記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

吉田初三郎と大分・湯平温泉、そして吉田朝太郎

2007年02月24日 22時05分08秒 | 吉田初三郎
今日は日帰りで京都へ行った。先月終了した企画展のためにお借りして
いた吉田初三郎の絹本原画「樺太」「東京湾汽船」「小松島」「伊豆」
の4点をお孫さんへ返却するためである。本来ならもっと早くに返却す
るべきだが、今日所用で京都行きを告げるとその折で良いからと言って
いただき甘えた次第である。

九州関係で何か資料が残されていないかをお願いしていたので、伺うと
すぐにいくつかの資料を見せてもらえた。その中に、初三郎がまだ三越
友禅図案課へ奉公している頃、16~7歳頃の写真があり、さらに処女
作「京阪電車御案内」を発表する前後の大正2年の写真も拝見した。
平凡社「吉田初三郎のパノラマ地図」等書籍でも未公開の写真であった。

そして「これはあなたが喜ぶ資料だろう」と出してくれたのが、昭和30
年前後の「小倉市」鳥瞰図の印刷折本のレイアウト指示書と、裏面観光
案内用の当時の小倉市街の様々な写真プリントである。いわゆる印刷物
の原板資料だ。残念ながら鳥瞰図そのものが一緒に残っていないが、実
はこの作品の絹本原画は所在が判明している。そして、これを依頼した
方や会社のことも、先にお孫さんが持つ新聞スクラップ等に記事として
残っていた。これに下書きやトレース図が見つかれば、印刷物として
完成するまでの行程が全て判るのだから、今日の私の興奮はかなりのも
のだった。

また、すでに絹本原画がお孫さん宅にある「直方市」と郷里「豊前市」
の下図、トレース図もどうやらあるとの事。「豊前市」は印刷物が未発
見なだけに、トレース図等の存在は印刷版の存在を証明する資料にも
つながる。一方の「直方市」戦後版は印刷物がカラーと黒一色と2種
あることも判っている。これにトレース図が加われば、構成の創意工夫
からの全容が企画展などでも紹介できる。

と、ここまでは本日の感動をざっと記したが、今日の写真はその初三郎
が映った大分県湯平温泉に鉄道が開通し開業した際の光景である。この
絵葉書は先日知人の古書店から譲ってもらったのだが絵柄は何度も目に
していた。今回改めて映っている人物を見ると、なんのことはない初三
郎だったのだ。開業記念の鳥瞰図作品「湯平温泉名所図絵」があるので
考えてみると映っていても不思議はなかった。

初三郎が映った絵葉書は実はけっこう多い。犬山「桃太郎祭」には子息
まで出演しているし(初三郎は勝手にこれが絵葉書となった事に怒った
とみえ、新聞スクラップのその頁は黒く塗りつぶされていた)、川下り
や鉄道開通時の記念絵葉書にはよく映っている。彼の会社である観光社
でも写真入り絵葉書も出版していた。

お孫さん宅からの帰り、京都・河原町界隈を散策した。六角堂交差点に
は初三郎「京都名所御案内」などの巨大壁画がお目見えし、今日も行き
交う人々が足をとめて見入っている姿を目にした。初三郎は知らなくて
もその作品は多くの人に知られているのだ。

またその巨大壁画の斜向いにある老舗喫茶店・六曜社は、初三郎研究家
にはおなじみの店?である。二代目となる吉田朝太郎が初三郎工房とは
別に作品を発表していた拠点であった。聞けば、当時の六曜社の経営者
が、初三郎の観光社で営業をしていた玉田豊氏の妹婿だった縁とのこと。

朝太郎氏は戦前の全盛期から唯一、昭和30年8月に没するまでの初三
郎を常にサポートし続けた高弟にして養子であった。養子縁組は昭和2
8年だが、昭和5年後半から新聞記事には令息・朝太郎氏と紹介され、
常に初三郎の脇で彼の画業を支え続け、初三郎没後は観光社作品には
初三郎名義で、また六曜社や彼の画房名義では本名や朝彦名義などで
作品を発表し続け、時代が鳥瞰図から写真やコンピュータ画に変わって
も2000年に亡くなるまで鳥瞰図を描き続けた孤高の人物である。

朝太郎氏の詳しい画業はまたの機会に。
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