豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

西山松之助 『江戸文化誌』、大石慎三郎 『大岡越前守忠相』

2018年11月03日 | 本と雑誌
 文化の日にふさわしく、読んだ本の話を・・・。
 と言うのはやや正直でない。断捨離の最中に出てきた本をついつい読んでしまった、というのが実相である。

 最初は、西山松之助『江戸文化誌』(岩波書店、1987年)。

 「江戸学」を唱える著者が岩波市民セミナーで話したものを活字化した書物。
 「江戸学とは何か」、「お江戸日本橋」、「山の手と下町」、「江戸ッ子」、「江戸の名人芸」などの7章からなる。

 江戸は完全な「新開都市」であり、諸国から参勤交代などで集まってきた田舎者が寄り集まってできた町であること、その連中が銭湯で会話する中から、お国言葉に代わっていわゆる「標準語」ができたこと(ちなみに江戸中期まで江戸の銭湯は混浴だったらしい)、日本橋が町政や商業、交通の中心地だっただけでなく、平賀源内や杉田玄白が住み、北斎や歌麿が住み、印刷・出版業者が集まる江戸の科学・文化の中心地だったことなどを知った。

 生粋の「江戸ッ子」は、人から「江戸っ子」と言われるを嫌っていたが、著者の「江戸ッ子」論によって、池田弥三郎のような「江戸っ子」が「江戸っ子」であることに誇りを持てるようになったと著者に語ったというエピソードもある。
 だいたい自分を「江戸っ子」などと吹聴する人間は、東京生まれであること以外に自負すべきものを持たないような人士が多いように思うが、本当の「江戸っ子」は他人から「江戸っ子」などと呼ばれるのを嫌がっていたとは知らなかった。

 ちなみに著者によれば、本来の「江戸ッ子」とは日本橋と京橋の間で生まれたものを意味し、銀座生まれも「江戸っ子」ではなかったらしい。池田弥三郎さんも銀座生まれであるが。

 山の手、下町の境界線論争は本書でも決着を見ない。
 しかし、地理学的にはあの四谷のトンネル以西の台地が山の手であることに異論はない。中学校の地理の時間にそうならった。
 今では家屋が立ち並び、地理学的な境界は見えにくくなっているが、昭和20年の敗戦で東京全都が焼け野原になっていたころは、四谷以西が「山」だったことが肉眼で明らかに見えたという。
 
 そして、わが九段下の田安門の近くにある巨大な灯篭のようなものが、実は燈台であり、江戸湾の航海の道案内だったという驚く事実も知った。
 あんなに近くまでが海だったとしたら、南海トラフが起きたら都心はひとたまりもないだろう。

 歌舞伎の薀蓄、両国の盛衰などはあまり関心がないので飛ばしたが、三遊亭円朝がいかに研究熱心だったかという話などは、「噺家」であるべき教師にとっても参考になることである。


           

 次は、大石慎三郎『大岡越前守忠相』(岩波書店、1974年)。

 いわゆる「大岡政談」というか、「大岡裁き」の裁判ものを期待して読んだのだが、まったく正反対で、「大岡裁き」といわれる話はほとんどが中国由来のものか「板倉政要」に出てくる話や、他の奉行が行った裁判であることが、麻生磯次氏らによって立証されているそうだ。

 実母と継母が赤子を争う有名な話も中国に原典があり、有名な天一坊事件も実際はほかの奉行が捌いたという。ちなみに「裁き物」は、当時は「捌き物」と表記したようだ。
 実在の江戸町奉行、大岡越前守忠相が裁いた事案は実際には数件しかないらしい。

 実際の大岡忠相は経済畑を得意とする実務型のエリートで、あまりアピール力がなかったために、吉宗の改革を推進するためにあのような話(作り話)を流布させて、彼の(というか彼の政策の)イメージアップを図った、というのが事の真相らしい。

 「断捨離」といいながら、こんな風に捨てるつもりの本を読みだしたりしているので、しかも結局捨てられないので、定年の準備はなかなかはかどらない。
 なお、両書とも物置にしまってあったため表紙が汚れている。


 2018/11/3 文化の日。

 息子夫婦がお迎えに行けないため、昨日、頼まれて孫を幼稚園に迎えに行ったら、金色の折り紙を貼って手作りした「文化勲章」を胸に下げて孫が出てきた。幼稚園の先生たちのユーモアというか、パロディ精神に脱帽した。文化勲章受章の老人も幼稚園児も文化の担い手としては平等である。 


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