昨年の法語カレンダーの12月は板東性純先生のお言葉「永遠のの拠り所を与えてくださるのが、南無阿弥陀仏の生活である」と掲げられていましたが、本年のカレンダーの表紙にも板東性純先生のお言葉が挙げられています。このお言葉は12月の「南無阿弥陀仏の生活」を詳しく示すかたちでこのお言葉が選ばれたのであろうと思います。
私どもがいつも「南無阿弥陀仏」のお念仏を口にお称えさせていただいているその「南無阿弥陀仏」は「智慧と慈悲のはたらき」そのものなのですと述べていて下さいます。親鸞聖人がお正信偈の冒頭に掲げられた二句のご文、「帰命無量寿如来、南無不可思議」は聖人が「南無阿弥陀仏」のお念仏を意味の上、おはたらきの上から述べられている二句について「法蔵菩薩因位時」から最後の「唯可信斯高僧説」までおいわれをお説き下さってあるのです。冒頭の二句は無量無辺の智慧と慈悲(いのち)のはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏であることを申されているのです。聖人は「歎異抄」の中に「よろずのことみなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と申されていますように、日々の憂悲苦悩の逆巻く中で「智慧・慈悲のはたらき」に帰趨されて行かれ、私どもに「正信偈」としてまとめ伝えて下さったのです。そのことを板東先生は味わい申して下さったのです。
若院の「絵ものがたり正信偈」には次のように意訳しています。
はてしない過去からわたしをつつむいのち はてしない未来までわたしを照らすひかり
1月の法語には香樹院徳龍師のお言葉が上げられています。
称えるままが つねにご本願の みこころを 聞くことになる
いろんなご縁にもうようされてお念仏を申させていただくままが、そのまま如来さまのご本願(おやごころ)が呼び声として耳に聞こえて来ます、と徳龍師は申されました。
香樹院徳龍師は安永元年(1772)から安政5年(1858)にかけての方で、越後北蒲浦郡の大谷派無為信寺の学僧でした。その語録は多くの人の指南書となって来ました。近世では宗教詩人木村無相さんによって徳龍師の法語についての詩篇が多く残されています。その1篇をご紹介しておきます。
本願の不思議 香師(香樹院徳龍師)おおせに “聞くばかりで 仏になることに ウタガイはるるは 本願の不思議なり”
本願の不思議 本願の不思議 ナムアミダブツ 不思議なり
ナムアミダブツ ナムアミダブツ ナムアミダブツ アムアミダブツ (続々 念仏詩抄より)