5日目 (2) 雨
今日は一日、雨になりそうな空模様でした
今頃 竹田城は天空の城かしら・・・そんな事が脳裏をかすめる山並みの風景です
一日ずれていたら・・・そう上手くはいかないのが旅というものですね
福知山から丹波篠山へ向かっている途中「木の根橋」の案内
木の根橋?木の根橋?って一体何?
思わずハンドルを左に切りました
ここは柏原(かいばら)の城下町
この八幡宮は万寿元年(1024)、京都石清水八幡宮の別館として創建された神社だそうです
拝殿は国の重要文化財にしていされていると有りましたが
さすが、この雨の中 坂道を登るのは躊躇われましたが
後で観光案内書で頂いたパンフを見ますと神社には珍しい三重の塔や
丹波佐吉作の力強い狛犬など寄らなかった事を後悔する様な説明が数々と有ったのでした
写真ではその迫力を表現できませんが実際ここに立ちますと樹齢1000年と言う時を経て
ここまで育った根にこれは見るべき価値のあるものでした
上の写真は陣屋跡の表玄関に当たる長屋門 下の写真はその柏原藩陣屋跡
陣屋は家督を継いだ織田信休が封印後約20年を経た称徳年(1714)に造営したもので
当時は約20000㎡の敷地に表玄関、中御殿、奥御殿のある主屋や台所
幕末には藩校の崇広館等が存在し
現存するのは文政3年(1820)に再建された表玄関の一部です (説明書より)
藩校で有った時には職員室や教室として使用されていたと言いますから何と興味深い事でしょう
織田家の家紋木瓜紋
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柏原には忘れてはならない人物も数多くおりますが
その内の一人「二の字二の字の下駄のあと」を詠んだ俳人田ステの生まれた地でも有ったのですね
恥ずかしながら、俳句は知って居ながらも田すての事は全く知らなかった事でした
この句が6歳の時の物であった事が更に驚きでした
「母様、見て! すてが歩いた後の下駄の痕が二の字に見えるわね」
そんな幼い頃の母との言葉が頭に浮かんできます
此方は明治18年(1885)に建てられた黎明館で近代初等教育施設の建物としては
兵庫県下では最古の部類に属するそうです
内部は歴史資料館、喫茶、貸室として今も現役でした
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柏原城下町は落ち着いて廻ればこの他にも見どころはたくさん存在する様です
既に遅しですが10月中旬には柏原藩織田祭りが有り総勢約100名の武者行列も行われたのだとか
通り一遍では勿体なかった柏原でした
続く
冒頭の写真を見ると竹田城はさぞやと思われるような雲のかかりようですね。
ケヤキの大樹。最初の写真を見て橋のたもとに植わっているのかと思いましたよ。
これって根っこだったのですね。これには驚きました。
どうしたらこんな形に根っこが張るのか不思議な思いです。
柏原にも藩校の崇広館等などの歴史的建造物が残っているのですねぇ。
柏原は何度か通過したことがあり、かいばらと読むことも存じていたのですが、
お恥ずかしいことにこのようなところだとは全く知らなかったです。勉強になりました。
雲海はなかなかうまく出ませんね
出過ぎても頭が隠れて雲の中 難しいですよ
1000年のケヤキの根凄い初めは写真見てもどの部分かわからなかったのですが全部そうだった
びっくりしました
神社で三重塔確かに見たことないです
珍しものですね
たんば黎明館見た時 見たことあるな
宇和島に同じものがあったような気がして
ネットで写真見比べたけどほんとに似た建物
建てられた年を見たら1年早い1884年
ひょっとしたら同じ設計者なのかなと思ってしまいました
宇和島歴史資料館
私が小学生の頃mで宇和島警察署として使われてました
竹田城もこんな感じで見てみたいですね。
でも自然ばかりは思うようにいかず、ベストショットを撮るのは、
泊りがけで忍耐勝負になりそうですね。
「木の根橋」は知りませんでした。
木の根がこんなに育つなんて驚きです!
