万福寺手水鉢「浄心」
昭和61年馨竹先生揮毫
このブログにコメントで国貞馨竹(富喜子)先生のことをご紹介下さいとのご依頼がありましたので少しお話してみようと思い
ます。国貞先生はご逝去されてから本年が13年回になります。(ご命日は平成11年6月21日)
馨竹(富喜子)先生は三姉妹のご長女で旧今治市に生まれられました。父盛一氏は大三島野々江を郷里とされ野々江に七代続い
た家でしたが大正の初期に今治に出られ事業を興されました。綿織物の会社であったと聞いておりますが、同業者の人望厚く卓越
した才覚を推されて市会議員となられ市政にも貢献されています。
馨竹先生は令妹勝子(医学博士)さんと東京新宿に住まわれて令妹勝子さんは医学、医療に献身され、馨竹先生は勤務された住
友建設秘書課退職後は女学校時代から好きだった書道に精励されるようになられたようです。今治の女学校時代の書の師は織田子
青先生の指導を受け、東京時代には高塚竹堂先生に師事されて研鑽を積まれたとのことです。俳句、俳画もよくされ葉書やお手紙
に俳画を必ず添えられ、その秀麗さは今も眼にも心にも思い出されます。
万福寺に納められている作品はこのブログに既に紹介させていただきましたが、
○ 一曲屏風仕立ての自句「水うって精一杯の今日も暮れ」
○ 扇面額仕立て利休居士の「花を御覧になるおりは 身を遠のけて足音のせざるように 御覧になるべき候 水に浮きたるも
のにて候
○ 一曲屏風仕立て 藤原家隆歌「花をのみまつらん人に 山さとの雪まの草の 春をみせばや」
○ そして境内に設置の手水鉢に彫られた「浄心」があります。
それから次に紹介いたします万福寺の時報「和信」の表紙に俳画と6種の歌を選んで揮毫をお頼みしたことがあります。昭和6
3年のことでした。俳画は2色のみで描いて欲しいと一寸無茶なことをお頼みしたのです。その頃のカラー印刷は1色増える毎に
印刷費がかさむために2色に制限していたのです。それでも馨竹先生は快くさらさらと仕上げて送ってこられました。平成元年の
「和信」6号分の表紙となりました。
竹
一々の花のなかよりは
三十六百千億の光明はなちて
ほがらかにいたらぬところは
さらになし 親鸞聖人和讃
桃
わが生きの身のこの息が
如来の息と聞きぬれば
如来とはなるゝときぞなき
無相さん念仏詩抄より
菖蒲
ガンジス河のまさごより
あまたおはするほとけ達
夜ひるつねにまもらすと
きくに和めるわがこころ
九条武子夫人無憂華より
胡瓜
おろかなる身こそ
なかなかうれしけれ
弥陀の誓ひに
あふと思へば
良寛和尚御歌
芒
今の佛は不思議な佛よ
南無阿弥陀仏の声として
呼んでくださるわたくしを
浅原才市さんお法悦歌
柿
報恩講のみ座に語りて
帰る夜半 み名呼びてゆく道に月照る
前住職「母心無限」より
国貞家の墳墓は野々江ですが、馨竹先生の生前の希望により万福寺四恩堂納骨所に令妹越智光子さんの手により移納されまし
た。