marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(644回)  (その1)宗教改革は終わっていない !

2020-03-16 18:43:37 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◇カテゴリーを「キリスト教神学」なんぞにしてブログを書いてきてしまった。・・・で、これって面白いのです。とても・・・。真摯な課題から、冗談?みたいな都市伝説ごときものもありますからね。真摯なものと言えば「哲学は神学の僕である」という言葉があるけれど、それらも含めれば古代から数限りない書物が並ぶ。どう見てもまがいもんという論説まであるが、今から言えば都市伝説の分類となるだろうけれど、古代では真面目に考えられていたことなのだと言われれば、それはその時代であるからなぁというところに落ち着く。現代では無視されるが、その時代その時代で人はそう解釈した、でいいわけである。そこから学ぶことは、同じ地上の人としてそういう時代にはどのように解釈されたのかという学びにはなる。似たような時代になってもそこから前進する見解を持つために、知識としてだけで、知の教訓として学ぼうとしない人も居るけれど。

◆近代以降の小難しい神学論文といえども、時代の要請だろうな、その神学者当事者の時代環境で啓示を受けたものだ、とか考えればよいのであるが、実はまったくの信者、未信者が聖書やキリスト教に疑問に思うこと、つまり、神が実際に居られて今(その時代)、この世界を動かされておられるとするならば、何をか語り給うやなのです。実にこのことを小難しい言葉で並べることを世界中の神学者は行っていることになるのです。ここに小さなひとりの灯火から、果ては巨大なカテードラルを持つ大組織においてもただ一人の人を巡っての議論を行っているのです。断っておけば、この世界中とはキリスト教ベースの世界観を持っておられる社会に住む(あるいは個人でそれをベースに考えを持つ)、神学者、哲学者、社会学者、科学者、医学者、物理学者、文学者・・・・・なのです。これは、キリストの死の意味を知らない人にも、どの国の人にも目覚めた人には、実はその心の基底からの(実は神への)切実な求めになっているのです、否、なっている筈です。未信者かもしれませんがあなたもきっとそうでしょう。

◆僕が”しがらみ”と書いてきたことについて それは意識せずとも組織に、環境に、あるいは自分の肉に依存してしまっている意識、考え と言っていい。そのしがらみが、剥がれてきている時代になってきたということなのですね。神の似姿に創造されて、神が喜ばれたその”人”のありようが詳しく知られて周知されてきた時代になってきたからなのです。若い牧師さん達、キリスト教神学に頭を少し突っ込んで、とかく、その先進国である国外に勉強に行かれるけれど、それはいわゆる箔をつけるという意味か、権威付けか、そういう段階はそろそろ卒業しないといけない。自己訓練の修行の為にであれば、それなりに意味がその人にはあろうけれど。しかし、権利に義務が伴うように、特権には責任が伴う、ことを特に知るべし。社会経験をし、人の生きる世界を知り、そこから世界を知って、つまり自分の肉体の存在(これがまさに実存論的となる訳だが)から、地上に来られた神の子イエスを知る、ということの方がどれほど多くのことを学ぶことだろうと、キリストの存在を肉体で体験すること、少なくとも今の僕は思う。

◆聖書が語る人と言う生き物が神に創造されたとするならば、生んでくれた全知全能の神に、塵以下の人があれやこれやと分かったような語り部となるのは本来、不可能なことなのだといことが理解されるが、「神のことを学ぶ学者は善きものと悪いものを分けて取り出すものに似ている」とイエスは言われた。だから再臨の時まで神学者は語り続ける。あのルターが神の言葉をすべての人にと格式高いドイツ語で聖書を翻訳し、神の言葉が大衆化されたことは実に驚くべきことだったのだが、時代がくだってそれがひとり一人にすべて読み切れているかといえば今も決してそうではなかった。それ、ひとは罪人であり、かつ、神のみ言葉が大衆ひとり一人に行き渡るとすれば猛烈に悪魔は働くからであると言えるだろうか。それは歴史を見ただけで分かるではないか。

◆我々の戦いはどこに向けられるべきだったのだろうか。パウロは、エフェソの信徒への手紙6:12 でその答えを書いている。イエスは来られた、目には見えないが働いておられる。イエスが戦われた目には見えない悪魔は居ないとあなたは思うだろうか!? だから、宗教改革は終わってはいないのだ。すべての人が信者に、そしてすべての人が弟子になる時代なのである。何度でも書く、それは優先する組織ではない(実は教会においては啓示を受けた誰でもが語るものだったのだ)。教師はただ一人であるとイエスは言われたのである(それはイエスおひとりであるということ)。すべての”しがらみ”から抜け出して、自分の言葉でイエスの声を聞かないといけない。天上界の戦いにパウロは(イエスは)我々を招いているのである。組織にのっかることが到達点ではないのだ、今ではかえって悪くなっているのではないか。黙示録の指定された7つの教会のどれかに属しているのではないか。安穏としては居られないのだ。描かれているごとく、我らは天国を激しく攻めなければならないのである。(「天国は激しく攻められている、攻める者はそれを奪うであろう」) 誰でもが、である。 「あなたは、わたしをだれと言うか」・・・彼はいつもそう問うている。聖書の中の”不条理な彼の言葉”への答えは、全てこの回答の中にある。

◆神学は面白い、と書いたのは、神が語ったとされる過去の言葉、イエスが生きて今、聖霊として語る言葉、しかもそれらの中には、未来を語る言葉が含まれていることに対して、今という現在を生きている自分はどのように読み、考え、生きるかが常に問われるように思わされるからなのだ。肉体が死を迎え、地上を去るときまで誰でもがその回答を求め続けることを辞めてはならない。 ・・・