鈍想愚感

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日本の政治家にエストラーダ元大統領の爪のアカを煎じて飲んでほしい

2010-04-23 | Weblog
 岩波書店発行の雑誌、「世界」の5月号でお「沖縄は未来をどう生きるか」と題して、元沖縄県知事の大田昌秀氏と評論家の佐藤優氏が対談しているが、そのなかで大田氏が1991年にフィリピンが米軍基地の使用を認めない決定をしたと述べていた。いまの沖縄・普天間基地の返還と同じような状況のなかで、日本より対米交渉力がないと思われていたフィリピンがそんな大胆な決定ができたのか、極めて興味深い。当時の日本の政権を担当していたのはもちろん自民党であるが、話題にのぼったような記憶がない。
 大田氏によると、91年9月16日、フィリピン議会上院で、47年に結ばれた米軍基地貸与条約の期限切れに際し、比米友好協力安全保障条約が批准されることとなった。同意されれば、スービック米海軍基地の使用を2001年の9月まで10年間延長し、フィリピン側が同意すればその後の使用にもついても協議できる、いわば無期限延長にも道を開く内容だった。米国はその見返りとして最初の1年間は3億6280万ドル、次の年から基地使用終了まで毎年2億300万ドルを支払う旨の約束があった。ただ、この支払いはブッシュ米大統領がアキノ比大統領に書簡で約束したに過ぎず、条約には盛り込まれず、必ずしも実行される保証はなかった、という。
 フィリピン憲法の規定では新たな条約が批准されるためには上院(定員24)の3分の2、つまり16議員以上の賛成が必要とされていた。で、採決の結果は賛成11、反対11で、さらに議長が反対に回って、新条約は否決され、翌92年11月24日に在比米軍基地の全面撤去が実現された、という。サロンガ上院議長は「この日こそ真の独立の日」として喜んだ、ともいう。
 しかもスービック基地の弾薬庫だった大きな建物が縫製工場となり、若い女性が中古ミシンを踏んでつくった高級紳士服が欧米に向けて大量に輸出されている、いう。基地は工場用地として転用され、台湾はじめ200社以上の企業が進出したほか、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議場として利用されたりしている。さらには米軍基地が撤去されて懸念された経済の落ち込みはなく、フィリピンのGDPの実質成長率は92年は0.3%だったが、94年には2.1%と成長した、という。
 当時日本で政権を担当していたのは自民党で、海部俊樹総裁だった。当時の沖縄の米軍基地がどんな状況だったのか、何も思い出せないが、日米安保条約は1960年に締結され、91年は改定の年でもなんでもないので、フィリピンのこうした動きが日本でなんら注目されていなかったのもわかる。当時の海部首相にフィリピンと同調して米軍基地撤去を米国に迫ってほしい、と望んでも無理なことだったのは十分に理解できる。
 米国とすれば、日本の沖縄に米軍基地があるので、フィリピン・スービック基地が撤去されてもアジア極東の防衛上、なんら困ることはない、との判断があったことも十分に考えられる。日本とフィリピン両方の米軍基地が撤去されるようなことになれば、必死になってその動きを止めに入ったことだろう。当時、少なくとも日本では基地撤去への政治的な活動はなかったことから、米国としては冷静でいられたのだろう。
 しかし、対米国への交渉力を考えた場合、どう見てもフィリピンが日本より上だ、とは思われない。国の規模なり、経済力からして日本がフィリピンの後塵を拝することはまず考えられない。なのに、なぜフィリピンが米軍基地の撤去を実現できたのだろうか。海軍基地と空軍基地の差もあるかもしれないが、フィリピンでできたことがなぜ日本ではできないのか。経済は一流だが、政治は3流といわれる日本の国際的な地位のなせる業なのか。
 91年当時、副大統領で、後に大統領となった俳優出身のジョセフ・エストラーダ氏が訪れた大田氏に「一時的に経済は苦しくなるかもしれないが、フィリピン国民は主権国家としての尊厳と誇りを取り戻すことができた」と語った、という。いまこそ、日本の政治家にエストラーダ元大統領の爪のアカを煎じて飲んでほしい、と痛切に思った。
コメント (2)
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