土曜日の早朝より娘の転居先を探しに大阪まで。
当初生駒方面を考えていたのですが、色々
思惑があり西宮へ決定。
日曜は大阪も結構寒く、帰りに神戸で高速道路での事故に遭遇し
家に帰り着いたのは日付が変わってました。(疲れました)
画像はなにも関係ないですが高速道路で小さいサイドカーが
走ってましたのでパチリ。
追い越してみるとスクーターで、小さな子供が隣に乗ってました。
当初生駒方面を考えていたのですが、色々
思惑があり西宮へ決定。
日曜は大阪も結構寒く、帰りに神戸で高速道路での事故に遭遇し
家に帰り着いたのは日付が変わってました。(疲れました)
画像はなにも関係ないですが高速道路で小さいサイドカーが
走ってましたのでパチリ。
追い越してみるとスクーターで、小さな子供が隣に乗ってました。
今回はでしたか?
いつか神戸が渋滞で六甲山トンネルを通ってバスが迂回した事が有りました。
色々思惑の1番目は縞模様(笑)
実は、私の娘もM大を卒業して須磨区で住んでおり、今は、神戸市の小学校の教師をしています。
三月の植え替えまでには、西の方面の観音寺の「三○園」へ、水苔を調達にいきたいと考えています。
花時には、是非お邪魔させてください。よろしくお願いいたします。
未だ就職が決まらず、先に住む所を決めそれから
就職先を決めるのだと言ってます。
買い手市場から売り手市場に様変わりした昨今ですが
こんなのんきな事で良いのか少々あきれています。
私が就職したのは昭和54年、当時就職難の時代で
上場企業の求人は皆無でした。
私も地元の中小企業に就職しました。
それから数年すると、一転して売り手市場となり、
電子系の学生などは、ある時期ホテルに監禁され
る状況となってました。
今になって思うのですが良い時期、悪い時期に
就職した人も、その後の精進で今があると思います。
良い時期に良い企業に就職した方がずっと良い目に
あっているかと言えばそうは限らない、むしろ就職難
の時期に仕事に就いた人の方が頑張っていると思えるのですが、どうなんでしょうか。
確かに今の学生さんたちは可哀相ですね。
自分のやりたい仕事につけないのですから。でもどうでしょう必ずしもやりたい仕事を今の我々がやっているでしょうか?それは多分ごく一部の人だと思います。また現在は就職難という事も有りますが、親が子供を甘やかし過ぎているのではないかなとも思っています。例えば一人で生活していたら家賃、食費等現実的にお金が必要になってきます。そうしたらやはりとりあえずなんでも良いから必死に働こうとするはずですが現実は.........
幸い家は2人の子供がいるのですが、長女は昨年、長男は一昨年なんとか就職しました。
で、今まで順当に来たかと言うとやはり途中で何度か挫折していたみたいでその都度いろいろ説教し現在最初の所で継続して働いております。でもこれで良いのかは疑問です。
偉そうのコメントしてすみません。
昔娘によく言っていたことがあります。
何時までもおまえの面倒はみれない、なぜなら
こちらが先にあの世へ・・・
たぶん理解していないと思いますが、私も
父親が亡くなってようやくそのありがたみが分かりました。
昭和54年の就職ですか?。もし大学卒で就職なら私と同学年?。(昭和31年生まれ)
確かに就職難でした。私は、もう少し経てば良くなるかなと勝手に考え、修士課程の試験を受けましたが、アルバイトとクラブ活動ばかりして勉強しなかったので落ちて改めて大学に来ている就職の募集を見ても殆ど無く。結局、研究生、その後修士2年、で昭和57年に就職しましたが、3年でそこそこ環境は変わってましたね。
最近では、会社の学生の1次面接に付き合うこともあるんですが、最近の学生は面接の勉強は良くしてます。私の頃は全くのぶっつけ本番でした。
うちの娘も来年で専門学校が終わるが就職に関しては全く考えてないようです。
私は昭和33年ですのでkennさんが2歳年上ですね。
滑り止めに受けた高専の受験に受かったので、受験勉強はもうイヤだと思いそのまま進学しました。
学科は金属工学、昔で言う冶金工学でした。
先輩は高炉各社等に結構就職してましが我々の時は
求人さえありませんでした。
当時学校は全寮制でして男ばかりで女っ気ないで5年間過ごしました。
入寮した晩に、竹刀をもった先輩に寮生活の心得を
二時間ほど正座させられ優しく教わりましたので
以降少々のことでは応えなくなりました。
学生時代はkennさんと同じくバイトと部活にあけくれていました。バイトは家庭教師で週二回夕食付きで
1万円くらいの相場でした、友人で教え子と結婚した
不埒者がいました。
部活は陸上で短距離が専門で、四国には6校しか学校がありませんでしたので2年の時から四国大会でトップでした。
久しぶりに30年くらい前の事を思い出しました。