兵庫県民にもあまり知られていなのかも知れません。
実は知らないのは私だけだったりして・・・(^^;)
柏原藩の藩校は重厚感があっていいですね。
落ち着いて勉強できて、良い人格も育ちそうです。
黎明館も素敵な建物ですね。
今でも現役なんですね、いつか訪れてお茶してみたいです。
柏原城下町、じっくりと見て回るのが良さそうな所ですね(^_-)-☆
その3番目も先月完成して年明けには4番目の警察署に変わります
50年前の記憶あやふやですね まだ頭の中混乱してます。
すみませんでした
急ぎ足で移動してしまった事が、こうした景色を見ますと悔やまれ、せめてもの思いで想像の世界にカメラを向けました。
国道176を篠山に向かって車を走らせておりまして赤信号で停車していた時に何気なく見た「柏原」と言う地名が「かいばら」と読む事に驚いたのが先ず此処に寄るきっかけを作ってくれました。
でも此れだけでしたら多分、通過してしまった事でしょうが信号が青になり車を発進させようとした時に小さく「木の根橋」と言う表示が目に入りました。
めらめらと好奇心が湧き次の角を左折・・と言う事であの6mの川を跨ぐ見事な根っこと対面するに至った訳なのです。
丁度そこに観光案内所が在り町の概略の説明を受けた事で木の根橋だけでは無いここの歴史が私達に興味を与えました。
町は其れほど大きくは無くこじんまりとしておりましたが、雨のせいも有ったのかもしれませんが、しっとりと落ち着いた風情で散策には持って来いでした。
群馬からでは、もう一度と言う訳にも行きませんがイケリンさんでしたらドライブがてら行ける範囲内なのでしょう?
見逃した場所と言いますか訪れた場所がほんの一部だけでしたので、何時か機会が有りましたら是非、ご紹介頂ければ嬉しいです。
宜しくお願い致します。
木の根橋はケヤキの木自体が素晴らしい古木であり、それだけでも天然記念物として成り立つ訳ですのに、そこから張り出した根のお蔭で本体の影が薄れてしまうほど根の方が存在感を誇示しておりました。
とにもかくにも、こんな凄い根は此処でしか見られないのではないでしょうか。
宇和島の歴史資料館(旧宇和島警察署)を検索してみました。当時の洋館は中央に玄関を置き左右対称に部屋を配す設計が多い様で何処か似たような外観になりますよね。 何でも近くには砲台跡も復元されたとか。宇和島、頑張ってるのですねぇ。
実は私が育った家も主屋の前、庭を挟んで父の代で造った洋館(と言う程 立派では有りませんが商売をしておりましたので倉庫として利用・・以前ブログアップした事が有ります)が在り物心ついた時には一階を兄がアトリエとして利用しておりました。
今は写真に残るだけですが、もし残されていたならと思うと残念でなりません。
宇和島の警察署も歴史の流れの中で何度も改装、移築という変遷を経て漸く今の場所に落ち着く様ですね。
家の近くにも2年後、警察署が建設されるんですよ。
木の根橋を偶然、見つけたのは幸運だったとしか言いようが在りません。 ただ何気なく国道を通っているだけでは余程、目をアチコチに配っていなければ素通りしてしまいますもの。 この時は赤信号が私達に幸運を与えてくれた様です。
藩校も黎明館もこの小さな町の中、当時の財政が豊かで有った事の象徴だと言えるのでしょうね。
一般庶民には縁の無い学校なのでしょうが、こうした中から世に名を残す人物が排出されて行った事も、この地に優秀な人物が数多く居たという証しだと思いながら壁に貼られた資料に目を通して参りました。
田ステが生を受けた時代がもう少しずれていたなら下駄の音を響かせてこの高等小学校の玄関を潜ったのでしょうか。
その田ステは夫亡きあと京都で俳諧、仏道などの修行を受けたあと播磨国の天徳山・龍門寺の傍らに「不徹庵」と言う庵を建て後進の指導に当たったと言う事です。 柏原は素晴らしい女流歌人を輩出しましたよね。
柏原藩の城下町に保存されている長屋門と柏原藩陣屋跡は、よく保存されていて、江戸時代の雰囲気が伝わります。いい旅をなさっています。
明治時代に多くの建屋が壊されたことを考えると、郷土愛が支えた様子です。
群馬県甘楽町にも、織田家の一族の建屋(再建)とお墓があります。甘楽町によると、織田家本流はこの地に移籍されたと説明してます。
織田家の一族も、関ヶ原の戦い以降は大変だった様子です。
柏原は偶然、立ち寄った地でしたが今回の旅の中でも心に残る場所となりました。
我が町の箕輪城の様に日本百名城で有りながら何一つ資料が残されていない事を思いますと
この様に保存管理されている事が羨ましくもあります。
甘楽の小幡に楽山園が整備され現在、観光の名所となっておりますが
その東南の小高い場所、小幡の城跡や城下町を見下ろす場所に信雄以下7代の墓は在ります。
「楽山園」は織田信長の二男、藩祖・信雄により造られた大名庭園で憩うには大変気持ちの良い広々とした庭園なんですよ。
此処には何度も訪れておりますが今年は初めて大名行列を観に出かけて参りました。
町を歩いておりますと「雄川堰」や「小幡神社」「織田氏の位牌堂」等々織田家に繋がる物が当時を偲ばせてくれます。
ここも今頃は紅葉に彩られている頃ではないかと思います。