2/3、今日は節分です。明日が立春、春夏秋冬の季節の移ろいから一年を考えると、今日の節分が大晦日、明日の立春が新年、新春となるのだそうです。稲作など農耕を主として営まれて来た日本においては殊に順調な天候を願う思いが切実であったと思います。
様々な禍をもたらした去りゆく年の鬼を払い、来年は福の招来を願う思いは古今東西を問わず素朴なセレモニーが見られます。
「鬼は外! 福は内!」と豆が升からパラパラと撒かれるのは面白い。豆とは必ずそれは大豆です。
「天候不順や疫病など禍が沢山あるけれど、それに打ち勝つのは何と云っても建康です。その建康の元は大豆を食べていれば養えます」と云うことなのでしょう。
本来の仏教には大風、大雨、大火、雷、疫癘などが起こるのを鬼の仕業とする考えはありませんが、古来からの節分行事に大豆が使われるようになったのは仏教の持つ栄養学が関係しているように思えます。
仏教の鬼は迷の世界である「地獄」などに出てきますが、赤鬼は私の貪欲(むさぼり心)、青鬼は私の瞋恚(いかり心)、黒鬼は私の愚痴(因果の道理に合わない考えや思い)
を鬼で表わされているようです。
間もなく寒さも去って春がおとずれます。今年一年色々な胸の痛むことも沢山勃発するに違いありません。そして私が背負いかねるような難解な問題が起こるかも知れない一年でしょう。
それでも如来さま(南无阿弥陀仏)は倦むことなく私の「いのち」とともに歩んで下さっています。
浄土真宗の「豆」は「南无阿弥陀仏さま」でした。鬼も福も有難い。
イラストは浜田広助童話「泣いた赤鬼」の挿絵より。
様々な禍をもたらした去りゆく年の鬼を払い、来年は福の招来を願う思いは古今東西を問わず素朴なセレモニーが見られます。
「鬼は外! 福は内!」と豆が升からパラパラと撒かれるのは面白い。豆とは必ずそれは大豆です。
「天候不順や疫病など禍が沢山あるけれど、それに打ち勝つのは何と云っても建康です。その建康の元は大豆を食べていれば養えます」と云うことなのでしょう。
本来の仏教には大風、大雨、大火、雷、疫癘などが起こるのを鬼の仕業とする考えはありませんが、古来からの節分行事に大豆が使われるようになったのは仏教の持つ栄養学が関係しているように思えます。
仏教の鬼は迷の世界である「地獄」などに出てきますが、赤鬼は私の貪欲(むさぼり心)、青鬼は私の瞋恚(いかり心)、黒鬼は私の愚痴(因果の道理に合わない考えや思い)
を鬼で表わされているようです。
間もなく寒さも去って春がおとずれます。今年一年色々な胸の痛むことも沢山勃発するに違いありません。そして私が背負いかねるような難解な問題が起こるかも知れない一年でしょう。
それでも如来さま(南无阿弥陀仏)は倦むことなく私の「いのち」とともに歩んで下さっています。
浄土真宗の「豆」は「南无阿弥陀仏さま」でした。鬼も福も有難い。
イラストは浜田広助童話「泣いた赤鬼」の挿絵より。