万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

血染めの聖教

2009年05月13日 | Weblog
文明6年(1474)3月18日夕方、吉崎御坊の南大門の他屋辺りから出火し、本堂、諸堂宇が焼け落ちました。その折、蓮如上人の居室書院に置いてあった『教行信証』を出し忘れたことに気づいた本向坊了顕は燃えさかる火の中に飛び込み、自らの腹を短刀で切り開き、臓腑掻き出して聖教を押し入れて俯せになって聖教を守ったのでした。このお聖教を「血染めの聖教」と呼ばれていたと伝えています。
 これらの事柄から蓮如上人が如何に親鸞聖人の書かれたお聖教を大切にされ、精魂込めてお読みになられていたことがうかがえます。
 「聖教は読み破れ」とか「読書百遍、意自ずから通ず」と縁ある人たちにお聖教を詠むことを勧められました。
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嫁おどしの面

2009年05月13日 | Weblog
43才にして本願寺第8代門主となられた蓮如上人は親鸞聖人のみ教えを誰にでも分り易く受けとれるようにと伝道活動にいのちを懸けて行かれました。
 寛正元年(1460)畿内に大地震、全国未曽有の大飢饉が起こり、京都での死者8万2千人に及んだと記録に見えます。その大飢饉の最中、蓮如上人は最初の『御文章』を書かれています。この世に因縁あって生まれ合わせて私どもはまた、様々な因縁によっていのち終って行くのですが、最も理解しがたい、納得しがたい私のいのちは阿弥陀さまのご本願(やるせないお心)に遇いお聞かせにあずかることによってしか知り得ないこと、そこにおいて生死を超えた安住と安穏な世界が展開されてくることを実に精力的にお説き下さったのでした。
 そのようなことが比叡山僧徒の反感をかい、東山大谷の本願寺は破却されると云う大事に至ったのでした。
 しかし、蓮如上人はひるむことなく、近江の堅田にそして北陸の吉崎へと身を移され教化活動を行われたのです。
 画像は蓮如上人が吉崎居られた頃、ある嫁女が夜な夜な吉崎御坊へ聴聞に行くことを邪慳に思ったその姑がある夜鬼の面を着けておどそうとしたのです。しかしどうしたことか顔に被った鬼面が取れなくなってしまい苦しみもがいていたその姑を嫁女は蓮如上人の所へ連れて行き上人のご法話を聞いてもらうとその鬼面がハラリと取れたと云うエピソードが描かれている画面です。
 今、吉崎へ参りますと3ヶ所にその時の鬼面と云われるものが展覧されています。これはどうも江戸時代に上方歌舞伎で『嫁脅しの面』が何度も演じられ、その時使用された鬼面が奉納されたものと聞いたことがあります。
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鹿の子の小袖

2009年05月13日 | Weblog
5/14、今日は浄土真宗の中興、本願寺8代蓮如上人のご正当です。
明応8年(1499)3月25日に山科の本願寺において85才で
もってご往生になられたのでした。その御命日を太陽暦に換算いた
しますと、本日がご正当になります。
 当万福寺には蓮如上人の4幅のご絵伝が伝わっていましてただ今
地下の納骨室予備室に展覧しております。親鸞聖人の4幅のご絵伝
は大方の寺に伝わっているのですが蓮如上人のご絵伝は極めて珍し
いものだそうです。
 画像の絵は「鹿の子の御影の段」、上人6才の折、上人の母は鹿
の子絞りの小袖を幼名布袋丸と呼ばれた上人に着せて、絵師に肖像
を描かせ、母は布袋丸に浄土真宗を興隆するようにこんこんと諭し、
「鹿の子の御影」を胸に抱いてどこへともなく姿を隠されたのでし
た。
 長い部屋住み生活であられましたが、43才で本願寺第8代門主
を継承された蓮如上人はあらゆる手だてで母を探索されましたが、
消息はありませんでした。ただ、「ビンゴ」(備後)の人であられ
た由の風聞はあったようです。
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プレゼントの紫陽花

