「早くしなさい」母親は、一日に何度、この言葉を口にするでしょう
ぐずぐずと支度をし、保育園や幼稚園に遅れそうになる・・・おしゃべりばかりをしてしまったり、テレビにくびったけになって、いつまでも食事を終えられない・・・いつまでも寝ない、いつまでも起きない・・・等々
そのたびに、「早くしなさい!」と怒鳴ったり、脅したり、諭したり。
でも、何度も注意をしたところで、本人達が「早くしないと、どんな問題が生じるのか?」「どんな不都合があるか?」がわからない限り、いやいや、実際に早くしなかったことで痛い目に遭わない限り、「早くしないといけない」とは思えないものですね。
たまたま、子どもに対して頻繁に口にする「早くしなさい」という言葉を例にとりましたが、子どもに限らず大人であっても、人はどんなことも、自分自身で「気づき」、それを意識しない限り、実践、実行は出来ないのだと思います。
たとえば・・・「どんなに美味しいからと言って、食べ過ぎたら太るよ」と注意されても、やっぱり食べてしまう・・・でも、とても大事なお出かけの日、お気に入りのパンツを履こうとしたら、ギャー、チャックが上がらないーとなって、初めて「ああ、毎日、食べ過ぎてたからだわ」と気づき、やっと、その日からは最後のふたくち、三口を我慢するようになる・・・なーんてね。
じつは今日、私はとても心に残る、深い話を聞きました。
それは、カトリック校に通う小学校低学年の子の言葉・・・ここのところ、ずっと続いているISILのニュース。その子のご家庭でも、子どもにも理解できるように伝えたり、お父様やお母様のお考えを話したりされていたようです。親としては、何とも不条理な行いの数々に憤り、言葉に出来ない腹立たしさを感じていた時、お嬢様はこんなふうに話したのだそうです。
「学校でね、あの人達が『自分達の行いが、悪いことだって気づきますように』て毎日、お祈りをしているよ」と。
この言葉を読み、私は、ああ、なんて深いんだ・・・と心揺さぶられました。
あの人達の行いは「悪」ですと言うのは簡単なことです。けれど、この言葉は、そうではないのですね。自分達の行いが「悪」である、と自分自身で気づけるように・・・祈る、というのです。
思えば、日頃の生活でもそうですね。
自分の行いが、相手(他者)に対してどういう意味を持つのか?自分の言葉が、相手(他者)にどんな思いをさせる言葉なのか?
こういうことに自分で気付き、意識、認識できない限り、ずっと人を傷つけたり、不快にさせたりするでしょう。それがたとえ悪意のないものであったとしても・・・です。
私は、まだまだ幼いこのお嬢さんが、手を合わせ、一心に祈っている姿を想像します
大きな大きな悪の前には、この小さな子ども達の真摯な祈りがどんなに深くても、一朝一夕に届くとは思いません。けれど、それでもなお、子ども達の祈りの深さ、強さに心動かされ、そして「祈り」そのものが子ども達の心に与える大きな意味を感じています。
ぐずぐずと支度をし、保育園や幼稚園に遅れそうになる・・・おしゃべりばかりをしてしまったり、テレビにくびったけになって、いつまでも食事を終えられない・・・いつまでも寝ない、いつまでも起きない・・・等々
そのたびに、「早くしなさい!」と怒鳴ったり、脅したり、諭したり。
でも、何度も注意をしたところで、本人達が「早くしないと、どんな問題が生じるのか?」「どんな不都合があるか?」がわからない限り、いやいや、実際に早くしなかったことで痛い目に遭わない限り、「早くしないといけない」とは思えないものですね。
たまたま、子どもに対して頻繁に口にする「早くしなさい」という言葉を例にとりましたが、子どもに限らず大人であっても、人はどんなことも、自分自身で「気づき」、それを意識しない限り、実践、実行は出来ないのだと思います。
たとえば・・・「どんなに美味しいからと言って、食べ過ぎたら太るよ」と注意されても、やっぱり食べてしまう・・・でも、とても大事なお出かけの日、お気に入りのパンツを履こうとしたら、ギャー、チャックが上がらないーとなって、初めて「ああ、毎日、食べ過ぎてたからだわ」と気づき、やっと、その日からは最後のふたくち、三口を我慢するようになる・・・なーんてね。
じつは今日、私はとても心に残る、深い話を聞きました。
それは、カトリック校に通う小学校低学年の子の言葉・・・ここのところ、ずっと続いているISILのニュース。その子のご家庭でも、子どもにも理解できるように伝えたり、お父様やお母様のお考えを話したりされていたようです。親としては、何とも不条理な行いの数々に憤り、言葉に出来ない腹立たしさを感じていた時、お嬢様はこんなふうに話したのだそうです。
「学校でね、あの人達が『自分達の行いが、悪いことだって気づきますように』て毎日、お祈りをしているよ」と。
この言葉を読み、私は、ああ、なんて深いんだ・・・と心揺さぶられました。
あの人達の行いは「悪」ですと言うのは簡単なことです。けれど、この言葉は、そうではないのですね。自分達の行いが「悪」である、と自分自身で気づけるように・・・祈る、というのです。
思えば、日頃の生活でもそうですね。
自分の行いが、相手(他者)に対してどういう意味を持つのか?自分の言葉が、相手(他者)にどんな思いをさせる言葉なのか?
こういうことに自分で気付き、意識、認識できない限り、ずっと人を傷つけたり、不快にさせたりするでしょう。それがたとえ悪意のないものであったとしても・・・です。
私は、まだまだ幼いこのお嬢さんが、手を合わせ、一心に祈っている姿を想像します
大きな大きな悪の前には、この小さな子ども達の真摯な祈りがどんなに深くても、一朝一夕に届くとは思いません。けれど、それでもなお、子ども達の祈りの深さ、強さに心動かされ、そして「祈り」そのものが子ども達の心に与える大きな意味を感じています。