彩の国デジタルアーカイブ写真検索で昭和50年代後期の大宮駅西口の写真を見る。
昭和58年大宮西口駅前。
昭和59年大宮駅西口再開発(東)。
昭和59年大宮駅西口再開発(西)。
最初の写真と次の写真とで西口駅ビルの工事進捗状況を見ると、時代が逆ではないかと思う。
それはそれとして、昭和50年代後期は大宮駅西口が大変貌を遂げる途上であった。
本日は昭和50年代の大宮駅西口がどのように変貌していったかの一端を見てみたいと思う。
昭和50年頃の大宮駅西口駅前。自転車が道路を占領している。左よりに牛丼吉野家の看板が見える。
昭和51年頃の写真では吉野家の看板があったあたりにヤマハエレクトーンの看板が見える。
昭和54年頃の写真を見ると正面左、魔法風呂の看板が変わっている。
私が昭和60年10月に撮った写真の左にトラス構造の鉄柱が見える。この鉄柱(赤矢印)は大宮西口商和会のゲート看板が設置されていた鉄柱だと思う。その鉄柱の右(電柱の後ろ)に白い看板跡がある。昭和51年頃のヤマハエレクトーンの看板はここに取り付けられていたのではないだろうか。であるとすればこのあたりに牛丼吉野家はあった。
昭和52年の地図で大宮駅の西を見る。このあたりを昭和54年の写真で見る。商工会館、国鉄庚申寮、庚申神社、桜木小学校などが写っている。桜木小学校の校庭に「1979」の文字が見える。
昭和54年頃、おそらく商工会館から駅方面を撮った写真。
昭和55年頃、おそらく商工会館から駅方面を撮った写真。
昭和56年4月、おそらく商工会館から駅方面を撮った写真。
昭和56年12月。
昭和57年4月。DOMは建設中、桜木小学校に校舎は見えない。桜木小学校ホームページの沿革史によると昭和57年1月18日新校舎へ移転した。
昭和57~8年頃。右の看板は私が昭和60年10月に撮った写真の「三色最中」「さとう動物病院」だと思う。
ちなみに、昭和3年中央新聞大宮通信部出版『大宮』に三色最中の広告が載っている。昭和8年大宮町全図のここに大坂屋三色最中がある。現在地図のこのあたりだと思う。
昭和58年5月。DOMはオープンしている。
昭和58年頃。中央上の校舎は移転した桜木小学校。
昭和59年5月。まだそごうの工事は始まっていない。
昭和58年大宮西口駅前。
昭和59年大宮駅西口再開発(東)。
昭和59年大宮駅西口再開発(西)。
最初の写真と次の写真とで西口駅ビルの工事進捗状況を見ると、時代が逆ではないかと思う。
それはそれとして、昭和50年代後期は大宮駅西口が大変貌を遂げる途上であった。
本日は昭和50年代の大宮駅西口がどのように変貌していったかの一端を見てみたいと思う。
昭和50年頃の大宮駅西口駅前。自転車が道路を占領している。左よりに牛丼吉野家の看板が見える。
昭和51年頃の写真では吉野家の看板があったあたりにヤマハエレクトーンの看板が見える。
昭和54年頃の写真を見ると正面左、魔法風呂の看板が変わっている。
私が昭和60年10月に撮った写真の左にトラス構造の鉄柱が見える。この鉄柱(赤矢印)は大宮西口商和会のゲート看板が設置されていた鉄柱だと思う。その鉄柱の右(電柱の後ろ)に白い看板跡がある。昭和51年頃のヤマハエレクトーンの看板はここに取り付けられていたのではないだろうか。であるとすればこのあたりに牛丼吉野家はあった。
昭和52年の地図で大宮駅の西を見る。このあたりを昭和54年の写真で見る。商工会館、国鉄庚申寮、庚申神社、桜木小学校などが写っている。桜木小学校の校庭に「1979」の文字が見える。
昭和54年頃、おそらく商工会館から駅方面を撮った写真。
昭和55年頃、おそらく商工会館から駅方面を撮った写真。
昭和56年4月、おそらく商工会館から駅方面を撮った写真。
昭和56年12月。
昭和57年4月。DOMは建設中、桜木小学校に校舎は見えない。桜木小学校ホームページの沿革史によると昭和57年1月18日新校舎へ移転した。
昭和57~8年頃。右の看板は私が昭和60年10月に撮った写真の「三色最中」「さとう動物病院」だと思う。
ちなみに、昭和3年中央新聞大宮通信部出版『大宮』に三色最中の広告が載っている。昭和8年大宮町全図のここに大坂屋三色最中がある。現在地図のこのあたりだと思う。
昭和58年5月。DOMはオープンしている。
昭和58年頃。中央上の校舎は移転した桜木小学校。
昭和59年5月。まだそごうの工事は始まっていない。
あんまり昭和50年代の写真って公開がないんですよね。
私は昭和58年春から西口近くの会社に就職し、少しずつ変化する街の風景を見て着ましたが、改めて当時の写真を拝見すると、~ああ、こんなだったかな~なんて思い、懐かしさと現在の発展の姿に驚くばかりです。
私の記憶では、牛丼吉野家の前に楽器のニコニコ堂があった気がします。そのニコニコ堂西口店がなくなり、そのあとに牛丼吉野家ができたと思います。つまり「ヤマハエレクトーン」看板はニコニコ堂、昭和50年には牛丼吉野家はまだないのでは?と思います。
間違っていたらごめんなさい。
励みになります。西口の変化は今も続いており、今後が楽しみですね。
昭和50年頃と昭和51年頃、いずれも「頃」ということで年代に幅があります。実際と前後している可能性もあると考えられます。
冒頭で魔法風呂の看板が替わった昭和54年頃とされているカラー写真ですが、写っているタクシーが230/130セドリックやHA30グロリアと、昭和40年代後半のものです。
どうやらその3枚、年代が逆のようですね。
ご指摘ありがとうございます。
私も3枚は逆のように思えてきました。
いつか、当方が帝都・大井町にて鉄道グッズのお店で、昔の記念キップを色々と探してたら、1982.6.23東北新幹線開業記念の武州・大宮駅界隈の空撮写真がいちめんである、大宮駅の記念キップがあり、ヒジョーに欲しかった当方は、胸中大号泣状態で買いましたが、リアル中学校1年生(注・実家のある神奈川県下の湘南地区)の時に展示物のひとつとしてあったのを見て以来、30ウン年の歳月を経て、漸くゲットできて良かったのを覚えてます。
さて、新幹線開業前年の夏に当方は家庭の事情により、生まれ育って住み慣れた武州・大宮の地を、泣く泣く引っ越しせざるを得なかったものの、最近の東京電力さんが放ったスマホアプリの普及促進動画で視る様に、オシャレでトレンディーな今の西口ではなく、あの雑然としててゴミゴミしてた駅前西口商店街に、ランドマークだった埼玉県商工会館と、古ぼけた桜木小学校の校舎、そして国鉄官舎などが未だに当方の脳裏に残ってます。
以上をもちまして、失礼します。
一度、国道17号付近で乗せていただいた車を降り、大宮駅まで歩いたことがありました。その時、再開発前の西口駅前通りを歩いたのですが、すごく田舎っぽい感じがしました。それは異様な雰囲気でもありました。
そして、西口から東口までは地下道を歩きました。今思えばこれが最初で最後の地下道歩きとなりました。
では、失礼します。