霊の法則について、人がものごとを理解するということは、どういうことなのかとか、そして僕の限られた時間・・・などなどの、キーワードをいつもながらに思いながら・・・
◆今のこの時代に、この肉体がドップリ浸かって疑わないそのことから日常の全てが始まって、いつでもその日常から脱出(エクソダス)の備えをしておきなさい(詰まるところ死の備えをしておけ)、と安穏とした日常から引き剥がされるような思いが、ふと湧いて来る時があって目覚める。
これは一種の不安でもあるが、僕にとってはその時点での老化していく、機械的には劣化していくと言えばいいが、ことその思考する肉体が、手っ取り早く言えば考える脳みその神経網の連結の、伝達物質(ex:ドーパミン)が激減しないように、維持するにはどうしたものか、とか、統合する僕の肉体の高齢化と共に起こる部分的弱点が露呈してくるに、そのことが光に向かうイメージと言ったらいいか、思考のイマジネーションを引き起こす言葉がもう湧いてこないのではないかとかなどを土台(基点)となる肉体を点検するところから始まる。そもそも僕には、そんなご優秀な?肉体などあったのか・・・ということも含めて。
◆1960年代、サルトルという実存主義とやらの哲学が流行りだしたころ、フランス文学やら映画には、ベットの中で目覚めるところから始まるシーンが多かったような気がする。ベットの起きがけに、眠りたいが起きようか、これから何をしようか、あれやこれやの思考の目覚めに、実はその肉体の目覚めに、今日の楽しい計画の思いなのか、あるいは、嫌な奴と会わねばならないストレスの前兆を感じるとか、つまり、肉体を動かしては、そこから起こる雑音をまずは差し置いての、目覚めてきた脳みそからの言葉の意識化、肉体とその狭間での点検ということを行うことから始まる小説と言ったらいいいか。お笑い芸人の「ひろしです」のあの美青年達が出てくる「ガラスの部屋」という映画にも、「ラスト・タンゴinパリ」の映画ポスターも(これは音楽だけで見てません)ベットのシーンが使われていたなぁ。詰まるところ、実存主義とかいう哲学は、自分の無様な肉体が、自分の一応与えられた思考というプライドを持って、その威信を維持していくことを心がけようと意志し、行動していく考えでもあると言えるかもしれない。(そして、これは誰にでも当てはまるものであるのだろう)
◆普段の僕にとっては、つまりこういうことだ、それは、一日一日、この抜け出せない与えられた肉体をもって、すでに若い峠を下ってきているこの肉体に於いて、それと闘いながら快適に生活できるかどうか、とうこと。 これが、「僕の日常生活の冒険」である。
自分の思考の言うことを聞かないこの肉体! 僕らがスポーツに敬服するのは、生き物に備わった他を排他する優位性、思う処の肉体とその目的をその行為をもって達成するところ・・・。連休、普段より時間があるし、身の回りのことで時間がないと出来ないことが細々あるから、すっきりさせていこう。
まず、基底の流れ、機能、目標、目的、手段、実施(生活)、効果、実績、維持、有効性、是正、計画、繰り返し続く。鳥と蟻の思考、そして記録・・・。そして、誰でもがこの地上においては限られた身体をもっていること、そのこと自体を考える人はいないけれど。肉体に隷属している人間。霊と肉、霊の法則について、人がものごとを理解するということは、どういうことなのかとか、そして僕の限られた時間・・・などなどの、キーワードをいつもながらに思いながら・・・