2009年05月12日 | Weblog
紫陽花を一鉢プレセントされました。
目も覚めるような淡いピンク(薄紫色と云うべき
でしょうか)の紫陽花です。
初めて見る色のアジサイなのでいろいろと思いを
巡らせています。バイオのテクニックで生まれた
ものなのでしょうか、カラフルな花が生まれて楽
しませてくれます。ありがとう。
花が終わったら路地に植えて大きくしようと思い
ます。
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しまなみ架橋10周年

2009年05月08日 | Weblog
今年のゴールデンウイークは「しまなみ海道」完成10周年という年でもあり、通行料の軽減化実施もあって随分の帰郷者と観光客の車で賑わいました。
 10年前、しまなみ開通の私なりの記念として小冊子を手作りで100冊発行したことでした。『一遍上人と大三島 ・・はるかなる旅路のはてに・・ーー「聖絵」に秘められた伊予史管見ーー 』と題したものでした。その見開きに画像の「聖絵」の最終章に描かれている瀬戸内を行き来している舟の絵を使わせてもらったことでした。その緒言に次のように書いていました。
 「(架橋により)島が島でなくなったことは生活の便利さと、島民にとっては何よりも安心を与えてくれました。しかし、太古以来島であったが故に培われ温められてきた島特有の生活と精神文化は急速にわすれられてゆくに違いありません。そのことを思います時、一抹の哀感を覚えるのです。」と、自分自身が書いたものですが、10年経った今も同感いたします。
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二人静

2009年05月06日 | Weblog
5/6、ゴールデンウイークも今日で終わりです。海外旅行へ行かれた方も「豚ウイルス」でマスクかけの旅行で大変でしたでしょう。「しまなみ」も通行料金「1000円」が効果てきめん、大渋滞、こんなこと開通以来のことです。
 今また静けさがもどってまいりました。
 「一人静」の開花から丁度1ヶ月経って「二人静」の白い蕾が見え始めました。「一人静」は花穂は必ず1本ですが「二人静」の穂は2本だけではないようで、多いのは4,5本ついているのもあります。「一人静」も「二人静」も撮影場所は同じですから日にちをかけて注意深く観察しなければ別の固体とは分別がつかないかも知れません。
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浪速茨(なにわいばら)

2009年05月03日 | Weblog
 昨日、宗方のご法事に参りましたら小笠原大介さん宅の裏の石崖に
白い花が群れるように垂れ咲いていました。思わず車を止めて撮影し
ました。蔓性で一寸見ると「のうぜんがづら」のように見えます。の
うぜんは夏に咲きますから時期的に違いますし、白花は知りません。
帰って図鑑やネットで知らべて見て「浪速茨」(なにわいばら)であ
ろうと私なりに結論付けて見ました。それにしてもすごい、圧倒され
ました。
 難波茨とも難波野茨とも表記されているようです。牧野富太郎さん
は「難波イバラの意味で恐らくむかし大阪の植木屋から世に広まった
からであろう」と記述されています。ばら科の植物。
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山つつじ満開

2009年05月02日 | Weblog
この鮮やかな桃色に咲いた躑躅は大三島の山に自生していた山躑躅です。
10数年前に宗方の藤原純人さんが植えてくれた躑躅ですが、本年の咲き
具合が一番奇麗に見えます。
 今日から5連休、高速道路もしまなみ海道も低料金になって車が多いこ
とでしょう。連休間は少し多忙となります。しかし帰郷の方々に久振りお
会いできて嬉しいことも多いことだろうと思っています。  住職
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双眼鏡

2009年05月01日 | Weblog
 昨日(4/30)メガネ屋へ行きました。と云いますのは小さな字などが見えにくくなったので今使っているメガネ(遠近両用)を合わせて貰おうと思ってのことです。綿密に視力検査をして下さり、左眼の乱視が進んでいるとのことでした。
 説明を聞きながらウインドウの棚に置かれている小さな双眼鏡が気になってしかたがありませんでした。ズッと以前からオペラグラスぐらいのものが欲しいと思っていたのでしたが今日は買っておこうと決心しました。
 一番コンパクトなのを求めました。ズーム機能が付いている勝れものです。帰って本堂の屋根にとまっている雀を見てみると、なんと雀の愛らしい表情が手に取るように見えるのです。これはいい、世界が広がったような、大きな宝物を手にしたような思いに今なっています。
 メガネはちゃんとして下さるそうです。
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