咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

上落合交差点付近の消えた県道

2016年04月10日 | 日記
2015年09月27日ブログ『廃止された県道大宮志木線 (1)』で、私は大正9年認定埼玉県道67号大宮志木線の道筋を、昭和4年頃の地図をベースに、大宮町から与野町を通過するまでをこのように推定した。
大正13年の地図に鉄道と交差するところを赤で示す

昭和56年発行『与野市史 近代史料編』に与野に関係する昔の新聞記事が史料として紹介されているのだが、大正10年にこのような記事がある。
「大宮停車場の南方なる大宮与野間道路踏切り」というのは、大正9年認定埼玉県道67号大宮志木線の踏切ではないかと思う。

明治35年大宮町営業便覧の大宮町略図に、中山道から分岐して鉄道と交差する「与野道」が描かれている。この与野道がその後の県道大宮志木線になったのではないかと思う。

平成17年さいたま市立博物館発行『ウォーク・イン・中山道大宮宿』所載のこの略図に「与野道」が表示されている。ヤフー地図にその道(与野道)を赤で示す

昭和63年発行『与野市史 通史編 下巻』所載の昭和4年ごろの上落合地図を見る。県道と表示がある道は大宮志木線だと思う。この地図で県道を中山道まで延ばすとこのよう(赤)になると思う。この地図は吉敷町ガード(地下道)が開通している。

昭和2年大宮町全図に大宮志木線を赤で示すこれが旧道(踏切)で、こちらが新道(地下道)ではないかと思う。
昭和4年ごろの上落合地図に旧道を赤で示すとこのようになると思う。

昭和21年の空中写真を見る。県道大宮志木線(新道)と思われる道を黄で示す
旧道はこのような道(赤)だったのではないかと思う。
現在の地図に大正9年認定当時の県道大宮志木線を描くとこのようになるのではないだろうか。

ところで、大正10年の新聞記事はオーバブリッチ建造を求める内容であったが、実際には地下道が出来た。オーバブリッチというのは文脈から人道跨線橋のことだと思われるが、時代の要請は自動車通行可能な道路を必要としていたのだと思う。
『大宮市史』の年表には、昭和元年9月1日 “ 大宮駅に大宮合同運送会社営業開始 ” という記事があり、昭和9年大宮商工並二名勝案内地図のここ(赤丸)に大宮合同運送会社はある。昭和4年ごろの上落合地図のこのあたり(赤丸)で、貨物駅とは目と鼻の先である。山丸製糸、片倉製糸、渡辺製糸にも近く、中山道と新国道を自動車で自由に行き来できるようにする必要があったのだと思う。
コメント
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