気ままに

大船での気ままな生活日誌

山下清とその仲間たちの作品展

2010-08-16 11:03:45 | Weblog

藤沢の小田急デパートで、”山下清とその仲間たちの作品展”が開かれている。山下清の絵はいろんなところでよく目にしていたが、ここに展示されていた作品は12歳くらいからの、世に出るまでのものが主体で、初見のものがほとんどだった。それに、彼の画家としての才能を見出し、育てた人々のことも、折々紹介され、まるで”龍馬伝”のような”清伝”で、面白くみさせてもらった。

山下清は12歳のときに千葉県市川市の知恵遅れの児童の教育施設”八幡学園”に入園する。ここの園長、久保田保久さんがえらい人で、自宅の90坪の庭に自費でこの施設をたて、9人の児童を呼びよせ、家族的な集団生活を行い、教育した。ここでは、あまり難しい授業はせず、とくに貼り絵を中心とした絵画に力を入れた。山下清はここで、才能を開花させたのだ。その頃の作品が沢山展示されている。

幼少の頃から、虫が好きで、ひとりで、屈んで、虫の行動を観察するのが好きだったようだ。だから、初期の貼り絵のモチーフにも虫が多く、蝶やかまきり、コガネムシなどがある。年を重ねるごとに上手になってゆくのがよくわかる。コガネムシなんか、八幡様のぼんぼり祭りの養老孟司さんのより上手なくらいだった(笑)。花火も大好きで(うちのワイフもそう)、15歳のとき描いた”江戸川の花火”など、のちの名作、”長岡の花火”、”両国の花火”につながる、素晴らしい作品だった。
(江戸川の花火)

この間、早稲田大学心理学教室の戸田行男さんが施設を訪れ、専門的研究を続けているうち、児童の貼り絵の素晴らしさに、感動し、大隅講堂で”特異児童作品展”を開催し、世間に知られるようになり、安井曾太郎や梅原龍三郎からも絶賛された。

有名になり、施設を訪れる人も多くなり、煩わしくなったのか、山下清は、18歳頃突然、龍馬のように”脱藩”し、放浪の旅に出るのだ。リックをしょって、生活用品のほか石ころも入れていたらしい。野犬がきたとき追い払うためだったという。ただときどき施設に戻ってきて、放浪の間、記憶した景色を、貼り絵にしたということだ。はじめは、総武線、横須賀線を使って、鎌倉や江の島方面に来たようで、江の島の絵も展示されていた。

貼り絵だけでなく、油絵の手法も、ある先生(メモが不明ですみません、堀川先生かな)から習い、”両国の花火”は油絵である。鉛筆画もやり、いわゆる山下清風ではない、建築物や植物の写実的細密画のすばらしい作品も並んでいた。

放浪生活は15年にも及んだそうだが、その自筆の放浪記が、ノートにきれいに書かれいた。知らない漢字が、多少あるだけで、えっ、この人が知能遅れ?と思うほどだった。ちょうど、開けていたページに、ぼくは戦争に行って、人をころすより、るんぺんしていたほうがいいな、と書いてあった。また、もう放浪しないという、学園への自筆の誓約書も残っている。ぼくはるんぺんするという病気なのだから、なるべく、回数を減らすようにしたいと、先生に言ったけど、それではだめと言われたので、もうぜったいるんぺんはしません、と書いてあった。でもきっと、その後も放浪の旅に出たのだろう。

”踏むな、育てよ、水そそげ”が学園のモットーだそうだ。

山下清(右上)と仲間たちの学園時代の写真。作品は、上からクレパス画の異才、石川譲二、原子芸術の風格、沼祐一そして幼くして絵画的天分の持ち主、野田重博の絵。




コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 終戦記念日 | トップ | いたち川の夕陽 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
素晴らしい (ごんた)
2010-08-16 21:39:28
時間潰しで入った百貨店さんの展示会、でも見終わった時には胸が一杯の感動を受けた展示会でした。若くして亡くなられた清さんのお仲間の芸術家達の才能にただただ感動でした。神が与えたもうた真の芸術家・・素晴らしい展示会でしたね。
返信する
ごんたさま (marbo)
2010-08-17 06:31:36
コメントありがとうございます。山下清さんだけでなく、ほかの3人の仲間たちの作品も光るものがありましたね。それと教育の重要性も改めて知りました。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事