万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

子規堂を訪ねる

2011年10月03日 | Weblog
                       
                      正宗寺にある子規の遺髪塚
                      野菜がお供えしてありました。


 10/3(月)所用により松山の市駅辺りまで行きました。渋滞の道でフト見ますと「正宗寺 子規堂」の案内看板が目につきました。子規堂はここだったのか・・・、所用を済ませて寄ってみました。
 正宗寺は臨済宗の寺院で松山藩主の寺とのことです。明治の頃のご住職に正岡子規と親交があって当寺の墓地に遺髪塚がそして境内に子規堂が設けられています。子規堂内部は遺品類の展示室になっています。入室拝観料50円には驚きました。
 今NHKのドラマ作品で司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が放映されていますが、その中の正岡子規を香川照之が正しく迫真の演技で子規の実像はさもあらんと思わせるものがあります。
 よく云われ、耳にする人物評論ですが、「夏目漱石を語る上に子規を置いては語れない。子規は子規として語られる」と、子規の才能は天賦のものと云えますが、36才で早世したその心は少年の心、その心が夏目漱石をして東京から四国の松山に向かわしめる精神的世界をかもしていたのではないかと思います。日本の近代文学の一つの濫觴となったサロンが子規の住む松山に展開されていたのです。
 司馬遼太郎さんが「坂の上」に浮かぶ途方もない手の届かないような世界「雲」と云う希望の未来について口角泡を飛ばして語り合う少年たち、そのキラキラ輝き続ける少年の眼を正岡子規、そして秋山兄弟に見られたのであろうと思います。

 それにしても「野球」(ベースボール)の呼び名は子規の幼名「昇」(のぼる)をもじったものであるとは茶目っ気たっぷりです。子規は当時のみんなから「のぼさん、のぼさん」と呼ばれていました。
  野(の)+ぼる(ボール=球)で野球(のぼーる)。これを音読で「やきゅう」となったのだとのことです。

              
             子規堂内の遺影壇
             亡くなる13時間前に認めた絶句3句が額装で掛けてあります。
              糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
              痰一斗糸瓜の水も間にあわず
              をとゝひのへちまの水も取らざりき

 子規の最後は明治35年9月19日、十七夜の月が煌々照りわたる夜であったとのことです。

                              
                             子規ありし日の文机
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10月の法語

2011年10月01日 | Weblog
                     
                    10月の法語

     雑行(ぞうぎょう)棄てて
      本願に帰す

 このご文は『教行信証』「化身土巻」(けしんどかん)に親鸞聖人が法然上人を訪ね比叡山の行学に決別し、法然上人の説かれる専修念仏のみ教えを懸命に修学、そして念仏停止と云う朝廷の無謀な裁断により師弟ともに流罪となるという所謂承元の法難のことなどが聖人自らによって記述されています。法然上人のみもとでの6年の浄土教修学時の行実の要所々々が端的に記述されているその中にご自分のいのち、精神の大いなる転換を記しておられるお言葉なのです。
 「雑行を棄てる」とは「さとりに向かおうとする全ての自力の実践は遠く遠く及ばない」その私が阿弥陀如来の大慈大悲からのご本願に抱かれてあったことを法然上人のみもとで目覚められて行かれたのでした。(注釈版『浄土真宗聖典』p472)

 京都の出版社法蔵館発行の冊子『ひとりふたり』に当院若院の「如来のはたらき」と題した一文が掲載されています。その中に今病床にあられる恩師を見舞った時のことが述べられています。病床の先生に「浄土真宗とは何ですか」と云う問いを恐る恐る訊ねると先生は「(浄土真宗とは)己をなくすこと、それがまったく如来のはたらきによってなされる」と応えてくださったと述べられていました。
 南無阿弥陀仏とは如来さまのやるせないご本願からの呼び声、悲しみや辛さを一杯抱え、背負っているこの私をそのまま抱いていて下さりこの私の人生の歩みと共に歩んで下さってある。ご本願は常に私(おのれ)をうながし続けてくださってあります。
南無阿弥陀仏とお念仏申すしか云いようがありません。

 この法語の前後のご文も記しておきます。
    
   しかるに愚禿釈の鸞(親鸞)、建仁辛酉(かのとのとり)の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
       
 建仁辛酉は西暦で1201年、聖人29才の時です。恵信尼さまのお手紙に依れば比叡山から中京の六角堂に百日の参籠を決行され、95日の朝聖徳太子さまの示現を受け、その足で東山吉水の法然上人の庵室を百日間聴聞に通い続けられ、法然上人を師とすることに決せられたその前の一大宗教体験が「雑行を棄てて本願に帰す」であったことがうかがえます。  
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