鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

湧きあがる坂本龍馬ブームに「俺もこんな男じゃなかった」と驚く?

2010-05-17 | Weblog
 東京人(都市出版刊)が6月号で「坂本龍馬の江戸東京を歩く」を特集していおり、そのなかで「司馬さん、龍馬はそんな男じゃありません」と題して作家の山本一力、菊池明両氏の対談を掲載しているのが面白い。この1月から始まったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」で再び日本中に坂本龍馬ブームなる現象が起きているのを斜めから分析したもので、なるほどと思わせる。世の中が混迷すればするほど改革者たる坂本龍馬のような人が持てはやされるが、いまの坂本龍馬ブームは多分に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によって作られた虚像が一人歩きしている、というのだ。
 対談は昭和3年に高知・桂浜に坂本龍馬の銅像が建てられたが、地元高知県では当時から坂本龍馬より、板垣退助の方が人気が高かったという。それが、いつの間にか坂本龍馬の人気が一挙に全国的な人気となったのは一重に昭和37年に司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を執筆して、司馬遼太郎の竜馬像なるものが流布されてからだ、という。そのなかにも書いてある明治37年2月4日に宮中で、日露交渉の最後の御前会議が開かれ、日露関係を断絶し、日露戦争の火ぶたを切ることとなったが、当時ロシアは大国で、日本人のだれもが勝てると思っていなかった。その数日後、皇后陛下の昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬を名乗る白装束の武士が現れ、「魂魄は海軍に留まり、いささかの力を尽くすべく候」と言って消えた、という。結果的には日露戦争を勝利に導いたとして、坂本龍馬は「護国の軍神」として奉られることとなった。
 司馬遼太郎は執筆にあたり、東京・神保町の古本屋街で竜馬にまつわるこうしたエピソード、資料を買い漁ったといわれており、そのうえで竜馬像を作り上げが相当の脚色、想像が加わったことは間違いない。山本一力、菊池明氏は龍馬のアイデアである船中八策や大政奉還などはいずれも勝海舟や、後藤象二郎らの受け売りである、と喝破する。龍馬が師と仰ぐ勝海舟はもともと暗殺しよう、として近づいたと氷川清話に出ている、という。
 両氏は坂本龍馬はオリジナリティがない、ともいう。ただし人の受け売りを出すタイミングに優れていたし、何よりも運が強かった、とも指摘する。そして幕末の動乱のなか、坂本龍馬は長州なり、薩摩、江戸へそれこそ縦横無尽に動き回るが、そんあことができたのはおカネがあったからだ、という。龍馬の実家の才谷屋の財力はケタ違いだったし、姉の乙女には「百両ありがとう」と書いた手紙が残されている、という。
 NHKの「龍馬伝」は毎週欠かさず見ているが、見ていて思うのは千葉道場で龍馬が免許皆伝となっていることも大きい、と思っている。幕末の混乱期とはいえ、龍馬が接する武士の価値を決めるのは何といっても最後は腕っぷしである剣術ではなかろうか。話し合いなり、交渉に臨んでも剣術ができるということを相手に悟らせることは何よりの交渉術だったのだろう。それこそ、龍馬の腕がたつということは知れ渡っていて、無言の説得力となったことだろう。勝海舟の付き人となったのも剣術のなせる技といってもいいだろう。
 それと思うのは幕末の混乱期を生き延びるのは並大抵のことではなく、坂本龍馬といえども無我夢中、いわば手探りで生き抜こうとしていて、本人はそれほど先行きの見通しがあったわけではなさそうだ、ということだ。幕末の当時、そうしたセンスがあったのは勝海舟くらいで、龍馬はなんとなくそんな感じを抱いて、勝海舟についていったのだろう。そうした愛すべき人物を見出した司馬遼太郎は偉い、いえば偉いといえる。
 NHKの「龍馬伝」は16日は「収二郎、無念」として龍馬の幼な馴染みの恋人の兄が不慮の切腹をする場面を放送していたが、土佐勤皇党の武市半平太もあえない最後を遂げる伏線となっている。龍馬も最後は近江屋なる宿屋で無念の最期を迎えるが、後世にこれほどもてはやさせることになるとは夢にも思わなかったことだろう。地下で眠る坂本龍馬も案外、俺もこんな男じゃなかった、と驚いているのかもしれない。
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