犬養万葉今昔―犬養孝先生著「万葉の旅」を訪ねて

犬養孝先生名著「万葉の旅」記載の万葉故地309箇所を訪ね、先生が撮られれたのと同じ場所に立った写真撮影を目指す紀行。

□NHKラジオへの出演決定!

2008年08月27日 | メッセージ
☆ラジオ出演が 決まりました

●NHKラジオ 第一放送
●「おしゃべりクイズ 疑問の館」
●9月16日(火)
●20時5分~21時30分
●第3コーナー(9時過ぎ)に出演
●内容は もちろん「今昔」 詳しくは 当日のお楽しみ

緊張感はありますが 気楽に 臨みたい と 思っています
聞いてやってください(手帳に予定を!!)

下記で「番組」の内容がご覧になれます

おしゃべりクイズ「疑問の館」へ


□揮毫歌碑を全探訪

2008年08月11日 | メッセージ
平成20年8月8日

犬養先生揮毫の万葉歌碑 全136基を探訪し終えた

最終行は 釧路 タンチョウ鶴 の歌碑
北海道には 万葉故地はない
しかるに 先生揮毫の歌碑が 存在する
それは
今や タンチョウ鶴の 一大飛来地が ここ 釧路に限られる
そして 「阿寒国際ツルセンター」の建設に合わせて 建設されたのが この歌碑だ

万葉時代 丹頂鶴は 全国いたるところにおり 鶴を詠んだ歌も 多い

掲題の歌は 難波潟での鶴
遣唐使(任命を受けた官僚ではなく 下級官僚か水夫か?)として送られる 一人息子の無事を 鶴に託して祈る
母の いつくしみの 歌だ

『焼け野の雉(きぎす) 夜の鶴』を 思い起こすではないか


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釧路紀行は 形の上では 最終行となったが
実質的(万葉故地関連)には 孔島の「浦の浜木綿」が 最終行であった
「浦の浜木綿」を 最終行とした 紀行文 は こちら
<万葉故地完全踏破から揮毫歌碑全探訪へ>



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「歌心関西訳」の作成過程をご覧ください。
これなら あなたも 訳せますよ。
<訳してみよう万葉集>へ

【万葉歌みじか物語】はこちら






■リンク先

      
      



★万葉故地完全踏破から揮毫歌碑全探訪へ

2008年08月11日 | 紀行アラカルト
■浦の浜木綿
紺碧の海広がる岩礁の浜
黒潮踊る熊野灘に面する小島
孔島
そこは浜木綿の野生群落地
久方ぶりにその浜に立っている
あれから何年になるのだろう
・・・・・・・・・
大学生になった初めての夏
万葉旅行
犬養孝先生引率の文学旅行だ
歌は心の音楽
人の心を歌で表現したものだ
歌は詠まれた土地を抜きにしては考えられない
現地に立ってみて 
実景を目の当たりにして 
はじめて歌の心がわかる
教室での講義もさることながら 
現地での先生の話は 真の心の糧となってゆく
あのときの孔島は 
陸続きではなかったのでは
護岸もなく 
浜の岩礁に打ち寄せる荒波は 白い歯を見せていた
あのときも 浜木綿の群落はあった
幾重にも重なった 肉厚の緑の葉
一種妖艶とも見える 白い幾筋もの花弁
紺碧の海と 青い空に 緑の葉と 白い花

人麻呂は詠う
    み熊野の 浦の浜木綿 百重なす
         心は思へど 直に逢はぬかも

(熊野灘の海辺の浜木綿の葉は幾重にも重なっている その葉が重なるように私の心はずっとずっとあなたを思っているが 直には逢えないのだ)

■「万葉の旅」を訪ねて・その後
大学時代の恩師である犬養孝先生の足跡を追って、その名著「万葉の旅」掲載の万葉故地を訪ね、同書記載の写真を、同じ場所・同じアングル・同じ雰囲気で撮影し、ついに309ヶ所のすべてを完全踏破したのは、昨年8月25日。
そのいきさつ、経過については、昨年11月14日付け日本経済新聞文化面に掲載された記事に述べた通りである。【日経記事へ】
その後、
・踏破写真を整理編集したものを「犬養万葉記念館」に寄贈
・東京での犬養先生生誕100年記念展にて写真集の展示
・リーガロイヤルホテル(大阪)での、リーガクラブ「全国309ヶ所完全踏破 ―「万葉の旅」を訪ねて」の講演
あたかも、経済人をやめて文化人になったかの如き日々が続いていた。


