咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

伊能忠敬が歩いた岩槻の道

2020年04月24日 | 日記
2019年08月25日ブログで私は伊能忠敬の地図でさいたま市付近を見た。
そして岩槻方面この道(赤)は日光御成道だと思うと書いた。
伊能忠敬e史料館のホームページから伊能測量DataBaseサービスを開き、さらに伊能測量概要測量日記一覧を開く。そこから14巻第7次を開く。
第7次伊能忠敬測量隊は江戸を出発して6日目に岩槻城下に宿泊した。
翌日は篠津村に宿泊した。

伊能図で岩槻から篠津村までを見る。
岩槻付近を拡大する
明治の迅速測図に日光御成道を赤で示すとこのようになると思う。
伊能図のこの部分と重なると思う。

岩槻の日光御成道から篠津村へ向かった道の岩槻付近を赤で示す
迅速測図でその道に重なると思われるところを赤で示す
現在の地図(ヤフー)のこの道と概ね重なると思う。
2019年3月赤丸の三差路東を見た。西を見た。

迅速測図を拡大してその道(篠津村へ向かった道)を赤で示す
日光御成道分間延絵図武州埼玉郡岩附宿を見る。
篠津村へ向かった道はこの道だと思う。
拡大すると出口の文字がわかる。
日光道中絵図でその場所を見ると旦過町口と表示されている。
江戸時代岩槻城下は土塁(大構)で囲まれており、旦過町口はその土塁が部分的に途切れて門(木戸)が設けられていたところだと思う。
旦過町口を出たところの青で示したところは堀だと思う。
平成4年発行さきたま双書『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』には “ 大構は内側から土塁・堀・道路の順で造られ、内側は登り易く、攻撃側の外側は急勾配になっていた ” と記述されている。
堀に沿って道路があったという。
伊能測量隊は旦過町口を出てすぐ右折したのではないだろうか。
伊能図に青矢印で示したわずかな直線区間である。
岩槻城下の宿泊場所は本陣だった。
本陣は日光御成道沿いにあったと思う。
本陣を出てこのような道筋で篠津村へ向かったのではないだろうか。

ヤフー地図を拡大してその道を赤で描くとこのようになると思う。
現存する道ではこのようになる。
大正6年の地図にはこのような道があった。

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