咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

中山道大宮宿の西を流れていた小川

2018年07月08日 | 日記
2017年11月15日ブログで、私は平成11年発行『桜木のあゆみ』に案内されている大宮駅西口にあったドブ板横丁について触れた。『桜木のあゆみ』にはドブというのは、もともとあった自然の小川を、明治27年、鉄道工場を建設するにあたり、流れを変えて工場の排水路にしたものだとあった。

明治18年頃の地図を見る。
中山道と氷川参道を赤で示す
現在の地図に中山道と氷川参道を赤で示す
明治18年頃の地図には中山道の西を南北に流れる川が描かれている。その川を青で示す

昭和63年大宮市立博物館発行『わたしたちの博物館 第15号』に大宮宿の橋についての解説があり、“ 旧中山道には宿内の家庭排水を流す「悪水堀」が、道の両側に流れており、吉敷町と下町の2ヵ所で、中山道を横切っていました。そこには各々安藤橋・涙橋という石橋が懸っていました。” と記述されている。
安藤橋・涙橋の下を流れていた悪水堀(排水路)は東から西方向に流れていたのか、それともその逆だったのかは不明である。東から西へ流れていたとすれば、悪水堀は中山道の西を流れる川に合流していたかも知れない。

明治18年頃の地図に黄で示したところは鉄道だと思う。高崎線上野~熊谷間開業は明治16年であるが、この地図には鉄道が途中までしか描かれていない。数年前の測量と思われる。
明治18年頃の地図にある川を現在の地図にアバウトではあるが、青で描いた

この川の下流を見る。
見沼代用水西縁から分かれた高沼用水に合流する
平成17年発行『武州与野町物語(福田英夫著)』には高沼新田の解説で、“ 見沼用水から水を引くため、北袋に川道を掘り、中仙道の下を潜らせ、落合の高谷で北から流れる悪水と合体させ、” との記述がある。
「北から流れる悪水」というのは今取り上げている川のことだと思う。そうすると高沼用水が開削される前からこの川はあったということだと思う。

大宮氷川神社の周辺には湧き水が多くあったようである。
私が今取り上げている川は、大宮台地浦和大宮支台の湧き水が鴻沼低地の鴻沼(下落合から鹿手袋にかけてあった南北に細長い沼)に流れ込んでいた川だと推量する。
新編武蔵風土記稿の元禄年中改定図に鴻沼と見沼を青丸で示す。このころ、見沼は溜井の時代で水をたたえていた。鴻沼は自然の沼だったと思う。
大宮氷川神社の近くの湧き水を水源とする川は、東は見沼へ流れ、西は鴻沼へと流れていたのではないだろうか。

中山道大宮宿の西を鴻沼へと流れる小川が既にあったため、享保期工事責任者井沢弥惣兵衛為永は水色の区間を開削すれば、見沼代用水西縁から鴻沼までの引水が可能になると考えたのではないかと思う。そうすれば既存区間は補強工事で済むのではないか。
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