■揮毫歌碑を訪ねての旅へ
犬養先生が揮毫された歌碑は、全国で136基。その全貌は、先生の愛弟子山内英正氏の著書「犬養先生揮毫の万葉歌碑探訪」に詳しい。
これを片手に、歌碑写真を撮りに行こう。
歌碑は、明日香村を中心に多くあるが、遠くは埼玉・群馬、長崎唐津・五島列島に及ぶ。
さいわい、「万葉の旅」を訪ねての折に撮影したのがあるが、故地と歌碑立地は同じとは限らない。
万葉故地は歌の作者との結びつきが当然であり、1300年前の作歌場所ないし生活密着箇所である。
これに対し、歌碑は歌読みの場所での建立もあるものの、建立想起者と犬養先生の人的関係に基づく地点に建てられることがあるからである。
あらためての探訪紀行が始まった。

■第1号歌碑
先生揮毫の1号歌碑は、万葉のメッカ・甘樫丘。東よりの登り道の中腹、丁度飛鳥古都の集落が見下ろせる木陰にある。
「万葉は、その地の息吹の中にあってこそのもの」「人間が手を加えた歌碑などを建てることは、どうか」と、先生は頑なに固辞されたと聞く。
しかし、おりから巻き起こりつつある宅地開発の波、その荒波の明日香への押し寄せ、甘樫丘でのホテル建設の話。
「明日香を、万葉の故地を守るきっかけとなれば」と承諾され、歌碑建立となった
     采女の 袖吹き返す 明日香風
          都を遠み いたづらに吹く

(女官の袖を吹き返していた ここ明日香の風 都変わりで荒れ果て 簫々と吹いている)

明日香に古都保存法が適用されたのには、ここ甘樫丘で、犬養先生が、時の総理佐藤栄作に万葉故地保存の大切さを説かれたのが、その一助となったと聞く。
また、昭和天皇も明日香に見えられ、同じ甘樫丘で古代の息吹を醸し出す風物・景観の素晴らしさを実体験され、犬養節を聞かれた。
あれから幾星霜。いま、歌碑は、明日香を愛する人々の訪れを静かに見守っている。

■最新歌碑
先生が亡くなられて、今年で10年になる。その後も先生揮毫歌碑の建立は続いており、今年3月23日に最新歌碑(136基目)が誕生した。
場所は、福岡県嘉穂郡桂川町。田園風景が広がる王塚装飾古墳のかたわら。ま新しい歌碑が誇らしげに建っている。
筑紫歌壇で大伴旅人とともにあった山上憶良の官庁があった嘉麻・穂波の文化興隆の一環として建てられたものだ。先生を慕う全国の人々。大勢の人が犬養万葉の世界を伝えていこうという動きに励んでおられる。
     道の辺の 草深百合の 花笑みに
          笑ましがからに 妻といふべしや

(わたしがちょっと笑顔を見せたからと言って 妻にしたなんて言っては だめよ)

■歌碑探訪最終行
7月11・12日と神集島(かしわじま)に行った。
ここは、神功皇后の昔、三韓征伐に向かう折、神々を集めて戦勝を祈願したとして知られる伝説の島だ。万葉時代には遣新羅使が舟泊まりし、望郷の念堪えやらず詠った歌が残されている。周囲8キロ余りの島のしかるべき個所に、その歌七つの歌碑がある。唐津湾の西北、東松浦半島、湊~神集島の連絡船。ひなびた島影での旅のひととき。
      足らし比売 御船泊てけむ 松浦の海
            妹が待つべき 月は経につつ

(神功皇后の船が停泊したという松浦の海<そのマツといえば>帰るのを待っているであろう妻の月日が長くなっていることだ)

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そして、最後の訪問歌碑。それが、冒頭の「浦の浜木綿」だ。平成20年7月18日。
はからずも、最初の万葉旅行での訪問地、夏の孔島で最終行を迎えた。


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先生との出会い、万葉への思い、青春の日々、すべてが、ここから始まった。



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